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「う……うーん……」
詩織は呻きながら、うっすらと目を開けた。全身が冷え切っていて、ぶるりと身を震わせる。ふと、その近くで火がはぜる音が聞こえた。
「気がつきましたか?」
親しみのある声がすぐ近くからかけられた。頭を起こすと、たき火に当たっている影人がこちらを振り返っている。影人は屈託のない笑みを浮かべた。
「よかったぁ、無事で」
「仙月さん? 私、どうして……?」
詩織は混乱した。起き上がろうとすると、全身、ずぶ濡れであることに気づく。どういうわけか影人も同様のようであった。
すると影人は、
「それはこっちが聞きたいくらいですよ。僕が駆けつけたら、早乙女さん、川の中に落ちているんですもの。危うく流されちゃうところでしたよ」
と経緯を説明した。詩織は思い出す。
「そうだ。私、降旗さんを訪ねて……」
首を巡らせると、すぐ近くに源六のテントがあった。詩織は、もう一度、渚と話し合ってもらいたくてここへ来た。しかし、何かに足を取られて転倒し……。そこからは記憶がない。
「それで私を助けてくれたの?」
「ええ、まあ。かなり苦労しましたけれど。とにかく、こっちへ来て、服を乾かした方がいいですよ」
詩織は影人に言われるがまま、たき火に近づいた。本当は服を脱いで乾かしたいところだが、影人の前でそれはできない。詩織は身を縮めながら、たき火に当たった。
「ところで早乙女さん、降旗さんには会えたんですか?」
影人に尋ねられ、詩織はかぶりを振った。
「ううん。私が呼びかけたら、『入るな!』って怒られて……。そのあとは自分でも何があったのか分からないけど、憶えていないの」
「ふーん、そうですか。じゃあ、どこへ行っちゃったんでしょうねえ。早乙女さんを助けてから、こっそりテントを覗いてみたら、誰もいませんでしたよ」
「そう……」
詩織は源六に避けられているのだと思った。渚と同じ年頃の自分が説得すれば、あの頑なな態度もどうにかなるのではと考えたのだが、むしろ逆効果だったらしい。詩織は自己嫌悪に陥った。
「まあ、そう気落ちしないで。服が乾いたら、ラーメンでも食べに行きましょうよ。一応、僕のおごりで」
影人は励ましのつもりで言ってくれたのだろう。詩織は少しだけ心が温まった。詩織が視線を投げかけると、影人は照れ隠しなのか、不意に顔を背ける。たき火の炎が影人の顔を赤々と照らしていた。
その瞬間、詩織の記憶にフラッシュバックのような光景が甦った。魚の化け物を一方的に痛めつける影人。本当は後ろ姿だったので誰かか定かではないのだが、詩織には影人に思えてならなかった。だが、それも現実だったのか、それとも単なる夢だったのか、その辺があやふやだ。
(まさかね……仙月さんが……とても有り得ないし……)
「どうしました?」
ジッと見つめる詩織の視線に気づいて、影人が振り向いた。いつもの人の良さそうな顔つきで。
「ううん、何でもない」
あれはきっと夢だ。詩織は悪夢のような光景を振り払い、忘れることにした。
一週間後──
「そうですか。父が姿を消しましたか……」
新宿歌舞伎町のランジェリー・パブ《パフューム》の近くにある喫茶店で、影人と詩織は呼び出した降旗渚を前にしてかしこまっていた。実の娘である渚には話しづらい内容であった。
「ええ。この一週間というもの、あの橋のテントには戻っていないみたいなんです。区としては、あのままあのテントを放置しておくわけにもいかないので、来週早々にでも撤去することになりました。もし、何か引き取っておきたいものがあれば、私たちが立会人になります」
「そうですか」
渚はずっと視線をテーブルのコーヒーに落としながら返事をした。
詩織は心が痛んだ。ようやく十三年ぶりに再会した父親が、またしても娘の前から姿を消したのである。詩織が一週間前に感じたのと同じように、渚も源六に避けられているという失望を味わっているに違いない。
ところが、渚は詩織の心配をよそに、ふーっとひとつ息を吐き出すと、口許に笑みを浮かべて、コーヒーに口をつけた。そんな渚の表情は、何かを吹っ切ったようなに見えた。
「やっぱり、父はまだ苦しんでいるんですね。十三年前の出来事を。多分、私と会ったことで、忘れかけていたことを思い出してしまったんでしょう。ダメですね。娘の私が父の気持ちを理解してあげなきゃ」
「渚さん……」
「いいんです。この前も言ったように、父には父の、私には私の人生があるんですから」
渚はコーヒーカップをソーサーに戻した。そして、窓の外へ視線を向ける。
「でも、もう一度会って、父にはちゃんと教えておきたかったな」
「?」
詩織は渚の言っている意味が分からず、キョトンとした。すると渚ははにかんだような笑みを浮かべて、左手をテーブルの上に置く。
「私、結婚することになったんです」
渚の指には、先日、会ったときにはなかった婚約指輪が光っていた。それを見た詩織が、まあ、と驚きに口を開ける。とっさに、おめでとう、という言葉が出なかったくらいだ。
渚はおどけるように肩をすくめた。
「お店に来てくれる常連さんなんですけどね。トラックの運転手で、子持ちのバツイチ。私より十歳も年上で、見た目もそんなに格好良くない人なんですけど、とにかく私と一緒になりたいって。最初は『何言っているんだろう、この人』って感じで、丁重に断っていたんだけど、あまりにも熱心だったものだから、つい……」
渚は自分で喋りながら苦笑した。きっと結婚を申し込んだときの男性の生真面目さを思い出したのだろう。詩織は、ちゃんと渚が結婚相手に愛情を抱いていることを理解した。
「私に新しい家族が出来る。そのことを思ったら、本当に嬉しくて。父にも、このことを報告しておきたかったんです。できれば結婚式にも参列して欲しかったな」
「そうだったんですか。おめでとうございます」
これでようやく渚も幸せをつかめるに違いないと、詩織は思った。心から祝福する。渚は笑顔を見せた。
「ありがとう。──そうだ、あなたたち、父の代わりに出席してくれない? 私、友人が少なくて、いてくれると助かるんだけど」
「ええ、そりゃあ、もう喜んで!」
「あっ、そうだ。花嫁のブーケ、あなたに投げてあげるわね。いい人と早く結婚できるように」
そう言うと渚は、意味ありげに詩織の隣にいる影人をチラリと見た。影人は相変わらず、その視線の意味を図りかねて、目をパチクリさせるだけ。一人焦ったのは詩織だ。
「な、渚さん! 私たちは別にそう言うワケじゃ!」
詩織は真っ赤になって否定した。その分かり易い反応に、渚は吹き出す。
「あはははははっ! いいじゃない? 私みたいに、もっと素直になったら、意外に結婚なんて早いんだから。いつもそばにいてくれる人って大事よ」
「だから、違うんですってば!」
詩織は顔から火を吹きそうなくらい恥ずかしかった。それにひきかえ、隣の影人は女二人が何の話題で盛り上がっているかも分からず、曖昧な笑みを浮かべるだけ。それが余計に詩織の気に障った。
帰り際、喫茶店を出たところで、影人が渚を呼び止めた。
「忘れるところでした。渚さんに渡すものがあったんです」
「私に?」
影人は持っていた紙袋の中から丸められた画用紙を取り出すと、それを渚に手渡した。
「降旗さんのテントを整理していたら出てきまして」
渚は画用紙を広げてみた。そして、思わず口許を覆う。
「これは……?」
それは渚が小学生の頃に描いた父親の似顔絵だった。
影人は源六の遺体を依頼主の紳士に頼んで、密かに埋葬してもらっていた。源六の死を渚に告げるべきかどうか迷ったが、これから幸せをつかもうと前向きに生き始めた彼女のことを思い、あえて伏せておくことにしたのだ。どこかで父親は生きている。そう思わせた方が渚のためだと影人は考えた。
その代わりに、源六が大切にしていた似顔絵を渚に渡した。影人がテントを調べた限り、十三年前を思い出させる品はこれしかない。過去を捨てたはずの男が、ずっと持ち続けてきたもの。源六の心情が偲ばれた。
「お父さん……」
渚もそんな父親の十三年間に思いを馳せたのだろう。渚は昔の絵を眺めながら、目に涙をためた。そして、古くなった画用紙を抱き寄せる。必死に涙を堪えようとしていたが、とうとう堪えきれず、嗚咽が漏れた。
そんな渚に詩織はハンカチを差し出してやりながら、そっと肩を抱いた。
涙がこぼれ落ちた。その雫は婚約指輪の上に落ち、きらめきとなって消えた。
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