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放課後、授業が終わった薫は剣道着に着替えると、体育館と併設された武道場へと向かった。
その後ろからついてくる気配。振り向くまでもない。その正体はつかさだ。
今日も一日、薫と断絶状態のままだったつかさは、何とか声をかけようとチャンスを窺っていたのだが、残念ながらとてもそのような雰囲気ではなかった。薫は今朝よりも神経をピリピリさせている感じで、近づくのもはばかられるくらいだ。つかさは、これまた、その原因が自分にあるとは、まったく気づいていない。当の薫にしても、さらなる苛立ちの原因が、今朝、つかさと沙也加が親しげにしていたことだと、自覚していない有様であった。
薫は捨てられた仔犬のように遠慮がちにあとをついてくるつかさを徹底的に無視し続けた。手にしている竹刀に、知らず知らずのうちに力がこもる。この鬱屈した憂さは部活で晴らそう。その相手を務めることになる剣道部員には気の毒な話だが……(苦笑)。
渡り廊下まで来ると、反対側から伊達修造がやって来た。一年生の中ではとびきりの美少女である薫に得意のホスト・スマイルを浮かべる。薫にしてみれば、正直なところ、今、社交辞令でさえしたくない気分であったが、だからといって上級生である伊達を無碍にすることもできない。話しかけてくる伊達に、ぎこちない笑みを返した。
「やあ、忍足くん。剣道着姿がいつも凛々しいね。これから部活かい?」
「こんにちは、伊達さん。秋の都大会も近いので、これから益々、稽古に励まないといけないので」
「大変だねえ。でも、忍足くんなら大丈夫。夏は初出場でいきなり三位だろ? 今度は優勝、間違いなしだよ」
女の子を言葉で持ち上げるのがうまい伊達だが、薫の剣道に関しては別におべっかを使ったわけでも何でもない。薫が全国レベルの腕前なのは周知の事実で、夏の大会が三位で終わったのも、際どい勝負の末、審判の誤審のせいだと言われているくらいなのだ。琳昭館高校一年生、忍足薫の名は、一躍、都内有力校の女子剣道部員の間に知れ渡っていた。
「ところで、私に何か用ですか?」
いつも伊達は、薫と顔を合わせると、一緒にお茶しないかと誘ってくるので、今日もそんなところだろうと思っていた。もちろん薫は、「部活があるので」と最初からやんわりと断る腹づもりである。ところが──
「いや、今日は忍足くんじゃないくて、武藤くんに用があってね」
「えっ、ボクに?」
薫の後ろで二人の会話を聞いていたつかさは、突然、名指しされて驚いた。伊達とはあまり面識もなく、話したことも数えるほどしかない。その伊達がどうして自分に用があるのか、さっぱり分からなかった。
目を丸くしているつかさに見つめられ、伊達はポッと顔を赤らめそうになった。それをなんとか自重しようとする。今はまだ、薫の手前もあるし、つかさに気持ちを悟られるわけにはいかなかった。
「う、うん、そうなんだよ、武藤くん。実は今後の生徒会のことで、キミに相談に乗って欲しくてねえ」
つかさは、益々、意味が分からなかった。現在の生徒会は、そろそろ任期が切れるはずだ。受験生の伊達を初め、三年生は生徒会から離れ、新しい生徒会は一年生と二年生が中心になるだろう。今のところ、次期生徒会は現生徒会副会長の待田沙也加が、そのまま生徒会長になるのではないかと目されている。
しかし、いくらなんでも、これまで生徒会とはまったく縁のなかったつかさが、生徒会長の伊達から相談を受けるとは思ってもみなかった。何か入閣への打診だろうか。それこそ、有り得ないことだ。
とはいうものの、生徒会長の伊達が、わざわざつかさに声をかけてきたのだ。ボクには関係ありませんと、簡単に断るわけにもいかなかった。
「ちょっと三十分ばかり、二人だけで話せないかな?」
伊達に言われ、つかさは仕方なくうなずいた。
「分かりました」
「じゃあ、外へ出ようか。他の生徒には聞かれたくない話なんでね。──じゃあ、忍足くん。部活、頑張って」
「はあ、どうも」
伊達とつかさという奇妙な取り合わせに釈然としないものを覚えながら、薫は二人を見送った。そのとき、薫は胸騒ぎのようなものを感じたのだが、すぐにそれを打ち消すと、そろそろ稽古が始まったであろう武道場へと先を急いだ。
つかさは伊達に連れられて、琳昭館高校の最寄り駅周辺にある喫茶店へと入った。喫茶店はいささか古い雑居ビルの二階にあり、高校生の伊達が出入りするには渋めの装いである。案の定、店内には商談中らしきサラリーマンや年輩の女性グループが目立ち、若い人の姿は見受けられない。つかさは、他の生徒に聞かれたくないということで、伊達がわざと選んだのかと思った。
だが、今後の生徒会についてというのは、もちろん伊達が口から出任せを言ったもので、つかさを連れ出すための口実だった。伊達は、まず、つかさを連れ出して二人きりになるという作戦の第一段階が成功し、内心、ほくそ笑んだ。
窓際のテーブル席に座った二人は、伊達はブルーマウンテン・コーヒーを、つかさはクリームソーダをそれぞれ注文した。
ウェイターが立ち去っていくと、まず、水を一口含んだ伊達が、ジッと向かいのつかさを見つめた。まったく動かない伊達の瞳に、つかさは居心地の悪さを感じる。
「あのぉ、相談って何でしょうか?」
いたたまれなくなって、先につかさが口を開いた。上級生への畏怖は、空手部ですっかり植えつけられてしまっている。妙に緊張して、手には汗までかいていた。
すると伊達は、不意に相好を崩した。
「そう固くならないでくれたまえ。リラックスして、ボクの話を聞いて欲しい」
「はあ」
「まず、武藤くんに訊きたいんだが、生徒会に興味はないかい?」
「え? 興味ですか?」
そんなことは、これまでまったく考えたこともなかった。そもそも、つかさはグループをまとめあげて、誰かを牽引していくタイプではない。優柔不断で、自分の意見を述べるのが苦手だ。とてもじゃないが、生徒会の仕事をしている自分が想像できなかった。しかし──
生徒会には、つかさがあこがれている沙也加がいる。もし、つかさが生徒会に入れば、沙也加との接点がこれまで以上に増えるだろう。沙也加のそばにいられるのなら、それも悪くないかもと、つかさは思い始めていた。
「キミも知ってのとおり、我が琳昭館高校は文武両道。学業にも力を入れているし、部活なども活発に活動している。これから、もっともっと、よりよい高校になっていくと思うんだ。それを形にするのが生徒会だよ。ボクも入学してから約二年半、ずっと生徒会の仕事をやって来て、学校のため、ひいては生徒たちのためにいろいろと尽力してきたつもりだ。でも、まだ充分じゃない。改善すべき点は、たくさんあるんだ。とはいえ、三年生はこの秋で生徒会からおさらばすることになる。仕方ない、それが決まりだ。だからボクは、この際、後継者を作っておきたいんだ」
「後継者?」
「そう。ボクと同じ理想を抱いた後継者だよ。その人物に将来の琳昭館高校を託したい」
「………」
「武藤くん、キミがその後継者になってくれないか?」
「ぼ、ボクが!?」
「そうだ。生徒会役員で一番大切なことは、どれだけ他人のことを思いやれるか、だ。生徒のための生徒会だからね。生徒会を私物化するようなヤツは選ばれるべきじゃない。ボクはね、キミみたいな生徒こそ、打ってつけだと思っているんだよ」
驚きに言葉もないつかさに、伊達は次々とまくしたてた。だが、本気でつかさを生徒会に勧誘しているわけではない。伊達はただ時間稼ぎで喋っているだけだ。
やがて、伊達の話が熱を帯びてきた頃、注文していたコーヒーとクリームソーダが運ばれてきた。伊達が待っていたのは、このときだった。
「──と、まあ、ボクはそのように考えているんだが。なぁに、今すぐ、答えを出してくれと言っているわけじゃない。じっくりと考えてもらって構わないよ。さあ、とりあえず、遠慮なく飲んでくれたまえ。ボクの話を聞いてくれたお礼だ」
伊達に勧められ、つかさは目の前のクリームソーダに手をつけようとした。そのとき、伊達が窓の外を見て、「あっ!」と叫ぶ。
「あれは忍足くんじゃないか?」
「えっ!?」
つかさはつられて、薫の姿を捜した。部活に行ったはずの薫が、どうしてこんなところへ。
つかさが外へ気を取られた隙に、伊達は手早くクリームソーダに小さじ一杯程度の白い粉を混入した。つかさは気づかない。白い粉は炭酸の泡と共に、緑色の液体の中に溶け込んだ。
「ごめん、ごめん。どうやら見間違いだったようだ。部活をしているはずの忍足くんが、こんなところにいるはずがないものな」
伊達は笑って誤魔化した。つかさは、まったく疑いもなく、伊達の言葉を信じる。そして、クリームソーダを飲もうとストローに口をつけた。
伊達は自分のコーヒーを飲むふりをして、上目遣いにつかさを観察した。クリームソーダがストローに吸い上げられ、つかさの口へとちゅるちゅるっと入っていく。伊達は自分の立てた計画が着々と進行していることに嬉々とした。
その後も、伊達は適当な会話で時間を引き延ばした。すると、次第につかさの様子に異変が表れる。瞼が重たそうに閉じられ、頭がグラリと揺れた。
「あ、あれ……? おかしい……な……」
つかさは強烈な眠気を覚えていた。意識が闇の中に引きずり込まれそうになる。抗おうにも抗いきれなかった。
クリームソーダの上に浮いているアイスクリームの冷たさで頭をシャッキリさせようと、つかさはスプーンを握った。ところが、スプーンはとんでもない重さで出来ているような感じで、なかなかアイスクリームのところまで持ち上げられない。やがて、睡魔に屈したつかさの手からスプーンが滑り落ちた。
「武藤くん? どうしたんだい、武藤くん?」
伊達は心配するふりをして、つかさの肩を揺さぶった。だが、すでにつかさは混沌とした眠りの中。何の反応も示さなかった。
「大丈夫かい、武藤くん?」
伊達は演技を続けながら、作戦の第二段階が成功したことに満足していた。
果たして、伊達の魔の手に陥ちてしまった、つかさの運命はいかに?
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