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WILD BLOOD

第12話 ゴエモンの逆襲

−5−

 九月も下旬に入ったが、昼間はまだ夏の名残をとどめているようだった。
「きゃーっ!」
 どっぽーん!
 悲鳴のような黄色い声がプールサイドに響くや、派手な水しぶきが上がった。琳昭館高校女子水泳部の一人が準備運動なしにプールへ飛び込んだのである。当然、彼女らのキャプテンがそれを見咎めた。
「こら、北島! フライングだぞ!」
 しかし、北島という女子生徒はキャプテンに叱られてもしれっとしたものだった。水面に身体を浮かべると、悠然と背泳ぎをし始める。
「私が悪いんじゃないですよ! 誰かに押されたんです!」
 もちろん、そんなことはウソだった。今日は夏が戻ってきたような暑さで、早く水に浸かりたかったというのが本音である。そんなことはお見通しのキャプテンはやれやれという顔をした。
「まったく、あんな調子で森里の城戸倉に勝てるのかねえ?」
 目下、都内の高校女子背泳ぎで注目を浴びているのは、昨年まで無名に過ぎなかった森里高校の城戸倉香里という選手だった。同じ背泳ぎの選手である北島は、とてもプライドが高く、二ヶ月前に行われた夏の大会で城戸倉香里に敗れ、次の大会では負けないと泣いて決意したのである。それなのに、元来、練習嫌いの北島は、一向に水泳に打ち込もうとする姿勢が見られない。キャプテンとしては、ため息をつきたくなるのも無理からぬ話だった。
「キャプテン、準備運動なんか端折って、早く練習しましょうよ!」
 北島はスイスイ泳ぎながらキャプテンに言った。要は退屈な準備運動をするよりも、好き勝手に泳ぎたいわけだ。無論、そんなことを容易に許すキャプテンではない。
「北島、上がれ! ちゃんと準備運動をしてからよ!」
「大丈夫ですよぉ、キャプテン! 私は途中で足つったりしませんから!」
 そのとき、北島はニヤリとした。キャプテンが一年生のとき、予選で足がつり、競争中止したことを揶揄しているのである。そんなこともあって、北島は未だにキャプテンに対しても臆するところがなかった。
「北島ぁ!」
 キャプテンは昔の話を持ち出されて、怒りを爆発させようとした。
「キャーッ!」
 ところが、突然、後ろの方から驚いたような悲鳴が聞こえ、キャプテンは感情の発露を呑み込まざるを得なかった。やや剣呑に、悲鳴を上げた部員を振り返る。
「きゃ、キャプテン……! プールに変なモノが……!」
 悲鳴を上げた女子部員の言葉に、キャプテンを初め、他の水泳部員もプールに目を凝らした。
 それは水の中で黒々としていた。いつも使用しているプールである。ゴミなどであるはずがない。しかも、それは水底をスーッと滑るように移動していた。
 誰も言葉を発さず、ただそれの正体を確かめようとした。澄んだプールの水の中で、それはときたま方向を変えながら、こちらへと近づいてくる。すなわち、まだ優雅に泳いでいる北島の方へ。
「どうしたの、みんな?」
 正体不明の存在に気づかない北島は、部員たちの青ざめたような顔色を見て、不審に思い始めた。それでも泳ぎをやめようとしない。その間にも水底の影は忍び寄っていた。
「北島、上がって!」
 強張った表情でキャプテンが叫んだ。だが、そう言われて、すぐに従う北島ではない。
「はあ? もういいでしょ、準備運動なんて。かったるいだけよ」
 北島はうんざりしたように言い放った。
「バカ! プールにワニが!」
「ワニ?」
 徐々にこちらへ近づいてくるモノの正体が判然とし、次々と水泳部員から悲鳴が上がった。そこまでに至って、ようやく北島はキャプテンの芝居などではないと気づく。
 しかし、すでに遅すぎた。
 ざばぁーっ!
「シャアアアアアアッ!」
 水面に凶悪なワニが頭を出した。鋭い歯が並んだ大きな口がガバッと開かれる。それは北島のすぐ横だった。
「きゃああああああっ!」
 予期せぬワニの出現に、北島はパニックを起こした。学校のプールにそんなものがいるなんて誰が想像し得るだろう。だが、ワニは実際にプールにいた。
「北島、早く上がって!」
 プールサイドにいるキャプテンにできることは、そんな指示を与えるくらいのことしかなかった。北島は、一旦、水の中に潜ると、背泳ぎからクロールへと切り替えた。背泳ぎよりは不得手だが、クロールの方がいくらか速い。しかし、いつワニに襲われるか分からない恐怖心に、北島の泳ぎはメチャクチャになり、まったくスピードが出なかった。
「早く! 食べられちゃう!」
 誰かが泣きそうな声で叫んだ。そのとき、ほぼ全員の脳裏に浮かんだ凄惨な光景。中にはとても見ていられず、目を覆う者も出た。
 ワニは再び水の中に没すると、逃げようとする北島に追いすがった。泳ぎなら人間よりも得意だ。音もなく北島の真下につける。
「北島ぁ!」
 いつも気に食わない、できれば水泳部から出て行って欲しいヤツだと思ってきたが、いざ、こういう場面に出くわすと、キャプテンは、心底、北島の無事を祈った。プールサイドまで辿り着いたら、すぐに引っ張り上げられるよう懸命に手を伸ばす。
 あと五メートル。
「──っ!?」
 もう少しというところで、北島の身体が沈んだ。ワニに捕まったのではない。北島の足がつったのだ。
 肝心なところで準備運動を怠ったツケが回った。溺れた北島の手は空を掻き、思い切り口からプールの水を飲み込む。顔面が恐怖と苦しさに引きつった。
 獰猛な人喰いワニが、そのようなチャンスを逃すわけがなかった。猛然と浮上し、水着姿の北島へ牙を立てようとする。
「北島ぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 全水泳部員から悲痛な悲鳴が上がった。



 その頃──
「《悪魔大使》さま……《悪魔大使》さま……起きてください!」
「う、うーん……むにゃむにゃ……」
「《悪魔大使》さまったら!」
「むおっ……!?」
 何やら背中に重くて柔らかいものがのしかかり、ようやく田隈太志は眠りから醒めた。寝ぼけ眼を擦りながら、状況の把握に時間をかける。眠っていた太志を起こしたのは、同じクラスの早乙女蜂子だった。どうやら背中に押し当てられた重くて柔らかいモノとは、蜂子の推定Hカップ爆乳だったらしい(笑)。
「なんだ、《ビューティー・ビー》か。私は昨日の徹夜が堪えているんだ。もう少し、寝かせてくれ」
 そう言って、太志は再び寝ようとした。結局、昨日は美夜から預かったアリゲーターの“ゴエモン”を改造し始め、明け方までかかってしまったのである。頭脳の方はともかく、体力に自信がない太志は、怪人第一号──通称《ワニ童》完成と同時にぶっ倒れ、まだ寝足りない気分だった。
 ところが、太志の忠実な下僕であるはずの蜂子は、はい、そうですか、というわけにはいかなかった。強引に太志の頭を持ち上げると、胸の谷間に隠し持っていた茶色い小瓶を取り出す。そして、蓋を開けると、太志の口に中の白っぽいどろりとした液体を流し込んだ。すると──
「んんっ!? ぷはーっ! なんだ、これは!?」
 液体を嚥下した途端、太志の眠気は一気に吹っ飛んだ。目がギンとし、血流そのものが早くなった気がする。蜂子は飲ませた小瓶を太志に見せた。
「特製ローヤルゼリー・ドリンクでございます。私がいつも愛飲しているもので。──それよりも《悪魔大使》さま! 大変です!」
「まったく、何事だ? 騒々しい」
 忌々しげな態度を取りながら、太志は自分の腕時計を見た。午後三時を回っている。どうやら、今は朝どころか、すでに放課後になってしまったらしい。
 寝起きを無理矢理起こされて機嫌が悪そうな太志に、蜂子は改めてかしこまった。
「恐れながら申し上げます。怪人第一号《ワニ童》が逃げ出してしまった模様です!」
「なんだとぉ!?」
 蜂子の報告に、太志は目を剥いた。そして、今朝方までサイボーグ手術を施していた手術台に駆け寄る。そこからアリゲーターの“ゴエモン”こと怪人第一号《ワニ童》の姿が忽然と消えていた。
「そ、そんなバカな……! 確かにサイボーグ手術は完了していたが、起動はあとの楽しみに取っておいたのに! ああ、世紀の瞬間を見逃すとは!」
 太志はオーバーとも思えるくらいのリアクションで嘆いた。蜂子はなんと声をかけていいのか分からない。
「とりあえず、さっき私が来たときには、ここと地下室の出口が半開きになっていました。
そんなに遠くへは行っていないと思いますが……」
 すると、太志はいきなり蜂子を蹴飛ばした。そんなに強い力ではなかったが、蜂子はその場に転がる。そして、怒り心頭の太志を見上げた。
「何をしている、《ビューティー・ビー》! とっとと《ワニ童》を捜してこい!」
 自分が寝ている間に逃げられたのであって、昼間、授業へ出ていた蜂子に責任はないはずだが、太志は理不尽な命令を下した。それで蜂子が憤るかと思いきや、なぜか顔を上気させて、「はい」と殊勝に応じる。蜂子は真性のマゾなのだ。主人と仰ぐ太志に罵倒されたり、いじめられたりすることを快感に覚えるのである。そうでなければ、こんな危ない性格の男についていったりしない。
「直ちに捜して参ります!」
 蜂子は立ち上がると、爆乳をゆさゆさと揺らしながら、外へと出て行った。

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