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後ろから、たったった、という軽やかな足音が聞こえてきたな、と思った刹那、「おっはよー」という明るいあいさつとともに、つかさの後頭部に重く鈍い衝撃が加えられた。脳みそが頭の中でシェイクされる。脳震盪を起こしそうだった。
「痛っ! ――ったく、薫ぅ、朝っぱらからやめてよね!」
顔から地面へつんのめりそうになったつかさは後頭部を押さえながら、悪戯めいた、それでいて憎めないほど可愛い笑顔を浮かべている同級生の薫を振り返って抗議した。薫の持つ鞄は教科書やノートがずっしりと詰まっていて、軽く当てたつもりでも、その衝撃はそれなりのものがある。にもかかわらず、セーラー服姿の薫は少しも悪びれた様子を見せなかった。
「朝からぼーっとして歩いているつかさが悪いのよ」
まったく、薫には敵わない、と、つかさはあきらめるしかなかった。
一般的に見て、男子高校生というよりも、まるで女子中学生のような可愛らしい顔立ちと背丈を持つつかさは、これでも祖父直伝の古武道を受け継いでいる。それなのに薫の不意討ちに不覚にも気づかなかったのだから、つかさを弟のように面倒を見ている天才美少女剣士としては憂慮を示さずにはいられなかった。
しかし、つかさは元々、争いごとを好まない優しい性格だ。祖母の言いつけで――というか、死んだ祖父の遺言に近いらしいが――、一応、学校の空手部に所属しているものの、武道なんて自分にはふさわしくないと思っているし、これまでにも誰かを殴ったことは一度もなかった。――とりあえず、人間は。
「ところで、あいつの姿がないみたいだけど?」
薫は一人で登校しているつかさに、いつもくっついているはずの、ゴキブリのようにガサツな相棒のことを尋ねた。無論、琳昭館高校の問題児、仙月アキトのことだ。
すると、つかさはしぼんだ風船のようになった。
「うん。実は、昨日、あれから顔を見ていないんだよね」
そう答えるつかさには、元気の欠片すらなかった。
昨日の昼休みに教室をふらっと出て行ってから、結局、アキトは帰って来なかった。これまでも授業をサボることは日常茶飯事の出来事だったが、放課後になればひょっこりと現れて、帰りにラーメンでも食べようとつかさを誘ってくるのが毎回のパターンである。それが昨日に限って、そうではなかった。
「どうしたのかな、アキト。昨日、様子がちょっとおかしかったし」
薫と並ぶようにして歩きながら、つかさは考えられそうな理由を探した。ひょっとして、急に具合でも悪くなったのか。いや、拾い食いをしても平気そうなアキトが病気になるなんて、天地がひっくり返っても想像できない。それともどこかで昼寝をして寝過したのか。否、放課後になってから学校をひと回りしてみたが、アキトの姿はどこにもなかった。第一、つかさに一言も言わずに帰るなんて、これまで一度もなかったことだ。
あれこれと沈んで考えているつかさに、薫は肩をすくめた。
「つかさ。そんなこと気にすることないわよ。どこへ行ったかなんて、あいつが学校に来たら聞いてみればいいことだし。まあ、私はどうせくだらない理由からだと思っているけどね。きっと、心配するだけ損だと思うわ」
つかさの気分を軽くしようと、薫は努めて明るく言った。それでも、つかさの表情は晴れない。
「アキトの様子がおかしくなったのって、あの転校生の話を聞いてからなんだよね」
つかさは昨日の昼休みを回想した。それに薫は思い当たる。
「そりゃそうよ。自分とは雲泥の差ともいえる優秀な転校生なんですもの。少しは我が身のつたなさを実感してくれないと」
アキトの日頃の行いには目に余るものがある。そんな傍若無人なヤツをこんな無垢で人畜無害なつかさが大事にしているなんて、二人を常に近くで見ている薫には理解し難いことだ。
「だけど……」
つかさは、ふとアキトが教室を出て行ったときに覚えた胸騒ぎを思い出した。それが的中していないことを祈る。
「まさかアキト、転校生に因縁とかつけてないよね……?」
「そ、それは……」
アキトならいかにもありえそうなことで、薫は言葉に詰まった。自分が転校してきたときよりもチヤホヤされている新顔に、あのアキトが面白いわけがない。転校生の胸倉をつかんで、一発殴ってやろうかというシーンが容易に想像できた。
「あっ、大神くん!」
会話をしている間に学校が近くなり、登校する生徒の姿が多くなってきたところで、つかさは一年B組の生徒、大神憲の姿を見つけた。名を呼ばれた大神はつかさたちを振り返る。
「や、やあ」
二人を見て、大神は相好を崩した。なぜなら、つかさの隣に学園一の美少女と誉れ高い薫がいたからである。薫とはあまり会話したことはないが、大神としてはお近づきになりたいと前々から考えているに違いない。
かつて、大神は琳昭館高校の女子生徒ばかりを襲っていたことがある。彼も吸血鬼<ヴァンパイア>のアキトと同様に人間ではなく、人知れず社会に溶け込んだ異形のもの――闇の眷属たる狼男なのだ。その正体を知っているのは、この学校ではアキトとつかさだけ。アキトによって、散々、懲らしめ――痛めつけ――られた現在は、写真部の部員として本性を隠し、こっそりと可愛い女の子の写真を撮るだけに留めている。
「おはようございます、武藤くん、忍足さん」
大神は薫に好印象を持ってもらおうと、さわやかな笑みを浮かべているつもりだったろう。しかし、どうしても目線はセーラー服の上からも膨らみが分かる薫のバストやヒップ、短いスカートから露わになったナマ脚などに行きがちで、まるで舌なめずりをしそうな雰囲気だ。薫は大神に対し、本能的、生理的に受けつけなかったが、つかさの知り合いということでうわべだけの愛想を取り繕った。
そんな二人の胸のうちにまったく気づかず、つかさは大神に尋ねた。
「ねえ、大神くん。アキト、知らない?」
「兄貴ですか?」
アキトの影響力が多大に及ぶつかさに対し、大神は自然と敬語を使っていた。つかさをぞんざいに扱えば、いつアキトから身の毛もよだつ報復を受けるか知れたものではない。狼男の大神は、不遜で残虐無道な吸血鬼<ヴァンパイア>の同級生を恐れていた。
つかさは、そんなところまで思い至らず、ただアキトと――見かけは――親しい大神とは、なんとなく自分も親しいつもりでいた。アキトともそうだが、大神が人間でないことをしばしば忘れてしまうことすらある。
大神は嵯峨サトルが転校してきた一年B組の生徒だ。アキトとサトルのことを尋ねるには打ってつけといえた。
「実はね、アキトったら、昨日、昼休みにいなくなってから、そのまま戻って来なかったんだ。大神くんなら何か知っているかと思って」
「昨日からですか? さあ、自分も兄貴とは会っていませんけど」
「ホントに? B組の教室とかに行かなかった?」
「ウチの教室に? なんでまた?」
つかさは自分の心配を大神に伝えた。すると途端に、大神の顔が不機嫌になる。
「ああ、あの転校生ね。まったく、少しばかり顔の造りが整っているからって、ウチの女子どもはどいつもこいつも舞い上がっちまってて、昨日は一日、まともな授業にもなりませんでしたよ」
狼男のくせにナンパな大神が、常日頃から勉学に勤しんでいるわけがない。機嫌が悪いのは、他の男子生徒同様、女子生徒の注目が転校生へと一身に集まっているためだ。
「まあ、舞い上がっていたのはウチの連中ばかりじゃないですがね。昼休みや放課後には、どこから聞きつけて来たのか、他のクラスや学年からどっと押し寄せてきて、そりゃあ、えらい騒ぎだったんですから」
「ふーん、そうだったんだ」
確かに単なる転校生の異常ともいえる人気ぶりには驚かされるが、他の女子が集まってきた理由はなんとなく想像できた。きっと一年C組の徳田寧音が、けたたましい街宣スピーカーのごとく、全校に触れまわっていたに違いない。絶世の美少年が琳昭館高校に転校してきた、と。
「兄貴があの転校生をシメに行ったんなら、その場面を特等席でも桟敷席でもいいから見物したかったなぁ。さぞや気分がスーッとしただろうに」
大神は勝手にアキトがサトルをリンチしているシーンを思い浮かべて言った。かつては自分がアキトにやられたことがあるだけに、想像は容易だ。それじゃ困るんだけど、と、その横でつかさは顔を引きつらせる。
三人は校門をくぐりかけた。そのとき、気配を殺して伸びる一本の腕が――
「ひっ!」
大神は襟首をつかまれ、短い悲鳴をあげた。抗う暇もなく、そのまま恐ろしい力で引っ張り込まれる。少し遅れて、つかさがいなくなった大神に気がついた。
「あれ? 大神くんは?」
つい今の今まで、一緒に歩きながら登校してきたはずの大神の姿がなくなっていることに、つかさは不審に思いながらどこへ行ったのかと辺りを見回した。しかし、他の生徒たちの姿は見えども、大神はどこにもいない。薫に尋ねかけるが、その前に首を横に振られる。知らない、といった感じだ。つかさは眉をひそめた。
だが、そのことをいつまでも不思議に思っていられなかった。校内の屋外掲示板の前で、生徒たちが、大勢、集まっていたからである。どうやら、何かが掲示され、それが生徒たちを驚かせる内容らしい。だが、あまりにも人が多すぎて、つかさと薫には肝心のものが見えなかった。
人だかりの後ろの方では、一年C組の桐野晶と伏見ありすが、やはり掲示板を見ようと首を伸ばしていた。
「なになに、どうしたの?」
薫が掲示板を見ようと四苦八苦している晶に声をかけてみた。
「ああ、忍足。いや、私も何が貼ってあるのか、よく見えないんだ」
バスケットボール部の所属で、女子の割には身長が高いはずの晶でも、さすがに他の男子生徒の後頭部が邪魔で、貼り出された掲示物が何なのか分からなかった。晶よりももっと身長の低いありすは、ジャンプしてもムダだ。
「ああーん、見えなーい!」
身長ではありすとどっこいどっこいのつかさと薫では、当然、見えるわけがない。
そこへ寧音がやってきた。
「なんやなんや、朝っぱらから?」
ここはいいところへ情報通が来たと、薫たち四人は寧音を取り囲んだ。
「ねえ? これは寧音の仕業?」
「また何か新しいネタをスッパ抜いたのか?」
「ねねちゃん、やる〜!」
「どうなんですか、徳田さん?」
登校早々、いきなり四人に迫られた寧音は、訳が分からないといった顔つきをした。
「なんのこっちゃ? ウチは昨夜、転校生・嵯峨サトルに関する記事をまとめてて徹夜明けなんや。他のことなんか知ったこっちゃないで」
それが証拠に、ビン底メガネから覗く寧音の目は、寝不足で充血していた。多分、パソコンのモニターとにらめっこしていたせいもあるだろう。
「それじゃあ、誰がこんな騒ぎになるものを?」
四人は互いに顔を見合わせた。
「そんなん、見てみりゃええことやん。どれ。――はいはい、ちょーっくら失礼しまっせ」
寧音はそう言って、蟻の入り込む隙間もなさそうな人混みの中へ、足下に這いつくばるようにして、もぞもぞと潜り込んでいった。つかさたちはまるで奇異な生き物を見るような目つきで寧音を見送る。
寧音は足の間を掻き分け掻き分け、やっとのことで群衆の先頭へ出ることに成功した。膝小僧の汚れを手で軽く払い、近眼の顔を近づけて、問題の掲示物を見る。そのとき寧音は、二度、三度と、文面を確かめるように、ビン底メガネをクイクイッと上下させた。そして――
「な、な、なんやてぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
誰よりも大きな絶叫をあげて、寧音は驚いた。
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