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つかさの目覚めは最悪だった。
「いたたたたっ……!」
寝返りを打とうとして、あまりの背中の痛みに悲鳴をあげ、一瞬にしてまどろみから覚めてしまう。息を詰め、身体を動かせなかった。徐々に、そろそろと起きようとする。それでも痛みは、電気みたいに走った。
ベッドから起きると、いつもの習慣から目覚まし時計を見た。九時三十分を回っている。しばらく理解するのに時間を要した。
「えええええええっ!?」
つかさは大声をあげて、また背中の痛みを引き起こした。閉め切られたカーテンを通して、外が明るくなっているのが分かる。目覚まし時計が故障したのでなければ、今は朝の九時半ということだ。
「遅刻じゃないか! なんで!? ――あたたたたたっ!」
拷問のように襲ってくる痛みに顔をしかめながら、つかさは頭が混乱した。今日は土曜日。生徒会長選挙の投票日だ。立候補している先輩の沙也加にとって大事な日である。寝起きはそんなに悪い方ではないのに、こんなときに限って致命的な遅刻をしてしまうとは一生の不覚だ。
そのとき、昨日の記憶がつかさに甦った。
「そう言えば、ボクは……」
次第にこの背中の痛みの原因を思い出した。体育館。ワニガメの怪物。アキト。そして――
「そうだ、薫は!?」
つかさが発勁のための《氣》を練っているとき、少しでも怪物に打撃を与えておこうとした薫が吹き飛ばされた。それに気づいた次の瞬間には、つかさも同じようにやられ、その後の記憶は欠落している。あのあと、どうなったのか。
今日びの高校生には珍しく、つかさは携帯電話を持っていない。連絡を取り合いたくてもできなかった。昨日のことを知るには、自分が学校へ行くしかない。
つかさは背中の痛みを堪えながら、制服に着替えた。早く学校へ行かないと、と気ばかりが焦る。薫はもちろんのこと、アキトや沙也加のことが心配だ。
あまり身体へ差し障りがないように階段をそろりそろりと降り、つかさは出掛けようとした。玄関で靴を履こうとしたとき、ぴしゃりとした声が届く。
「お待ち、つかさ」
「ばあちゃん!?」
つかさを引き止めたのは、祖母のつばきだった。身長こそつかさよりも低いが、華道の家元だけあって和装姿で、とてもかくしゃくとしている。つかさの唯一の身内だ。
「どこへ行くつもりだい、つかさ?」
つばきは尋ねた。別に咎め立てるような口調ではない。それでも有無を言わせぬものが含まれていた。
「どこって、学校に決まっているじゃない」
つかさは一刻も早く、みんなの安否を知りたくてたまらなかった。こんなことをしている場合ではない。それでも、つかさはつばきに逆らえなかった。一緒に暮らしている間に身にしみついたのだ。
居ても立ってもいられぬ様子のつかさに、つばきは首ひとつの動きで出かけないよう促した。
「出かけるなら、忘れていることがあるだろう?」
「ばあちゃん、遅刻なんだよ。今日は学校で大事な用事が――」
「何があろうとも、朝ごはんも食べないで出かけるなんて、私は許さないよ」
つばきはそう言うと、返事も聞かずに茶の間へ消えた。つかさはため息をつく。仕方なしに靴をあきらめ、それに従うことにした。
茶の間へ行って卓袱台の前に座ると、つばきがあらかじめ用意してあったと見える朝食を出してくれた。ご飯に味噌汁、海苔に納豆、玉子焼きに白菜のお新香だ。武藤家の朝食は和食が常である。
「いただきます」
つかさは温かい朝食に手を合わせてから食べ始めた。それを見ながら、つばきは茶をすする。
「何があるのかは知らないけど、人間、朝食べることは大事なんだよ。その日、一日の力をつけてくれるんだから。“腹が減っては、戦は出来ぬ”。食べないと、肝心なときに力が出せないよ」
つばきは食べているつかさに言っているようにも、一人で呟いているようでもあった。つかさは返事もせずに黙々と食べる。納豆とご飯を口の中に押し込み、味噌汁で流し込んだ。
つかさが食べ終わると、それを見計らったようにつばきが冷蔵庫から瓶入りの牛乳を持ってきた。
「あいよ」
親指ひとつで紙キャップを開け、つかさに手渡した。これも武藤家の定番だ。毎朝、配達されてくる。それをつかさは全部飲み干した。
「ごちそうさま」
口の周りを真っ白にしながら、つかさは言った。礼に始まり、礼に終わる。華道の家元でもあるつばきは、そういう行儀の面では厳しい。つかさは食べ終えた朝食にも手を合わせた。
「それじゃあ――」
「ちょっと待ちなさい」
もう出かけてもいいだろうとつかさが立ちあがりかけたところで、つばきがまた引き止めた。今度は何だろうと、つかさは祖母にうんざりとした視線を投げる。するとつばきは、箪笥の上から救急箱を持ってきた。
「背中を向けて」
「えっ?」
「いいから」
つかさは言われたとおり背中を向けた。シャツがめくり上げられる。そのままの姿勢でいると、ぷーんと湿布の臭いが漂ってきた。
「誰にやられたのか知らないけど、ひどいねえ。お前がおじいさんにしごかれていた頃を思い出すよ」
祖父から古武道を習っていたとき、つかさはいつも筋肉痛や打ち身に悩まされていた。稽古が厳しかったせいもあるが、元々、虚弱体質なつかさに格闘技は酷だったと言える。そんなつかさに毎日、湿布薬を貼ってくれたのがつばきだ。祖父が亡くなってからは、こういう風にしてもらうこともなくなった。
「あの小僧がお前を背負って帰ってきたときはびっくりしたよ」
背中の具合を見ながら、つばきが言った。「あの小僧」とはアキトのことだ。どうもつばきは、時折、ゴキブリのように家へ上がり込むアキトのことが気に入らないらしい。もっとも、アキトのことが好きな人間など普通に考えたらいるはずがなく、愚問だとしか言いようがないが。
「あの小僧は、お前を部屋に運ぶと、ただ黙って頭を下げただけだった。とても済まなそうな顔をしてね。何があったかだなんて、一言も言わない。だから私も、あえて訊かなかった。お前にも訊かないでおくよ」
「ばあちゃん……」
「お前は心の優しい子だからね。どんなときでも争いを好まない。相手が傷つくくらいなら、自分が傷ついた方がマシだと思っているんだろう。死んだおじいさんも、そのことは充分に分かっていた。お前が自分の道場を受け継いでくれることはないだろうって。それでもおじいさんは、お前に武道を教え続けた。なぜだか分かるかい? それはお前に素質を見出したこともあるけど、お前なら力を正しく使えると思ったからさ。お前が嫌うように、武道は相手を傷つける技だ。一歩間違えれば、ただの暴力と何ら変わりない。でも、いざというときに力を持っていなければ、自分の大切なものを守ることもできない。おじいさんはね、お前に大切なものを失ってしまうような悲しい思いをさせないために武道を教えたんだよ。だから、それを使うことに憶病になる必要はないの。おじいさんはお前を信じていた。もちろん、私も信じている。お前が拳を振るうときは正しいときだって。だから、ためらわないで、使うときにはちゃんと使いなさい」
「はい……」
そんなことを祖母から言われたのは初めてだった。祖父から古武道を学ぶのが嫌で嫌でたまらなかった時期もある。厳しさに打ちのめされ、ひどくつらい思いをしてまで、どうしてそこまでして古武道を身につけなくてはならないのか、正直、疑問だった。
しかし、今の祖母の言葉に深い愛情を感じた。両親を亡くして、悲しみに押し潰されそうになったとき、何もなかった自分に手を差し伸べてくれた祖父母。生きていくことの難しさと同時に、生きていくことの素晴らしさを教えてくれたのだと思った。
「ばあちゃん、ありがとう」
「――うん、ここだね。はいっ!」
おもむろに、ぱーん、と小気味いい音が背中でした。つばきに湿布薬を貼られたつかさは、叩かれた痛みと元々の痛み、そして不意打ちの冷たさにびっくりして、表情を喜怒哀楽に変化させる。声にならない悲鳴を上げて、前につんのめった。
「これでよし、と。さあ、行っておいで」
つばきはとっとと救急箱をしまうと、朝食の後片付けに移った。先ほどの感動秘話など微塵もない。つかさは畳に突っ伏しながら、ううっ、と情けなくも呻いた。
一分後、シャツの裾をズボンの中に入れ直し、つかさはようやく出かけた。
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