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昨日の騒ぎで体育館が使用不可能になったため、急遽、柔道部や空手部が部活に使っている畳の武道場に生徒会長選挙の投票所が設置された。今日は土曜日ということもあって、投票は午前中の授業が終わった放課後以降ということに決められており、午後三時には締め切られる。例年、全生徒が投票するようなことはなく、面倒臭いからと棄権してしまう者がほとんどだ。投票率で言うと、いつも三割程度にしかならない。その分、開票作業は楽だった。
つかさが大幅に遅刻して一年A組の教室に辿り着くと、そこには仙月アキトの姿も、忍足薫の姿もなかった。やはり昨日のことが原因なのか。つかさは心臓がドキドキするほど心配になったが、今は授業中であり、なおかつ他に親しいクラスメイトがいないせいもあって、二人がどうしたのか誰かに尋ねるわけにもいかなかった。
ちっとも頭に入らない数学の授業が終わってから、つかさは一年C組へと足を運んだ。情報なら、ここで得るのが一番だ。ひょっこり顔を覗かせると、晶とありす相手に昨日ことを喋っている徳田寧音がいた。
「ホンマ、昨日は参ったわ! 晶はんが強引に引っ張らんかったら、世紀の特ダネが撮れたやもしらんのに!」
寧音は自分のカメラをいじりながらぼやいた。それを聞いていた晶は呆れ顔だ。
「それが命の恩人に対する言葉か!? 私が連れ出さなかったら、今頃、あの化け物に食われていたかもしれねえんだぞ!」
「うん、だよねえ、だよねえ」
隣でありすが呑気に相槌を打った。晶に助けられたのは、ありすだって同じなのだが。
しかし、寧音はそれこそ大きなお世話だという顔をした。
「あれ、何やったんかなぁ。まるで某特撮怪獣みたいやったけど」
あっ、それ禁句だから(苦笑)。
「一応、写真撮ってたじゃないか」
晶が寧音のカメラに目をやる。すると寧音はため息をついた。
「それがなあ、何も写っていないんや。現像したら真っ白け。ホンマ、凹むわ」
まさか、それも秘密保持のために《悪魔大使》が用意していた仕掛けだとは誰も知らない。いわば肉眼での目視には影響がないが、カメラなどの機材に影響する視覚的なステルスだ。
ガッカリとする寧音に、ありすが慰めるように肩を叩いた。
「元気出して、寧音ちゃん。これ食べる?」
そう言って、手にして食べていたビスコを差し出す。まるで子供騙しだが、寧音はおおきにと遠慮することなくひとついただいた。
つかさは余所のクラスへ入ることに躊躇を覚えたが、思い切って足を踏み出した。他のクラスであるつかさに視線が集まったが、なるべく意識しないようにする。つかさにしては、これまでになく勇気を振り絞って、寧音に声をかけた。
「あ、あのー、徳田さん」
「ああ、武藤はん。珍しいでんな」
いつもは寧音の方が勝手にA組の教室へ赴き、情報を落としていくのが定番だ。今日はつかさの方から、それを求めてきた。
「あの、知っていたら教えて欲しいんだけど、昨日、あれからアキトと薫がどうなったか知らない?」
そう尋ねるつかさの顔には、切羽詰まったものがあった。何しろ、昨日の騒動から一切の記憶がないのだ。特に友人の二人については心配だった。
そんなつかさに、寧音は眼鏡のズレを直しながら、
「ウチも詳しいことは知らへんけど――」
と前置きして、
「薫はんは病院へ運ばれたみたいやで」
と言った。つかさは背中の中へ氷を入れられたように驚く。
「薫が……入院?」
瞬間、吹き飛ばされて倒れ込んだ薫の姿が脳裏に甦った。そう言えば、あれきり薫は動かなかったが。重傷なのだろうか。つかさは顔から血の気が引いていくのを感じた。
すると、寧音は否定するように、手の平をひらひらさせた。
「ちゃうちゃう。入院やのうて、運ばれただけや。ちょっとばかし気絶していただけで、病院で診察を受けてから自宅療養になったはずやで。今日は大事を取って休んでいるようやけど」
その言葉を聞いて、つかさは大きく息を吐き出した。どうやら大したことがなさそうで安心する。しかし、心配すべき人間はもう一人いた。
「アキトは?」
「仙月はん? さあ、今日は見かけてへんけれど。――休みなん?」
「うん……。ボクもさっき学校に来たばかりなんだけど、教室にはいなかった」
「さよか。でも、昨日はあんさんや薫はんと違うて、頭から血流してたみたいやったけど、ピンピンしとったわ。いや〜、あの爆発ん中、よう生きてたもんやと思うわ」
「爆発?」
つかさは初めて、その言葉を耳にして尋ね返した。寧音が意外そうな顔をする。あの中にいて、憶えていないはずがないと思ったからだ。しかし、実際にはそのとき、つかさは気絶していたのだし、そんなことがあったなどと知る由もなかった。
寧音はもう一台のカメラ、デジカメを取り出した。
「これは今朝、撮ったものやけど」
デジカメを操作して、寧音は壊された体育館の映像プレビューをつかさに見せた。つかさは言葉を失う。
「まあ、爆発言うても、実際はそんな大したもんやあらへんで。周辺が焼け焦げた程度で、火事にもならんかったし。ただ、あのカメさんみたいな化け物を吹き飛ばしてな。警察も来おったけど、どれだけの遺留品を回収できたか怪しいもんやわ。ウチも調べてみたけど、めぼしいものは何も残ってへんかったで」
そう言えば、あそこまでアキトを執拗に襲った、あの怪物は何だったのか。昨日はあまりの怪異な出来事に、深く考えもしなかったが、つかさは改めて疑問に思った。
唯一、心当たりがあるとすれば、先日、美夜のペットであるアリゲーターのゴエモンが、この学校で暴れた事件だ(「WILD BLOOD」第12話参照)。ゴエモンも普通のワニとは思えない跳躍力を見せたり、目からビームを発射したりした――、という話を、その場にいた者たちから聞いたことがある。あとから駆けつけたつかさには信じがたい話だったが、メチャクチャになった廊下の惨状を目の当たりにすれば、ヘタな作り話とも思えなかった。
美夜によれば、ゴエモンは校内においてT氏と名乗る謎の人物により蘇生手術を受けたのだという。それは聞けば聞くほど怪しいものであったが、おそらくT氏が施したものはサイボーグ手術であり――SFみたいな話だとは思うが、他に考えようがない――、ゴエモンは甦ったと同時に、恐ろしい能力――いや、性能を持つにまで至ったに違いない。今のところ、飼い主である美夜には従順で、これ以上、誰かに危害を加える危険はないだろうとの判断から、どこよりも安全であると考えられるアキトの家で匿われているが、今回の事件を鑑みるに、もう一度、謎のT氏なる人物のことを調べる必要があるように思われた。
「とにかく、けったいな事件やけれど、これ以上は、さすがのウチでも追いようがあらへんな。化け物の写真も、どういうわけか撮れへんかったし。証拠が消されてしまった以上、警察もどこまで本気で動いてくれてるのか怪しいもんやで」
寧音は手がかりを失って、心底、悔しそうだった。彼女のジャーナリスト魂はうずいているに違いない。それでも事件そのものが雲をつかむような話で奇怪すぎた。
怪物が爆発し、そこからつかさと薫を助けてくれたということは、アキトが無事だという証拠であるが、それならば、どうして学校に来ないのだろうか。普段ならまだしも、今日は立候補している生徒会長選挙の投票日だ。おそらく夕方には結果が判明する。そんなときにも姿を現さないのは妙だった。
「ひょっとすると――」
アキトは昨日の怪物について調べているのかもしれないと、つかさは考えた。あんな化け物、普通の人間ではとても太刀打ちできない。アキトのような吸血鬼<ヴァンパイア>でさえも苦戦したくらいなのだ。次も撃退できる保証はどこにもない。
もし、あの化け物を生み出した者――それは美夜の前に現れたという謎のT氏だろう――がこの学校に潜んでいるとすれば、とても危険な存在であることは言うまでもなかった。ましてや、アキトは目の前でつかさと薫がやられるのを見たのだ。消しようもない復讐心に猛り狂っていてもおかしくはない。
「どないしたんや、武藤はん?」
何かを気づいたらしいつかさに、寧音の目が光った。何か特ダネの臭いがする。そういうところは決して見逃さない。
「い、いや、別に」
つかさはアキトのことをよく知っている、もう一人の人物のことを思い出した。次の授業開始まで時間がない。つかさは、その場を辞去することにした。
「どうも、ありがとう。それじゃあ、ボクは戻るから」
つかさは寧音に礼を言い、晶たちに会釈してから、一年C組の教室を出た。今度はその足で、隣の一年B組の教室へ行く。
「大神くん」
つかさは一人で席に座りながら、束になった写真をチェックしている大神憲を呼んだ。しかし、大神はチラッとつかさを見ただけで、すぐに手元の写真へ目を戻してしまう。またしても他人のクラスへ入ることに躊躇を覚えながらも、つかさは大神がいる席まで近づいた。
「大神くん、今日、アキトを見かけなかった? 授業には出ていないんだけど」
つかさから声をかけられても、大神は目線を合わそうとしなかった。
「さあ、兄貴のことなんて知らないけど」
大神は素っ気なく言った。いつもとは違う大神の冷淡な反応に、つかさは引っかかりを覚える。
「どうしたの?」
「何が?」
「アキトのことを何とも思っていないみたいだから」
狼男として吸血鬼<ヴァンパイア>であるアキトに恐れを抱いている大神は、いつもなら主人も同然の兄貴のこととなれば、まるで尻尾を振るかのように過敏な反応を見せるはずなのに、今日はやけに関心がなさそうだった。こんなことは三人が知り合ってから初めてのことである。つかさが訝るのも無理はない。
だが、大神は面倒そうな仕種を改めようとはしなかった。
「もう、オレと兄貴とは関係ないね。――いや、あいつはもう、オレの兄貴じゃねえ。オレはサトルの旦那についていくと決めたんだ」
そう言って、大神はようやく視線を上げた。その先にいるのは、女子生徒に囲まれた嵯峨サトルである。サトルは女の子たちの相手にしていたが、まるでその会話が耳に入ったかのように、つかさたちの方に一瞬だけ一瞥を向けてきた。だが、すぐにまた何事もなかったかのように、女の子たちとの会話を楽しむ。今のは単なる偶然だったのか。
にわかには信じがたい大神の言葉に、つかさは動揺した。
「ど、どうして……?」
「そんなの決まってんじゃんか。あいつの下にいたって、オレには何もいいことはねえ。それどころか、痛い思いまでして、こき使われるだけさ。その点、サトルの旦那と一緒なら、勝手に可愛い女の子が近寄ってくる。どちらがいいかなんて、考えるまでもないだろ」
大神は少し考えれば分かるだろうとでも言いたげに、小馬鹿にするように喋った。つかさは愕然とする。
「そんな……」
アキトの数少ない味方であると信じていた大神に裏切られた気分だった。大神はサトルについた方が得だと考え、アキトを見切ったのだ。
つかさが言葉をなくして立ち尽くしていると、授業開始のチャイムが鳴った。教室内の生徒が慌ただしく着席する。つかさ一人が動けなかった。
「ほら、授業だぜ。自分の教室に戻れよ」
大神は冷たく言った。
つかさは茫然としつつも、言われたとおりに教室へ帰るしかなかった。
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