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ミサによって助けられたというのに、つかさはまったく落ち着かなかった。その理由のひとつには、この“黒研”の部室にある。オカルトめいた品々の陳列に空気はひんやりとして、重く澱んでいるような気がするし、わずか扉一枚を隔てただけで、学校という慣れ親しんだ日常から、人間が決して覗いてはならない異世界へ迷い込んだような居心地の悪さが拭えないのだった。
「それにしても生物室をこんな風に占拠しちまっていいのかよ?」
アキトは骨格標本のガイコツをしげしげと眺めながら、別段、心配しているわけでも、咎めるわけでもない口調で言った。むしろ感心しているのであろう。それだけ普段知っている生物室から様変わりしている。
ミサはアキトの方へ歩きながら答えた。
「大丈夫よ。部活のとき以外は、ちゃんと片づけているから」
それはつまり、部活のときにはわざわざこれらすべてを持ち運び、陳列するということだろうか。それをミサ一人が行っているとしたら、とても非効率的で現実的ではない。いや、数人がかりでも、そんな手間のかかることをしないだろう。
つかさはどうやったらそんなことができるのか不思議に思いながら、ミサの動きを目で追った。そのミサはアキトに音もなく近づく。
「左肩、やられたのね」
室内はカーテンが閉め切られ、明かりは灯されたロウソクだけという薄暗さなのに、ミサは難なく看破した。さすがは“魔女”。千里眼は何でもお見通しというわけだ。
「大したことはねえよ」
負傷など認めたくないのだろう、アキトは不機嫌そうに顔を逸らした。するとミサは、おもむろに左肩へ手を伸ばす。その刹那、
「痛てええええええええっ!」
アキトは我慢もへったくれもなく、涙をチョチョ切らせて泣き喚いた。ミサはちょっと触れた程度なのに、ひどい痛がりようだ。その反応に、ミサがサディスティックめいた笑みを浮かべる。
「へえ、不死身だと思われていたあなたもケガをするのね」
いつも感情を表に出さないミサにしては珍しく、どこか楽しげであった。
その瞬間、つかさはギクリとした。アキトのことを「不死身」だと評したからだ。まさかミサは、アキトの正体が吸血鬼<ヴァンパイア>であると勘づいているのか。
オカルトやホラーに通じているミサならば、アキトの正体に気づいたとしても何ら不思議はないように思えた。しかし、もしもそれが口外されるようなことになったら大変だ。アキトが吸血鬼<ヴァンパイア>であると世間に知られたら、この学校にいられなくなってしまう。そのときはアキトだけではない。アキトの妹、美夜も、兄である影人も、今住んでいるところを追われることになるだろう。つかさとしては、そんなことをさせたくなかった。
つかさはミサに口止めしておくべきかどうか迷った。だが、「不死身」と言ったのは、日頃のアキトが見せるムチャクチャぶりから連想した単なる比喩かもしれず、気づいていないかもしれないところを、こちらから藪をつついて蛇を出すわけにはいかない。しばらくは様子を見るべきだろうと、つかさは黙っていることに決めた。
当のアキトはそれどころではなかったはずだ。何しろ激痛にのたうちまくっている。このまま悶え死ぬかと思えるほどに。
七転八倒の末、アキトは呪詛の言葉を吐き出した。
「て、てめえ、何しやがる! 殺す気か!」
「ほんの診察のつもり」
「診察だと!? お前は医者かよ!?」
「いいえ。ただの高校生よ」
ミサはまるで某吟遊詩人のようにさらりと言ってのけると(笑)、何やら得体の知れないものがゴチャゴチャとある一角へ移動した。そして、独り言を口にしながら、二人を無視して思案し始める。
「ブードゥーの秘薬くらいじゃ無理そうだし……始皇帝の遺灰を煎じたものは……いや、いっそのことジークフリードの生き血かしら……? でも、これは希少価値が高いし。うーん、悩みどころね」
つかさはミサの独り言を耳にするたびにビクビクした。どうやらミサは何かをするつもりらしい。ひどく悪い予感がする。ミサのいつものセリフを借りるなら、「不吉」だ。
やがてミサはサッカーボール程度の壺を取り上げた。
「これを試してみようかしら」
ミサは壺を机の上に置くと、中に手を入れた。アキトとつかさは中を覗き込む。中身は湿ったような感じの黒っぽい砂のようだった。ミサはそれをすくいあげる。
何をするのかと興味津々に眺めていると、ミサはまるで子供がそうするように、水気を含んだ砂で人の形を整え始めた。十秒もかからないうちに何の変哲もない小さな砂人形が完成する。目鼻立ちもなければ、手足に指もない、大雑把な人型だ。それを机の上にちょこんと立たせた。
「何だ、こりゃ?」
訝しげにアキトが顔を近づけさせた。
「身代り人形よ」
「身代り人形?」
ミサの答えに、アキトとつかさは顔を見合わせた。琳昭館高校の“魔女”は、意味ありげな視線をよこす。
「人間は昔から人を形作ることをしてきた。古代中国の皇帝の陵墓には、何万という兵たちの像が一緒に埋められたし、日本でも埴輪や土偶が発見されている。エジプトだって、棺をわざわざ人の形に模して作っているわ。これがどういう意味だか分かる?」
二人はそろって首を横に振った。ミサは机の上の砂人形を指し示す。
「人は本能的に、人形を自分や誰かの身代わりにさせることをしているのよ。なぜ、幼い女の子は人形でままごと遊びをするのか? なぜ、ワラ人形に五寸釘を打ちつけて誰かを呪おうとするのか? それは人形を人間の身代わりにしているから。人形というものには、言うなれば偽りの魂が宿っているのよ。ね、これで分かるでしょ?」
やおら、ミサは一本の針を手にした。縫い針のような小さな針だ。それでもミサの雰囲気に呑まれた二人はたじろがずにいられない。
「な、何をいったい……?」
「だから、この人形に身代わりになってもらうのよ。仙月アキト、あなたのね」
そう説明してミサは、針を人形に近づけた。物凄い不安がアキトを襲う。思わず、ミサを止めようとした。
「よ、よせ!」
「動かないで!」
ぴしゃりとした有無を言わせぬミサの言葉に、アキトは金縛りになった。ミサは慎重に狙いを定め、砂の人形に針の先を沈めていく。それは人形の左肩だった。
その刹那――
「ひぎゃっ!」
突然、アキトが変な声を出した。その拍子に左肩がびくんと上がり、首がそちらへ傾く。その姿勢のまま、アキトは凝固した。
「あ、アキト……?」
かろうじて悲鳴を呑み込み、つかさは恐る恐る、異変が起きたアキトに声をかけた。
アキトは自分の身に何が起きているのか分からないという顔をしていた。ただ、左に寄ったような体勢は自分ではどうしようもないようで、そのまま体を動かすしかない。するとミサがフッと微笑んだ。
「成功だわ。これであなたのケガをこの人形が肩代わりしてくれる」
小さな人形の左肩には、これまた小さな針が突き立っていた。
「どういうこと?」
つかさはまだ分からないという風に、ミサに尋ねた。
「だから、今、彼のケガした部分をこの人形に移しているのよ。しばらくすれば、彼の肉体は元通りになるわ」
「こんなことでケガが治るっていうの?」
「ええ、そうよ」
ミサは当然でしょ、と言いたげにうなずいた。ウソみたいだ。こんなことでケガが治るのなら、世界中に医者など必要なくなってしまうではないか。
「ただし、注意しなくてはいけないのは、呪い移しが完全に終わるまで、この人形に触れないこと。この人形はただの砂で出来ているだけだから、どんな拍子に壊れてしまうか分からないわ」
「じゃあ、もし、途中で壊れてしまったら……?」
あまり聞きたくないことだったが、つかさはあえて質問した。すると、ミサはさらに楽しげになる。
「呪いは倍返しとなって跳ね返ってくる。最悪、死ぬわね」
ミサは恐ろしいことをさらりと言ってのけた。アキトもつかさも、いつ崩れるか分からない人形から後ずさった。
「お、おい。ケガを治してもらうのはありがたいが、その最中に風紀委員のヤツらが踏み込んできたらどうすんだ? これじゃ、逃げることもできねえぞ」
アキトは首を左に傾けたまま抗議した。本人は至って真面目だが、その姿はどこか笑える。どうやらケガが治るまで、このままでいるしかないようだ。
「それなら心配ないわ。この部室は一種の結界になっているから普通の人間には入れない。今、誰も生物室のことなど目にも入らないし、その存在すら失念してしまっているわ。したがって、校内でここほど安全なところはないのよ」
ミサの説明に二人は何となく納得した。確かに部室の雰囲気からして、常人を寄せつけ難いものがある。バリアーとでも言おうか。さっき、追っ手がアキトたちを見失ったのもそのせいだろう。
「そういうことなら、アキトはここでじっとしていた方がいいよ。また風紀委員に見つかったら大変だし」
とりあえず安全な場所が確保できたようで、つかさはホッとした胸を撫で下ろした。
「つかさ、お前はどうするつもりだ?」
アキトは首と左肩がくっついたような格好に辟易しつつも、こちらも気を緩めたのは確かなようで、手頃な椅子に腰かけながら尋ねた。
「ボクは教室に戻ってみるよ。この学校、なんかおかしなことになっているのは間違いないし、その辺を詳しく調べてみないと」
つかさは風紀委員たちや薫のことを考えながら言った。すかさず、アキトが顔をしかめる。
「誰の仕業かなんて、ハナから分かっている。嵯峨さ。あいつに決まってんだろ!」
名前を口にするだけでも嫌というように、アキトは吐き捨てた。それには、つかさは簡単に同意できない。
「嵯峨くんが? どうしてそんなことをする必要があるの?」
「きっと、オレのことが邪魔なんだろうよ。オレもヤツが目障りだけどな。気に入らねえ」
「動機はともかく、嵯峨くん一人でこんなにも変えられるものかな? これには何か大きな力が作用しているように思えるんだけど」
アキトと違い、つかさはサトルのことを疑い切れなかった。アキトは唾棄する。
「つかさ、忘れんな。あいつが転校してきてから、この学校はおかしくなった。あいつは――なんかヤバい気がする」
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