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アキトと別れたつかさは教室に戻ったが、自分のクラスだというのに、どうにも居心地が悪かった。
今、教室にはアキトはもちろんのこと、薫もいない。友達がそんなに多くないつかさとすれば、この二人がいないだけでよそのクラスで授業を受けているような感じだった。
それにしても、ここまで静かな教室というのも初めてだった。数学教師の声だけが朗々と響き、生徒たちからは一切の私語が慎まれ、テストのときのような紙の上をシャーペンが走る音と消しゴムを使ったときの机のがたつきだけが聞こえてくる。こんなにもスムーズに授業が進むなんて、入学以来なかったことだ。
つかさはちらりとクラスメイトたちの顔を伺った。どこか思いつめたようにノートを取る彼ら彼女らは、まるで受験前のピリピリしていた頃を思い出させる。特に進学校でもないこの学校で、半年ほど前に高校生になった一年生には似つかわしくない光景といえた。
それもこれも、どこに風紀委員の目が光っているか分からないからだろう。薫たち正規の風紀委員はアキトの捜索のため、ここにはいないが――何より驚きなのが、授業中であるにもかかわらず風紀委員の活動が教師たちに黙認されていることだ――、反省室から戻ってきて生活態度を改めた女子生徒が、すでに向こう側の人間になったことは想像に難くない。ここであまり好ましくない授業態度を取れば、彼女たちから風紀委員たちの耳へと入り、反省室とやらに連行される可能性は非常に高かった。
時間はまったく遅々と進まず、それでいながら、もう三度目にもなる黒板の数式が消されていくのを見ながら、つかさは“黒研”の部室から戻らなければよかったと後悔した。
我慢も限界、というところで救いのチャイムが鳴り、長い長い数学の授業がようやく終わった。ふっと解ける緊張。教室の空気も軽くなったようだ。つかさは机に倒れ込むと虚脱した。
しかし、このままずっと倒れているわけにもいかないので、つかさは席を立った。アキトのことはミサに任せておけば大丈夫だろう。つかさはとにかく、この校内の異変について調べると言った以上、行動を起こさねばならない。
つかさはまず、隣のB組の教室を覗いてみた。アキトが怪しいと言っていた嵯峨サトルがいるかどうかを見るためだ。ところがサトルの姿はなかった。いつも女子生徒の取り巻きがいるので、いれば必ず目立つはずである。だが、教室はこれまでになく閑散としていた。
次につかさはC組に行った。何かを調べたいときは、いろいろと情報通な新聞部の寧音に尋ねてみるのが一番だと思ったからだ。
しかし、生憎と寧音も教室の中にいなかった。やはりここも生徒の数が少ない。ひょっとすると、多くの生徒たちがアキトの捜索に駆り出されているのだろうか。もし、その通りであるなら、それは風紀委員の影響力の大きさと目に見えないものに支配された恐怖を窺わせた。
とりあえず誰かと接触しなければ何事も始まらない。つかさは特に行く当てなどなかったが、犬も歩けば棒に当たる、とばかりに移動してみることにした。
途中、やはり左腕に腕章をつけた風紀委員の姿が目についた。朝から驚くべき速さで激増しているように思える。すれ違いざま向けられる視線に、つかさは自分が見張られているような気になったが、努めて平静を装った。
「武藤くん」
不意に背後から名前を呼ばれた。振り返ると、そこにいたのは沙也加である。伊達と脇屋も一緒だった。
「待田先輩」
つかさはまた自然と赤くなってしまうのをどうしようもできずに、慌てたようにペコンとお辞儀をした。そんな可愛い後輩に沙也加は微笑む。
「あなたのクラスの仙月くん、何か大変なことになっているみたいだけど」
沙也加に心配されて、つかさは頭を掻いた。
「そうなんです。風紀委員から目の敵にされているみたいで」
「どういう理由でそうなっているのか知っているの?」
「いいえ、全然」
つかさは本心からかぶりを振った。
すると沙也加の横で、伊達がふんと鼻を鳴らした。
「待田くん、あいつはこの学園の恥部なんだよ。これまでの罪状を挙げていたら、キリがないよ」
アキトと因縁のある伊達は、この指名手配のような状況を当然と思っている様子だった。確かにアキトはいろいろな問題を起こしているだけに、つかさは言葉がない。
「でも、今の状況は異常です。こんな実力行使でなく、話し合いから始めてみるべきじゃないでしょうか」
沙也加が優等生的発言をした。伊達は顔をしかめる。
「キミはあいつの本性を知らないから、そんなことが言えるのさ。あいつにまともな話し合いなんて無意味だね」
ひどい言われようではあったが、つかさは否定できなかった。言って聞かせるだけで、アキトを止められるわけがない。
それでも、と沙也加は言った。
「いくら規律を守らせるためとはいえ、風紀委員があんな風に生徒を取り締まるなんて、越権もいいところだと思います。おそらくは新生徒会長の指示なのでしょうが、この性急すぎる改革は生徒の人格まで無視しているようで看過できません。やはり年長者として、また前生徒会の一員として忠告しておくことは必要ではないでしょうか」
「それは、まあ、そうかもしれないけど……」
選挙に敗れた自分たちが勝者に苦言を呈しても聞き入れてもらえるかどうか、伊達はそのことに懐疑的なのだろう。勝てば官軍、負ければ賊軍。圧倒的な支持率の下、新しい生徒会長になった嵯峨サトルに逆らえば、今度は自分たちがアキトのような立場になる恐れだってある。
「とにかく、私たちはこれから生徒会室へ行って、嵯峨くんに会ってくるつもり。彼にこんなことは辞めるよう言わないと」
そう話す沙也加に比べ、伊達も脇屋も消極的に見えた。それでも三年生として、少なからず見て見ぬふりはできないようだ。
「なら、ボクも行きます」
つかさは勇気を振り起こして決めた。沙也加はちょっと目を丸くする。
「どうして?」
「アキトはボクの友達です。だから、アキトを捕まえて何をしようというのか、嵯峨くんの真意を確かめたいんです」
沙也加をまっすぐに見つめながらつかさは言った。いきなり相手の本丸へ乗り込むのは無謀かもしれないが、回り道をしていては、さらに薫のような変心する生徒が増えるかもしれない。それにつかさは嵯峨サトルと会話を交わしたことがなく、この際、自分の目で見極めてみる必要がありそうだと考えていた。沙也加たちも一緒なら、これ以上、心強い味方はいない。
真剣なつかさの顔を見て、沙也加はうなずいた。
「分かったわ。一緒に行きましょう」
つかさたち四人は生徒会室へ向かった。サトルはB組の教室にいなかったから、いるとすればここだろう。
ところが生徒会室の前には、木刀を持った薫がまるで警護するように立っていた。
「薫」
「つかさ、どうしたの?」
尋ねる薫の口調はいつもと違い、素っ気なかった。つかさは気後れする。
「いや、ちょっと嵯峨くんに会いに……」
「生徒会長は、今、忙しいわ」
「忙しいって……ちょっとだけでいいんだ。僕たちの話を聞いてほしい」
「ダメよ」
「お願いだから」
「しつこいわね。ダメなものはダメよ」
親しいはずのつかさに対し、薫はあくまでも冷淡だった。ここはつかさに代わって沙也加が前に出る。
「忍足さん。あなたから嵯峨くんに都合を伺ってくれない? 今がダメなら、いつならいいのか? まさか、私たちとの面会を全面的に拒否するわけではないでしょう?」
「………」
薫は黙った。考えているのかもしれない。
すると生徒会室のドアが何の前触れもなく開いた。現れたのは男子生徒。ただし、サトルではなかった。
「大神くん?」
サトルと同じクラスの大神は、最初、誰にも眼中にない様子だったが、ゆっくりとつかさの方へ顔を動かした。しかし、無反応。すぐに薫の方へ向く。
「全員を招集してくれ」
「分かったわ」
大神に言われ、薫は去って行った。言葉通りに受け取るのなら、風紀委員たちを呼びに行ったのだろう。つかさはイヤな予感がした。
そのとき、つかさは気がついた。いつも大神の首から下がっているカメラがないことを。
同時に、大神は目の前のつかさに何を勘付いたのか、いきなり顔を近づけ、鼻をくんくんさせた。その思いもよらない行動にびっくりし、つかさは反射的に身体を反らす。
すると大神がつかさをじっと見つめた。
「仙月アキトの匂いがするな」
「――っ!」
つかさはドキリとした。大神の冷たく鋭い眼。そして悟った。
(大神くんまでも……!)
アキトのことを「兄貴」と呼ばなかった大神に、つかさは愕然とした。大神もまた薫同様、風紀委員の手先になったのだ。それはつまり、アキトの敵に回ったということになる。
だが、大神はそれ以上、何も言わず、急につかさから興味がなくなったかのように、廊下を歩き始めた。その後ろ姿を見送りながら、つかさはどうすべきか唇を噛む。
大神は狼男だ。この学校で唯一、アキトと比肩できる存在だろう。そして、狼男の恐るべき嗅覚を持ってすれば、今、つかさからアキトの匂いを嗅ぎ取ったように、どこへ逃げ隠れたか容易に追跡できるかもしれない。
(アキトが危ない!)
つかさは一刻も早くアキトに知らせねばと思った。つかさは沙也加たちを振り返る。
「すみません。ボク、急用を思い出しました!」
「えっ?」
あまりにも唐突に言い出したつかさに伊達が面喰った。脇屋もそうだ。しかし、沙也加だけはやさしい微笑みを絶やさない。
「分かったわ。嵯峨くんとは私たちが話すから」
「ごめんなさい、勝手なことばかり」
「いいのよ。さあ、急いでいるのでしょ? お行きなさい」
沙也加に促され、つかさは駆け足になった。大神とは同じ方向へ行かず、遠回りながら別の道を通ることにする。
つかさがいなくなると、沙也加たち三人は生徒会室のドアをノックした。
「どなた?」
中から誰何の声。サトルだ。
「待田です」
「どうぞ」
警戒も何もない返事に、沙也加たちは生徒会室の中へと入って行った。
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