−34−
「しまった! もう始まっちゃってる!」
“黒研”の部室近くまで来たつかさは、その前に群がっている風紀委員を認めて、あちゃあ、と呻きつつ右手で額を押さえた。
せっかく、大神ら風紀委員よりも早く、アキトに危機を知らせようとしたのに、これでは急いだ意味がなかったというものだ。言い訳が許されるなら、どういうわけか“黒研”の部室へ辿り着けなかったせいである。もう同じところを三回は通っていたのに。
つかさが辿り着けなかったのは、言うまでもなく、ミサが“黒研”に張り巡らせた結界のせいである。その結界は普通の人間を寄せつけず、何もなかったかのように素通りさせてしまう効果を持っていたのだ。いくら、つかさがアキトの味方であろうとも、その効果を免れることはできなかった。
だが、今や“黒研”の部室は、人間ではない、狼男の大神によって結界が破られ、その所在は明らかになってしまっていた。時すでに遅し。騒動となっている現場を目の当たりにして、つかさはどうすべきか迷った。
まごまごしているうちに、元々は生物室である“黒研”の中で、机や椅子が倒れたり、床を引きずる音が大きく響いた。おそらくはアキトが暴れているに違いない。
「アキト!」
つかさは中で何が起きているのか心配で居ても立ってもいられなくなった。しかし、その入口には二十人くらいの風紀委員が群がっていて、とてもではないが中に入れそうもない。風紀委員たちとしても、全員で中に踏み込みたいのだろうが、おそらくはアキトの暴れ方が尋常ではなく、近づけないというのが実情だろうと思われた。
その“黒研”の部室では、つかさの想像通り、狼へと変化した大神の牙をアキトがなんとか躱し続けていた。
「ああ、うるせ、うるせ、うるせえ! 可愛い女の子の唇ならともかく、おめえの臭い口なんか願い下げだ! あっちへ行け!」
「ガルルルルルルッ!」
まだ左肩から先が使えないアキトは、なかなか攻勢に回ることができなかった。何しろ、相手は狼男の大神だ。いくら超人的な吸血鬼<ヴァンパイア>のアキトといえども、簡単には屈服させられない。
大神は机から机へと飛び移りながら、アキトを追い詰めようとした。隙あらば、その鋭い牙を首筋に立てようとする。目にも止まらぬ俊敏な動きに、アキトの回避は綱渡りのように冷や汗ものだった。
そして――
アキトと大神以外にも、対決の火花を散らす者が二名いた。ミサと薫だ。
薫は木刀を構えながら、油断なくミサを窺った。
「大人しく私たちに従ってちょうだい。妙なマネはしないで」
「妙なマネ? それは例えば、どういうことかしら?」
ミサはタロット・カードを並べていたテーブルのそばに立ち、その神秘的な瞳を光らせた。学園の“魔女”。そのミステリアスな存在が、人々を震撼至らしめる。剣道では百戦錬磨の薫も、切っ先はわずかに揺れていた。
「何も手に触れないで。ゆっくりとそのまま、こちらへ来るのよ」
「まあ、テーブルにも触れてはいけなくて?」
ミサは試すように、テーブルへ指を置く。
その刹那である。薫は本能的に危険を察知し、ミサに向けて問答無用に木刀を振るった。が、それよりも一瞬早く、ミサはテーブルの上に被せられていた黒いビロードのテーブルクロスをつまみあげる。それはふわりと宙に舞い上げられ、薫の視界が黒一色に塞がれた。
「ムダなことを!」
目の前の暗幕を薫は木刀でもって切り裂いた。だが、それこそがこの“魔女”、黒井ミサの狙いだったのだ。
切り裂かれたテーブルクロスは、ミサの黒魔術によるものか、瞬時にしてその形を変えた。それらはバラバラになると、キィキィと耳障りな啼き声を発し、バサバサと縦横無尽に羽ばたきだす。元々、暗かった室内が、さらに闇に覆われたようだった。
「キャーッ!」
入口にいた風紀委員の女子生徒がそろって悲鳴をあげた。
ミサが空中に放り投げたテーブルクロスは、今や無数のコウモリと化し、まるで光届かぬ洞窟の中のように、“黒研”の中を狂ったように飛翔し始めた。室内はたちまち阿鼻叫喚のパニックに陥る。恐慌状態の女子生徒は、その場から泣き叫びながら逃げ出した。
コウモリもまた、まるでそのあとを追うかのように、室内から廊下へと出て行った。身の毛もよだつ甲高い啼き声を響かせながら、校舎を飛び回る様は悪夢のようだ。さすがは黒井ミサの黒魔術。
ほどなくして混乱が収まった“黒研”には不思議な静寂が漂った。誰もがコウモリの乱舞に度肝を抜かれ、一種の虚脱状態に陥ったのだろう。薫は無論のこと、アキトも大神も戦いを忘れて茫然と突っ立っていた。
「アキト!」
騒ぎのおかげで、ようやく“黒研”への入口を通れるようになったつかさが中に飛び込んできた。その声に、やっと一同が我に返る。
「つかさ」
「大丈夫、アキト!?」
アキトの首は相変わらず左に傾いたままだったが、特にひどいケガは負っていない様子に、つかさはホッと胸を撫で下ろした。しかし、状況は好転したわけではない。
薫はいつの間にかミサの姿が消えていることに気づき、慌てて周りを見回した。だが、コウモリの群れに紛れて脱出したのか、それとも、あのコウモリこそがミサ本人だったのかは定かではないが、特に隠れられそうな場所もない室内のどこにもいないのは明白である。まんまとミサにしてやられ、薫はギュッと唇を噛んだ。
その怒りの矛先は、室内に残ったアキトとつかさへ向けられることとなる。
「仙月アキト! それにつかさ! これほどの騒ぎを起こした以上、ただじゃおかないわ!」
「何を今さら。最初から手加減無用だったクセに」
「ねえねえ、アキト」
ブチブチ言うアキトをつかさは横からツンツンした。
「何だ?」
「大神くん、変身しちゃっているけど」
一応、大神が狼男であることをつかさは知っているが、それよりも驚いたことは、薫たち一般生徒の前で変身した姿をさらしていることであった。これでは隠してきたはずの大神の正体がバレバレではないか。
「でも、みんな、納得ずくみたいだぜ」
アキトはわざとらしく肩をすくめて見せた。
「なんで?」
「これも、あの嵯峨の野郎のせいらしい」
「嵯峨くんが!?」
「ああ。ヤツは催眠術でこいつら全員を操ってやがるんだ」
喋っている間に、嵯峨サトルの下僕と化した薫と大神がじりじりと間合いを詰めてきた。アキトとつかさは背中合わせに立つ。
「じゃあ、どうするの?」
「どうするのって、オレの催眠術じゃ解けないらしいんだな、コレが。となると、手段はひとつしかねえ」
「はぁ、やっぱり」
つかさはあきらめたように嘆息した。目の前には薫が木刀を構えて迫って来る。つかさは思わずひるむ。
そのとき、アキトの手がつかさの手首を握った。
「薫を相手に出来ねえだろ? なら、お前はこっちを頼む」
次の刹那、二人はくるりと立ち位置を変えた。アキトは薫と、つかさは大神とだ。
気の優しいところがあるつかさには、仮に自分へ危害を加えようとする者であっても手を上げることができない弱点があった。しかし、相手が人間ではなく、化け物であれば話は違ってくる。
「分かった」
狼男の大神をアキトに任され、つかさは力強くうなずいた。
「やああああああああっ!」
薫の木刀が真っ向から振り下ろされたのが合図だった。アキトはそれをかいくぐるように避け、死角へと回り込む。大神が咆哮をあげ、牙を剥いた。つかさは静かに古武道の構えを取る。少女のような童顔が引き締められた。
不死身の狼男に普通の打撃技が通用するとは思えなかった。となれば、祖父より教え込まれた発勁を使う以外にない。つかさは《氣》を練った。
大神の牙と爪をつかさは必要最小限の動きで見切った。どうやらやれそうだ。《氣》が充填されるまで、大神の攻撃を逸らすことに専念する。
アキトもつかさ同様、薫の木刀から逃げ回った。
「卑怯者! 男が女に背を向けるか!」
「ふざけろ! 素手の人間を武器で殴ろうとするヤツの言い草か!」
何と言われようとも、左の腕を使えない今のアキトには反撃の手立てがない。
アキトは教卓を挟んで薫と対峙した。まるで追いかけっこをしているかのように、右へ左へ、フェイントをかけて薫を揺さぶる。しかし、薫の反応もなかなかのもの、簡単には引っかかってくれない。アキトは一計を案じた。
「ならば、これはどうだ!」
後ろの黒板からアキトは黒板消しをひったくった。そして、それを教卓に何度も叩きつけ、チョークの粉の煙幕を浴びせる。
「うりゃーっ! どうだぁ!」
「うっ、コホッ、コホッ!」
たまらず薫は咳き込んだ。効果ありと見て、アキトはニマリとした。
「がっはっはっ! 苦しいだろ! それそれ、目も開けていられ――ゲホッ!」
勢い込みすぎて、アキトもチョークの煙を吸ってしまった。それでも黒板消しをはたくのはやめない。二人してケホケホ苦しむ。それにしても、なんという小学生レベルの戦いであろうか(汗)。
それに比べて、つかさと大神の対決は見応えがあった。紙一重の攻防が間断なく続けられている。もしも狼男の一撃を生身のつかさが受ければ、その時点で勝敗は決してしまうだろう。つかさも軽く避けているわけではない。大神のスピードは尋常ではなく、少しでも気を緩めれば命取りになる。
たっぷり三分間は大神の猛攻を凌いだであろうか。そろそろ、丹田――へその少し下――に《氣》がたまりつつあった。
「大神くん、ごめん!」
反撃に転ずる前、つかさは一言詫びた。そして、丹田に集めた《氣》を拳へと注ぐ。
「ガアアアアアアアッ!」
「破ッ!」
業を煮やして飛びかかった大神に、つかさの発勁が炸裂した。
<次頁へ>