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その瞬間、薄暗かった“黒研”の部室がカメラのフラッシュでも発光したかのように明るくなった。狼の姿へと変身した大神が放物線を描いて宙を飛ぶ様は、まるでスローモーションのようだ。しかし、それは一瞬の出来事。机と机の間に落ちたとき、その光景を逐一、目撃していたはずの風紀委員たちは、一体、何事が起きたのか理解できなかっただろう。ましてや、それがつかさの仕業であろうとは。
高校生というより、まだ入学したての中学生みたいなつかさが、このライオンくらいありそうな狼男を吹き飛ばしたと誰が信じられようか。普段は女の子のようだとからかわれ、自身も引っ込み思案な少年が、よもや祖父から教えられた古武道を会得し、その発勁の極意を繰り出したなどと夢にも思うまい。
だが、不死の肉体を持つはずの狼男を一撃で撃退して見せたのは、紛れもなく武藤つかさ、その人なのだった。体格の優劣など関係ない発勁の威力は驚嘆に値する。室内は水を打ったように静まり返った。
発勁を放った当のつかさも、あまりにも見事に技が決まったせいか、一瞬、茫然としてしまった。発勁を喰らった大神は床に伏したまま動かない。
そのとき、驚き半分、賞賛半分に、アキトが口笛を吹いた。
「やったな、つかさ」
アキトはウインクして、親指を立てる。
そのアキトと相対していたはずの薫も、大神がやられたことにショックを覚え、木刀を振るうことも忘れた様子だった。それほどにつかさの一撃は鮮やかであり、一同に衝撃を与えたことは間違いない。
ところが、一番青ざめたのはつかさであった。ひょっとして、大神を殺してしまったのではないかと恐怖に駆られる。つかさは伸びている大神を恐々と覗き込んだ。
「お、大神くん!? 大神くん!」
つかさがごわごわした灰色の毛皮に手を触れると、大神の肉体はVFXもかくやという具合に、見る間に狼から人間へと戻った。いや、狼男の場合、どちらが本来の姿なのか分からないので、戻った、という表現が正しいのかどうか不明だが、とにかく、大神が攻撃力を失ったのは確かなようである。
いつもの見慣れた姿に戻った大神の胸は規則正しく上下していた。どうやら気絶しただけのようで死んではいないらしい。そのことを確認して、ようやくつかさは胸を撫で下ろした。
とりあえず不死身の狼男を退治することに成功し、これで形勢はアキトたちに傾いた。あとは再び木刀を構え、闘志を取り戻した薫を除けば有象無象の雑魚ばかり。
「どうする? まだ続けるつもりか?」
目の前の薫に、アキトはウインクして見せた。薫の歯がぎりりと噛みしめられる。
「そっちこそ、痛い目を見る前に降参したら?」
「誰がするかっつーの」
相変わらず教卓を間に挟んだまま、二人は睨み合った。つかさが加勢できればいいのだが、大神のような化け物ならともかく、生身の人間相手に拳を振るう気にはどうしてもなれない。ただ二人の対決を見守るしかなかった。
薫は何とか有効打を放とうと、左右どちらかに回り込もうとした。しかし、アキトはそれを見て取ると、常に教卓を間に置くようにして、回り込ませるのを防ぐ。薫は苦し紛れに木刀を突き出すが、教卓に阻まれているせいでアキトにはどうしても届かなかった。
「どこまでも逃げ回るつもりね?」
「昔から言うじゃないの。『逃げるが勝ち』って」
「『攻撃は最大の防御』とも言うけど?」
「だから、そういう挑発には乗らないって」
「そう。ならば、こっちは正々堂々の正面突破よ!」
おもむろに薫は背を見せた。どうするのかと思ったら、椅子を踏み台にして、机に登り、さらに取って返すようにして教卓へと跳んだ。回り込むことが難しいのなら飛び越える。単純な発想だ。
アキトは本能的に動けなかった。薫の動きに不意を打たれたからではない。目の前で薫の短いスカートがひるがえったからだ(笑)。思わず下から覗き込みかける。
「やああああああああああっ!」
裂帛の一撃がアキトに振り下ろされた。狙いはアキトの脳天。スケベ心丸出しで薫のパンチラを見ようとしている場合ではなかった。
「すわわわっ!」
アキトは身を伏せるようにして、薫の攻撃から逃げた。勢い余った木刀は、そのままアキトの後ろにあった黒板を真っ二つにする。もちろん、文字どおりにぶった斬ったわけではないが、黒板にはその壮絶さを物語る亀裂がきれいに縦に走っていた。腰を抜かしたような格好でそれを見たアキトは、口をパクパクさせる。
「な、な、なんちゅーことを……」
寸でのところで攻撃を躱された薫は、キッとアキトを睨んだ。
「ちょこまかと、ゴキブリみたいに!」
それを肯定するかのように、アキトはまるで別の生き物にでもなったかのように手足を動かし、ガサゴソと床に這いつくばって逃げ出した。教卓の上に乗った薫は、机から机へと身軽に飛び移りながら、それを追いかける。
「待て!」
薫は木刀を振り回しながら、なおもアキトに迫った。まるで義経の八艘飛びよろしく、縦横無尽に動き回りながら、段々とアキトを部屋隅へと追い込んでいく。それを見守ることしかできないつかさはハラハラした。
とうとうアキトの退路がなくなった。アキトは振り返ると、尻餅をついた格好で身を硬くする。薫は最後の詰めを誤らぬよう、机から飛び降り、慎重に近づいた。
「そこまでのようね」
トドメを刺さんと、薫は木刀を上段に振り上げた。アキトは何か逆転の方策はないかと、素早く左右に目を走らせる。だが、それらしきものは何も見当たらなかった。
「ムダな足掻きはそれくらいにしたら? どうせ、片腕しか使えないお前に勝ち目はないわ」
当然のことながら、薫はアキトの左肩が上がらないことに気づいていた。アキトの唇が強がった笑みの形に吊りあがる。
「それがどうした。片腕が使えないくらいで、丁度いいハンデだぜ」
「まったく、その減らず口は大したものね。呆れてものが言えないくらい」
「そりゃどうも」
「それもこれで終わりよ!」
今度こそトドメと、薫の木刀が唸った。まるで自分に振り下ろされたような錯覚に陥りながら、つかさは目をつむる。これでアキトも一巻の終わりか。
と――
数秒待っても、アキトの断末魔はおろか、頭をかち割る鈍い音も聞こえてこなかった。不審に思いながら、つかさはおっかなびっくり目を開けてみる。その視界にアキトと薫の二人の姿があった。
薫の木刀はアキトへと届いていなかった。アキトの頭まで、わずか数センチ。その切っ先は力の拮抗を示すようにぶるぶると震えてはいたが、アキトの息の根を止めるまでに至らなかったのだ。
渾身の一撃を防いだアキトは邪ないやらしい笑みを満面に浮かべていた。
「真剣白羽取り――なんてな」
確かに薫の木刀はアキトによって挟みこまれていた。しかし、アキトは両腕を使えぬはず。それはいかにしてなされたか。
誰もが目を疑ったであろう。本来、両手で受け止めるはずの真剣白羽取りを、アキトは珍妙な格好ながら両足で代用したのだから。
床に座り込むような格好で薫の攻撃を許したのは、決して立つことも出来ずに逃げ場を失ったからではなかった――ということにしておこう。現にこうして頭のすぐ上まで足を上げて真剣白羽取りをしてみせたのだから、きっとアキトなら平気でうそぶくに違いない。
「どうだ、恐れ入ったか」
「くっ」
形勢逆転。薫は必殺の技を受け止められたばかりか、武器である木刀をも封じられ、悔しさにほぞを噛んだ。足という邪流ながら、真剣白羽取りは完璧に決められており、いくら薫が押そうが引こうが、木刀を取り返すことはできなかった。薫は剣道家だ。得物を奪われては、その実力は完全に失われてしまう。
アキトが勝った、と安堵したつかさであったが、次の瞬間、あるものを見つけてギョッとした。おそらくはこの騒動のどさくさで動いたのだろう、二人の近くにある机の上から、ミサがアキトの治療のために作った小さな砂人形が今にも落ちそうになっていたのだ。
琳昭館高校の“魔女”黒井ミサは言っていた。呪い移しが終わる前に人形を壊したら、最悪の場合、死ぬ――と。
「アキト! アキトぉ!」
「ん!?」
つかさは必死になって、指を差しながらアキトにそのことを教えた。アキトは初め、つかさが何を言おうとしているのか分からない様子だったが、机の上の人形に気がついて顔面をひきつらせる。その刹那、真剣白羽取りの挟む力が、若干、ゆるんだ。
懸命に木刀を取り返そうとしていた薫は、アキトの力がゆるんだ瞬間を見逃さなかった。アキトの足から木刀をもぎ取ろうとする。両者の体勢が崩れた。
「こっ、このぉ!」
「うわっ!」
薫の木刀がアキトの足から抜けた。その拍子に薫がよろめき、すぐ後ろにあった机にぶつかる。人形があった机に。
「あっ!」
つかさの口から思わず声が漏れたが、もう遅い。
アキトの身代わりである人形が机の上から落ちた。
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