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「わっ、わっ、わぁーっ!」
それはまるでスローモーションのように見えた。ゆっくりと落ちていくミサが作ったアキトの身代り人形。床上まであと五十センチ、四十センチ、三十センチ……。
いかな吸血鬼<ヴァンパイア>のアキトといえども、わずか一メートルちょっとの距離でありながら、その落下を防ぐ手立てはなかった。無論、アキトよりさらに離れたところで立っているつかさも同じこと。ただ、できることは、すべての終わりを目撃することのみ。
「もうダメだ!」
その瞬間を直視できなくて、つかさは南無三とばかりに目をつむった。
為す術なく、はかない砂人形はもろくも床の上で砕けた。しかも追い討ちのごとく、よろめいた薫の足が身代り人形を完膚なきまでに踏みつける。アキトの分身は呆気なく壊された。
そのとき、アキトは――
「くっ!」
体勢を大きく崩しながらも木刀を取り戻すことに成功した薫は、すぐさまアキトへの攻撃に転じようとした。ところが、その動きが止まる。なぜならば目の前のアキトに異変を感じ取ったからだ。
“黒研”の部室が奇妙なくらい静まり返った。その沈黙に耐えきれず、つかさはどうなったのかと気になり、次第に目を開けていくと――
砂人形を踏みつぶしたまま、木刀を振り上げて止まった薫の姿と、床に座り込んだまま顔を伏せたアキトの二人。どちらも、まるで時間が停止したかのように微動だもしていなかった。
が、次の瞬間には――
「へへっ!」
おもむろに伏せられていたアキトの顔が表に向けられた。あの、いつもの不敵で憎々しげな笑み。憎まれっ子世にはばかるとは正にこのこと。一巻の終わりかと思われていた仙月アキトは、まだまだどっこい生きていた!
「こいつ!」
そのときのアキトの表情が、余程、気に食わなかったに違いない。薫は怒りにまかせて木刀を振り下ろした。しかし、それはいつもより鋭さに欠けていたと言わざるを得ないだろう。その証拠に薫の木刀は、アキトの左手に易々とつかまれてしまったではないか。
――そう、左手に。
つかさは思わず、身を乗り出した。
「アキト!」
「ふっふっふっふっ」
アキトの肩が小刻みに上下した。笑っているのだ。対する薫が訝しげな顔をする。と、いきなりつかまれた木刀がぐいっと引かれ、薫の身体はアキトに捕まってしまった。
「よっしゃーっ! 仙月アキト、完全ふっかぁぁぁぁぁぁつ!」
薫を後ろから抱き締めるような格好で、アキトは高らかに宣言した。左肩はもちろん、曲がっていた首も元通りになっている。
「ど、どういうこと?」
つかさは尋ねずにいられなかった。身代り人形が跡形もなくなってしまったのは明らかだ。呪い移しが失敗すれば、アキトは死ぬのではなかったのか。
「天は我に味方したのだよ、つかさくん。まあ、世界一いい男であるオレを神が見捨てるはずがないけどな」
アキトは柄にもなく気取って言った。でも、そんな答えでは、つかさは納得できない。
「だから、どうして?」
「つまり、あの床の上で砕ける直前に呪い移しが完了したってワケよ。正にグッドタイミングだったってこったな。それでオレは全快、人形はお役御免でさよ〜なら〜」
あの土壇場でアキトの目は、身代り人形の左肩に刺さった針が音もなく霧消していく瞬間を目撃していた。床に落ち、薫に踏みつけにされたのは、その直後だ。
それにしても不可避と思われた絶体絶命の場面で、運よく完治するとは――まったくもって悪運もここに極まれり。ご都合主義、万歳!(笑) 主人公は死なず、である。
かくして、復活したアキトは有頂天になっていた。
「へっへっへっ、薫、今まで好き放題に弄んでくれたな。ちょっとお返しをさせてもらおうか」
アキトはいやらしい笑みを漏らすと、後ろから抱きしめるような格好になっている手をくすぐるように動かした。危険を感じた薫は必死になってガードし、身をくねらせる。だが、所詮は男と女の力の差、抱きついたアキトからは逃げられそうもなかった。
「こ、この変態! 色魔!」
薫がいくらののしろうとも、アキトが手を緩めようはずがなかった。こんな千載一遇のチャンスを逃すような輩ではない。まったく、見ているつかさの方が赤面ものだった。
「あ、アキト、やめなよ」
「ヤだ! オレはこいつに殺されそうになったんだぞ! この場で手籠めにしてやる!」
「手籠めって……」
時代劇か? 薫は歯を食いしばった。
「離せ! 離さないか!」
「さあ、これからじっくり、たっぷり、ねっとりと、男の味とやらをその肉体に教えてやろうか!」
もはや、どちらが悪役なのか分からなくなっていた。やはり身代り人形と共に消えていた方が世のため人のためだったか。つかさは痛切に思う。
「まずはチューからだ。ほれ、その唇を差し出せ!」
タコのように唇を尖らせて、アキトはキスを迫った。薫は必死に顔を背ける。
「イヤっ! やめてったら、やめて!」
そろそろアキトを止めた方がいいだろう、とつかさは判断した。軽く発勁を使って、頭でもはたいてやろうか。
「アキト、いい加減に――」
ところが薫の抵抗の方が凄まじかった。上半身が自由にならないと見るや、唯一、動かせる足でアキトの爪先を踏みつける。全体重を一点にかけた。
「ギャアアアアアアアッ!」
不意討ちを喰らい、絶叫するアキト。しかし、反撃はこれだけにとどまらない。今度は頭を後ろに振って、アキトの顎に頭突きをかます。
ゴッ!
後ろ向きで狙いも定められなかったが、目論見通り、薫の頭は見事にアキトの顎へヒットした。そのおかげでアキトの腕の絞めつけが緩む。薫はその隙を見逃さず、自ら沈み込むようにしてアキトの腕から逃れることに成功した。
「はあ、はあ、はあ、この腐れ外道! 乙女の柔肌にベタベタと! 絶対にあの世行きにしてくれ――」
息も切れ切れに振り返り、木刀を構えたはずの薫であったが、次の瞬間、あまりのショックに声も出なくなった。
反撃を喰らったアキトは、しばらく痛みに顔をしかめていたが、罵詈雑言も引っ込んで茫然とする薫を見て、またしても優越感を味わった。
「あの世行き? さてさて、一体どうやって?」
木刀を握る薫の手から力が抜けた。それも当然。木刀は握りから約三分の一のところから折られ、残りの約三分の二はアキトが手にしていたのだから。
薫が変態魔王――もちろん、アキトのこと――から逃れると同時に、まさか木刀そのものを折られていようとは。当然のことながら常人ではない吸血鬼<ヴァンパイア>のアキトだからこそ出来た芸当ではあるが、自らの剣を折られるということは、剣士としては屈辱であり、敗北を意味するものでしかない。薫は膝から崩れ落ちた。
「どうやら戦意喪失みてえだな」
アキトは今や残骸となった薫の木刀を投げ捨てると、辺りを見回した。相変わらず入口付近には他の風紀委員たちが群がっているが、アキトが鋭い一瞥を向けると歯向かうような様子は皆無であり、むしろ目を背けようとする者さえいる。もっとも、彼らのような有象無象が一斉に襲いかかって来たところでアキトの敵ではないだろうが。
「なんとかなったみたいだね、アキト」
ようやくアキトのそばまできて、つかさは声をかけた。アキトは、ああ、とうなずきながら、今まで不自由だった左肩を回してみたり、首をコキコキ鳴らしてみる。どうやら肉体は万全のようだ。
「これからどうするの?」
つかさに問われたアキトだったが、そんなものは聞かれるまでもなく最初から決まっていた。
「もちろん、生徒会室へ殴り込みさ。こんなことを仕組んだ嵯峨の野郎と決着をつけてやる」
アキトはいかついポーズでのっしのっしと歩きながら、廊下への出口へと向かった。自分たちの方へアキトが来るのを見て、ギャラリーだった風紀委員たちは慌てて後ろへ下がる。アキトにはつかさが随行した。
「ホントに嵯峨くんがこんなことをしたのかな?」
「決まっているだろ。この学校がおかしくなったのは、あの野郎が転校してきてからだ」
そのとき、この学校が何かと騒動に巻き込まれるようになったのは、アキトが転校してきてからじゃないか、とつかさは思ったが、あえてそれを口に出しては言わないでおくことにした。
「とっととあの野郎をぶちのめして、元の学校に戻そうぜ」
「それならば生徒会室まで足を運んでいただかなくても結構ですよ」
「――っ!」
廊下を歩き始めて少しもしないうちに声がかかった。今、アキトが一番聞きたくない声が。
「この野郎……!」
アキトたちの前に生徒会長、嵯峨サトルが立っていた。悠然とした微笑をたたえて。
「どうやら、穴蔵から出てきたようですね」
「ああ、この手でお前をぶっ倒しにな」
「相変わらず血の気が多い人だ」
「へっ、人を操って、自分の手先とする陰険な野郎よりはマシだと思うがな」
「そうですか。どうやら僕の力に気づいているみたいですね」
仙月アキトと嵯峨サトル。ついに両者対決のときが訪れた。
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