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美夜は、まるでチーターのように走るゴエモン――なかなか、そんなアリゲーターを想像できないが――の背にしがみつきながら、振り落とされまいと必死に歯を食いしばった。サトルから遠ざかったのと、唸りをあげる風のおかげか、意識の方はクリアになっていくのを感じる。常人では追いつけないスピードのはずだった。
だが、ホッとしたのも束の間、美夜は追っ手の気配を察知し、舌打ちした。サトルかと後ろを見る。しかし、そうではなかった。灰色の獣。狼男の大神だ。
大神は大きな狼の姿へと変身し、その脚力を存分に見せつけていた。琳昭館高校のマッドサイエンティスト《悪魔大使》によって改造強化されたはずのゴエモンに追いつこうとしている。このままでは捕まるのも時間の問題だ。
美夜はゴエモンの耳に――どこにあるかは不明だが――そっと囁いた。
「あなたはこのまま兄貴を探して。この学校のどこかにいるはずだから」
ワニゆえに返事はしなかったが、ご主人様である美夜に絶対服従のゴエモンは、きっとその任務を遂行するに違いない。
あとのことをゴエモンに託し、美夜は一人で飛び降りた。追って来る大神を待ち伏せる。
大神も標的が美夜であった以上、逃げたゴエモンを追うようなことはしなかった。戦闘モードの美夜と対峙する。唸り声が低く漏れた。
「まさか、兄貴の下僕であるアンタが、そっち側についているとは思わなかったわ」
そう言いながらも、美夜の表情に意外そうなニュアンスは微塵も感じられなかった。むしろ冷淡だ。これが狼男に対する吸血鬼<ヴァンパイア>の上から目線なのだろう。
大神は何を言いたかったのだろうか。口からこぼれるのは低い唸り声ばかり。それでもギラギラとした目からは敵意しか読み取れなかった。
「伏せ!」
唐突に美夜は命令した。一瞬、大神の四肢がビクッとする。何か二つのものでせめぎ合っているような、そんな逡巡が窺われた。
「お座り!」
美夜は別の命令を発する。今度は反応が薄かった。頭を振って、もう一度、美夜を睨みつける。
「ダメか。普通、狼男は吸血鬼<ヴァンパイア>に従順なものだけど」
大神が美夜に従わないのは、やはりサトルのせいだろう。サトルがさらに強い服従を強いているに違いない。となれば、戦いは避けられそうもなかった。
「まったく、こっちは兄貴と違って、そんなに血の気が多いわけじゃないのに」
直接対決がほぼ百パーセント決まり、美夜はぼやいた。美夜が得意とするのはトラップを仕掛けることで、殴り合いなどしたこともない。
「ガアアアアアアアアアッ!」
そんな美夜にはお構いなしに、大神は鋭い牙を剥き出しにして襲いかかった。喉笛に食らいつこうとする。
それでも身体能力では遥かに人間を凌駕する吸血鬼<ヴァンパイア>のこと、美夜の反応は素早かった。軽々と十メートル近く跳躍し、大神を躱す。
着地した大神はすぐに身をひねると、まだ空中にいる美夜に飛びかかった。美夜は跳び過ぎたのだ。
大神の殺気を感知し、美夜は目を見開いた。空中では翼でもない限り、身を躱すことはできない。実戦慣れしていない美夜は自分のうかつさを呪った。
そのとき――
「うわああああああああああっ!」
叫び声が尾を引きながら、美夜たちの方へ近づいていた。何事かと見やると、一人の男子生徒がこちらへ向かって飛んでくる――いや、むしろ、落ちてくるといった方が正しいか。
男子生徒は少しでも回避しようというつもりだったのか、左右の腕をぐるぐると回していた。もちろん、そんなことをしても意味はない。
「ど、どいてくれぇ!」
悲鳴に近い声で男子生徒は懇願したが、美夜だって自由落下中、そんなことができるはずもない。美夜は激突を覚悟した。
その両者の間へ割って入るように、タイミング良く大神が飛び込んだ。今まさに美夜へ牙を突き立てようとしたところで。
「――っ!」
「キャイン!」
大神と男子生徒はまともに激突した。両者はもつれるようにして落下。地面に激突の瞬間、美夜は思わず目をつむった。
無事に着地した美夜は、痛ましそうに倒れた大神と男子生徒に近づいた。
「う、うーん……」
男子生徒が呻いた。大神はといえば、こちらは動かない。どうやら大神の上に男子生徒が落ちた格好となったようだった。もっとも、狼男は不死身。これくらいでは死にはしないだろう。
「大丈夫?」
どういうわけで落ちてきたかは分からないが、美夜は命の恩人である男子生徒に呼びかけた。しかし、落下の衝撃がかなり大きかったのだろう。とても起きあがれる状態ではなかった。
美夜は迷った。このまま男子生徒を見捨ててゴエモンと合流すべきか、それとも保健室にでも連れて行くべきか。そうこうしているうちに、複数の足音がこちらへ近づいていることに気がついた。
「いたわ!」
最初、美夜は自分を追いかけてきた風紀委員かと思った。しかし、その中に薫の姿を見つける。晶というボーイッシュな女子高生もいた。
「薫お姉ちゃん」
「美夜ちゃん? なぜ、あなたがここへ? あいつを取り戻しに来たの?」
「あいつって、兄貴のこと?」
「忍足さん」
晶に促され、薫は大神の上に折り重なるようにして倒れている男子生徒に近づいた。
「ヤツだ。間違いない」
「ヤツ?」
「《学園仮面》と自称するふざけたヤツよ。――さあ、その帽子を剥ぎ取って、正体を暴くのよ」
薫の命令で他の風紀委員たちが動いた。いささか警戒しながら近づき、《学園仮面》の学帽を取り上げる。《学園仮面》の素顔が白日の下にさらされた。
「――こいつは!?」
「だ、誰!?」
完全に弛緩したようなマヌケ面を覗き込み、薫たちは首を傾げた。各学年がそろっているはずなのに名前が出てこない。それだけ普段は目立たない生徒ということだろうか。
身体検査をした風紀委員が生徒手帳を見つけた。
「三年D組の田隈太志、とあります」
「この男が三年の田隈? 生徒会長が捜していらっしゃった、あの?」
薫たち風紀委員は通常の仕事の他に、サトルから要注意人物の捜索を命じられていた。一人は黒井ミサ。この学園の“魔女”だ。ミサの姿は、アキトを捕獲した日以来、ふっつりと消えていた。
そして、もう一人が田隈太志。その理由については伝えられていなかったが、見つけた場合は最優先で拘束せよ、との厳命だった。
まさか、黒井ミサによって助けられた田隈太志が、《学園仮面》として自由と平和のために戦っていたとは、彼の本性を知る者には信じられなかっただろう。太志は《秘密結社 悪の科学同好会》を結成し、悪の大首領《悪魔大使》として、この琳昭館高校を手始めに世界征服に乗り出そうとしていたのだから。それが何をどう間違って正義のヒーローなどになったのか。
「とにかく連行して。それから生徒会長に報告よ」
「はい」
ぐったりした太志を風紀委員たちは数人がかりで運ぼうとした。その成り行きを美夜は茫然と見送る。一体何が起きているのか、さっぱり分からなかった。
「美夜ちゃんも来て」
薫に手首をねじるようにつかまれ、美夜は顔をしかめた。大好きな薫に、こんな扱いを受けたことはない。
「痛い、お姉ちゃん! 何するの!?」
「かわいそうだけど、あなたは仙月アキトの妹。生徒会長の前に連れて行く必要があるわ」
少しの呵責も感じられず、薫は淡々と言った。美夜は抵抗する。
「イヤっ! あいつのところへなんか行きたくない!」
「美夜ちゃん、私たちが選んだ生徒会長を悪く言わないでもらえる? あなたはこの学校の生徒じゃないけど、あの方の素晴らしさをもっと理解すべきだわ」
「どうしたの、お姉ちゃん!? 変だよ! そんなお姉ちゃん、おかしいよ!」
「いいから来るのよ!」
「ヤだ! 放して!」
美夜は薫の手をもぎ放した。その途端、薫の右手に握られていた木刀が唸りをあげる。目の前の切っ先を凝視し、美夜は凍りついた。
「抵抗しないで。なるべくなら手荒なマネはしたくないの」
ここまでに至って、ようやく美夜は薫が敵なのだと認識した。やはり大神と同じように操られているのだろう。あの嵯峨サトルという新しい生徒会長に。
美夜はこのまま連行され、再びサトルと対決すべきかと考えた。しかし、あのサトルの目。あれの前では、美夜も操り人形にされてしまう恐れがある。そうなってはお終いだ。
微動だにしない薫の木刀を見つめながら、美夜は逃げるしかないと思った。
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