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美夜はじりじりと後ずさった。走って逃げれば、普通の人間に過ぎない薫たちは追いかけて来られないはずだ。
だが、そんな隙を許してくれる薫ではなかった。美夜が下がれば、その分だけ薫が前に出て、木刀の間合いは一定を保つ。いつ、その一刀が振り下ろされるか、美夜は生きた心地がしなかった。
「桐野さん、彼女を」
薫が牽制しているうちに、美夜を拘束するつもりのようだった。美夜は目をせわしく動かし、他の者たちの動きを警戒する。
そこへ――
一瞬、太陽が陰った。と思う間もなく、薫が何かを察知して後ろに飛び退く。次の刹那、美夜の目の前に黒く大きなものが鋭く突き立った。
「――っ!?」
それは黒光りする金属の塊だった。言うなれば牛をも一刀両断できそうな巨大な鎌。しかも刃の部分がひとつではなく、まるで羽のように二つ、左右に伸びるようにしてついていた。
これが頭上から落ちて来て、薫を下がらせたことは理解したが、どうしてこんなものが突如として現れたのか、美夜にはまったく呑み込めなかった。すると、背後から近づく足音が――
「どうやら、あまり役に立ってくれなかったみたいね」
低く落ち着いた女の声。なぜかは分からぬが、それを聞いた者すべてに鳥肌を立たせるような、そんな鬼気のようなものが秘められていた。
いつの間にか美夜の後ろから現れた人物を見て、薫の目が瞬きを忘れたかのように見開かれる。
「く、黒井さん……!」
「魔女のお姉ちゃん!」
それは今まで姿をくらましていたはずの黒井ミサだった。
琳昭館高校の“魔女”の登場に、風紀委員たちは戦慄した。《学園仮面》よりも最重要とされている要危険人物。彼女が恐ろしい黒魔術の使い手であると、誰もが信じて疑わなかった。
「こんにちは、仙月くんの妹さん」
ミサは相変わらずニコリともしないで、これで二度目の対面となる美夜にあいさつした。そのまま美夜の横に立ち、そっと肩に触れる。
「よかったら、これを使って」
「これを……?」
ミサが目の前に突き立っている両刃の巨大鎌のことを言っているのは美夜にも分かった。言われたとおりに柄をつかみ、地面から引き抜く。身長の倍以上、とても中学生に持ち上げられる代物ではないが、吸血鬼<ヴァンパイア>である美夜にはお安いご用だった。
改めて鎌を眺めると、それがコウモリをモチーフにしたものだと判明した。湾曲した刃が翼。おまけに、頭にあたる部分には、目らしき穴が二つ穿たれていた。
「それは闇蝙蝠の鎌。あなたにふさわしい武器でしょ」
ミサはまるで美夜の正体を知っているような口ぶりで喋った。美夜は闇蝙蝠の鎌を構える。小柄な女子中学生が巨大な鎌を持つ姿は、多くの風紀委員たちを圧倒した。薫を除いて。
「黒井さん、どういうつもり!?」
たじろぎもせずに木刀を構え続けながら、薫は問うた。するとミサが連行されかけていた田隈太志を指差す。
「彼を正義の味方、《学園仮面》に仕立てたのは私。彼がドジを踏んだから、黒幕の私が出てきたというわけよ」
ミサが最初に、「役に立ってくれなかった」と言ったのは、太志が不甲斐なくもつかまってしまったかららしい。それでもミサには失望も落胆もなく、その感情をまったく見せない表情は微々たりとも崩れなかった。
「あなたが黒幕……」
ミサの拍子抜けするくらい素直な自白に、薫は柳眉を逆立てた。
「ええ。仙月くんが捕らえられた今、どうにか嵯峨新体制を突き崩せないかと思って。それに彼も狙われている以上、自分を守るだけの力は身につけておいてほしかったから」
《学園仮面》が持つ分度器カッターや物差しブレード、そして、ジェット噴射にもなる白墨スモークなどは、すべて太志の発明品に違いない。
「ミサ! あんたは田隈が狙われているって知ってたの!?」
口を挟んだのは、ミサのクラスメイトである晶だった。ミサはうなずく。
「もちろん。嵯峨サトルは彼の頭脳を欲していた。彼を意のままに操り、機械の兵士たちを得ていたら、嵯峨は自分の野望をもっと拡大していたでしょう」
「機械の兵士? 何のこと!?」
晶たちは知らない。太志が《悪魔大使》として、悪の尖兵たる怪人を造り出してきたことを。
「さあ、そこまで詳しく教えるつもりはないけど。ただ、世界に多少の混沌が必要なのは私も認めるけど、嵯峨はやりすぎた。不吉だわ。直接手を下すのは私の趣味じゃないけれど、ここまで来たら嵯峨を止めざるを得ない」
「そう。あくまでも生徒会長と私たちに刃向かうというのね! なら、こちらも手加減はしないわ!」
薫は闘志を剥き出しにすると、ミサへと突進した。ミサは美夜の肩を叩く。
「お願いできるかしら」
それは薫の相手を、ということだろう。美夜はコクンとうなずくと、闇蝙蝠の鎌を振り上げた。
「薫お姉ちゃん、うまく避けてよね!」
ブゥゥゥゥゥゥゥン!
巨大な闇蝙蝠の鎌が振るわれると、一陣の風が巻き起こった。美夜の小さな身体が闇蝙蝠の鎌を振り回す。何しろ、美夜の背丈の二倍は優にある巨大な鎌だ。一撃で胴を真っ二つにしてしまいそうなその迫力ともたらす恐怖感は非常に大きい。
薫は身をかがめて闇蝙蝠の鎌を躱した。しかし、そうやって足を止めている間に、二回目の攻撃が襲う。速い。これには飛び退くしかなかった。
大鎌と木刀ではリーチが違いすぎて、薫はなかなか間合いに踏み込めなかった。本来なら、あれだけ長大な得物を大振りすれば簡単に隙が生まれるはずだが、美夜は闇蝙蝠の鎌をまるでバトントワラーのように軽々と、手足のごとく自由自在に扱っている。跳び込むタイミングを計ることはできなかった。
薫が攻め手を失っているうちにミサが動いた。どうやら太志を奪回するつもりのようだ。薫はそれを防ごうとしたが、美夜によって阻まれた。
「ごめんなさい、薫お姉ちゃん。でも、ここから先はダメなの」
美夜は大好きな薫と戦っていることに心を痛めていたが、すべては嵯峨サトルに操られているせいだと思い直し、ミサを援護した。
ミサは真っ直ぐに太志のところへ向かった。その前に晶が立ち塞がる。まるでバスケット・ボールのディフェンスのように両手を広げていた。
「ここまでよ、ミサ!」
目の前の晶に対し、ミサは左に躱してすり抜けようとした。しかし、ミサよりももっと運動神経のいいバスケット選手を相手にしている晶にとって、その動きを読むことはいとも容易いことである。そのままミサを捕まえようとした。
ミサは捕まらないようにと思ったのか、払うように手を動かした。その手が晶の腰に当たる。
「なっ!?」
次の瞬間、電流のようなものが晶の腰に走った。途端に腰が重くなり、下半身が止まる。その横をミサが難なくすり抜けた。
晶は苦悶に顔をゆがませ、脂汗を流した。あまりの腰の痛みのせいで声にならない。半屈みの姿勢で、その場に固まった。
「魔女の一撃」
チラリと後ろを振り返りながら、ミサが呟いた。
魔女の一撃とは急性腰痛症――すなわち、ギックリ腰のことだ。西洋では不意に襲ってくるこの症状をそのように呼んでいる。琳昭館高校の“魔女”たるミサにかかれば、それも手妻のひとつになるのだった。
晶の手を容易にかいくぐり、さらに迫るミサに対して、風紀委員たちは恐慌状態に陥った。頼りの晶は動けなくなり、薫は美夜の大鎌の前に防戦中。そんな状況で“魔女”に太刀打ちできる者など誰もいなかった。
「わ、わぁーっ、魔女だ! 魔女が来るぞ!」
ミサを恐れた風紀委員たちは、連行しようとしていた太志を放置し、我が身可愛さに職務を放棄した。一目散に逃げ帰って行く。ミサも目的は太志の奪還だけに、不必要に追うようなことはしなかった。倒れている太志に、ミサは屈み込む。
かくして、風紀委員で戦えるのは、薫ただ一人となった。
「このままじゃ済まないわよ、黒井さん!」
美夜と激しく鍔迫り合いを演じながら、薫は叫んだ。ミサは太志を介抱しながら、
「ええ。私もこのままでは済まさないつもり。あなたたちの新生徒会長には退場してもらうわ。彼はこの学校に転校などして来なかった。そうなるのが理想的ね」
「何をバカなことを! この学校のほとんどの生徒たちは、嵯峨生徒会長を支持しているのよ! それは選挙の結果で明白でしょ! そんなことは許されないわ!」
「選挙の結果、ね。ならば訊くけど、忍足さんは嵯峨サトルに投票したの?」
「当り前じゃない!」
「本当に? よく思い出して」
薫はミサの言葉に檄した。そんなことは決まっている。自分はあの日、投票用紙に嵯峨サトルという名を――
「――っ?」
ほんの十日ほど前のことなのに、薫はサトルの名を書いた記憶がなかった。そのことに愕然とする。
「私は……私は……」
記憶の混乱にショックを受けている薫へ、ミサは追い討ちをかける。
「あなたは投票日に学校へ来なかった。なぜなら、あなたはその前日に体育館での爆発に巻き込まれ、病院へ運ばれたから」
投票に来なかった? 体育館の爆発?
薫は頭を抱えた。記憶がイメージとなって甦る。自分は投票当日、自宅のベッドの上で悔しい思いをしていた。ケガは大したことがなかったけれど、心配した両親から学校を休むよう強く説得され、渋々、登校を断念したことを。休み明けの月曜日、一緒に選挙応援をしたつかさや待田先輩にどんな顔をして会えばいいか分からず……。
ハッとして、薫はミサを見た。この記憶は本物か、偽りか。
「な、何よ!? 私に何かしたの!? だ、騙しているのね!」
「いいえ。あなたを騙しているのは嵯峨サトル。彼の術もすべての記憶を消せるわけじゃない。そんなことをしたら、個人の人格を破壊してしまうことになるから」
「黒井さん……あなた、何を言って……!?」
「刷り込みはほんのわずかだけ。それを取り去ってあげましょうか。そうすれば、あなたにとっての真実が何であるか分かるはず」
ミサは立ちあがると、薫の方へと歩いてきた。薫は美夜と組んだまま、逃げようにも逃げられない。気がつくと、すぐ目の前までミサが来ていた。
「さあ、忍足さん。思い出すのよ」
「や、やめて……!」
有無を言わさず、薫の顔へミサの手がぬっと伸びてきた。
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