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人が人を殴ったとき、こんなにも大きな音がするのだろうか。それは、ほとんど交通事故で車にはねられたようなものだった。そう形容するしかないアキトの怒りの一撃。音が反響する体育館では、いくら半壊していると言っても、それが何倍にも増幅された。
サトルの身体は、まるで三流コミックの大袈裟な演出のように、バスケット・ボールのゴールへ叩きつけられた。その衝撃でボードは割れ、リングに全体重がかかって、金属の軋みが耳に障る。どうやらサトルは気を失ったらしく、ぐったりとした姿勢で、そのままリングに引っかかって落ちてこなかった。
「ありゃ〜、やりすぎたか?」
手を目の上にかざすようにしてすがめながら、アキトはうそぶいた。内心は「ざまあみろ」と思っている。
「どうだ、つかさ。やったぜ」
アキトはガッツポーズ付きでつかさを振り返った。するとつかさは、さっきまでのように襲ってくるようなことはなかったが、今度は怯えたような表情を浮かべ、いやいやと首を振る。そして、目を背け、悲鳴をあげた。
「お、おい、つかさ!」
尋常じゃないつかさの様子に、アキトは心配になったが、こちらから近づこうとすると逃げられた。まるでアキトを避けるように。
「どうしたんだよ、つかさ! まだ、オレのことが分からねえのか?」
錯乱でもしたかのようなつかさを見て、アキトはサトルがかけた催眠術の後遺症か何かかと思った。早く病院へ連れて行った方がいいだろうかと逡巡する。
そこへ複数の生徒たちがやって来た。
「兄貴!」
「美夜」
アキトの妹、美夜がまず駆け寄って来た。美夜が手にしていた大きな鎌を見て、アキトはギョッとする。美夜はそれを投げ出すと――鎌はズシンと重い音を響かせて、床に突き刺さった――つかさにすがりつくようにした。
「つかさ兄ちゃん、大丈夫!?」
「何だよ、実の兄貴の心配より、つかさの方かよ」
愛情の欠片もない妹の行動に、アキトはげんなりした。
「当り前でしょ! あたしは別に心配してなかったもん! ただ、影兄ィに捜しておけって言われただけで――それより、つかさ兄ちゃん、どうしたの!? 様子が変だよ!」
つかさはすっかり恐慌状態に陥っているようだった。胎児のように身体を丸め、震えている。ついさっきまで、アキトと闘っていた同一人物とは思えない。
「それがオレにもさっぱりなんだよ。いきなり、こんな状態になっちまってよぉ。ヤツの術が解けたのと関係あんのかな?」
アキトはゴール・リングのサトルを親指でちょいちょいと示しながら答えた。
「違うわね」
アキトの言葉に異を唱えたのは、美夜と一緒に来た黒井ミサだった。しかも、どういうわけか薫まで連れている。ミサは風紀委員と敵対していたのではなかったか。
「お前、説明できんのか?」
うろんそうな目を向けながら、アキトはミサに尋ねた。ミサはおとがいをスッと引く。
「彼は別に、術が解けたわけじゃないわ。彼本来の反応よ」
「はぁ?」
アキトには訳が分からなかった。
ミサはつかさの所まで行くと、そっと右手を額の辺りに当てた。まるで目を塞ぐようにして。すると、どのような術が唱えられたものか。震えていたつかさの身体から緊張感が解けた。そのまま静かな寝息を立て始める。ミサが催眠術と恐慌に対して、処置を行ったのだった。
「嵯峨サトルの術は完全に人を操るものではない。何かを刷り込むことによって、本人にそれが正しいことだと思い込ませるのよ。例えば忍足さんの場合は、風紀委員としての行動を本人の中で正当化させた。自分で正しいと思っていることだから、何の疑問も持たずに行動する」
「じゃあ、つかさの場合は、オレを敵だと……?」
「そういうこと。でも、その刷り込みはほんの少しだけ。人間の人格をすべていじることは難しいの。だから、大部分は本来の人格を保っているわ。あなたを敵だと思い込んでいること以外、武藤くんは何も変わっていなかった」
「それとこれと、どういう関係が?」
「待って。分かったわ」
今までミサの隣で黙って話を聞いていた薫が口を挟んだ。
「本来、心の優しいつかさは他人と争うなんて、死んでもできない。誰かを殴るなんて、とてもとても。それでも、つかさは操られたせいでアンタを殴った。つかさにとっては耐え難かったはずよ。自分のせいで誰かが傷つくなんて。それが敵であったとしても。――そうでしょ、黒井さん?」
「まあ、そんなところね」
ミサは百点満点とはいかない表情だったが、それでも合格点であることに間違いはなかったらしい。それ以上の補足はつけなかった。
「なるほどな。――ところで、お前は術が解けたのか? いきなり殴りかかってくるのは勘弁してくれよ」
自分がつかさ以上にアキトをつけ狙ったことを言われ、薫は赤面した。どうやらサトルの催眠術にかけられたときの記憶は残っているらしい。
「黒井さんが治してくれたから、もう大丈夫よ! どうせなら、もっと殴ってあげましょうか!」
薫の手は、殺傷力の高い木刀から竹刀に持ち替えられていたが、それでも渾身の力で殴られたら痛いに違いないだろう。アキトは遠慮しておいた。
「とにかく、つかさ兄ちゃんを保健室へ運ぼうよ」
いくらアキトと闘ったといっても、つかさ自身はまったくの無傷であるから、もう大丈夫のはずだが、美夜はまだ安心できないのか、三人に向って主張した。
「そうだな。オレもケガしてるし」
アキトは口許の血を指差した。しかし、美夜の反応は冷ややかだ。
「兄貴はどうでもいいの!」
「はいはい、そうですか」
「ところでゴエモンは? ここへ兄貴を助けに来たはずだけど」
「ああ、あのハンドバックの素材なら、オレに噛みついてきやがったから、蹴り飛ばして、その辺に転がっているはずだ」
その通り。ゴエモンは少し離れたところで、まだ腹を見せたまま、じたばたともがいていた。それを見つけた美夜の顔色が信号機のように目まぐるしく変わる。
「なっ!? バカーッ!」
美夜は負傷している兄アキトにドロップキックをかました。妹の理不尽な暴力にアキトは抗議する。
「正当防衛だろうが! 何が悪い!?」
しかし、その反論はそこまでで呑み込まれた。美夜が《闇蝙蝠の鎌》を持ち、仁王立ちしたからだ。
「ごめんなさいは!?」
「うっ……くっ……ご、ごめんなさい……」
あんなとんでもない凶器で真っ二つにされてはたまらないので、アキトは不承不承ながら謝った。
「で、嵯峨をどうするつもりだ?」
目の前で行われていた兄妹漫才にまったく動じず、ミサが尋ねた。アキトは、そんなことは決まっている、というような顔つきをする。
「そりゃ、もう何発かぶん殴って、憂さ晴らしを――」
「それはいいが、どうやら逃げられたようだぞ」
「何ィ!?」
アキトは慌てて、ゴール・リングを見上げた。すると、そこにあったはずのサトルの姿が、いつの間にか忽然と消えている。アキトたちが会話しているうちに、気がついて逃げたようだ。
由々しき事態のはずなのに、まったくポーカーフェイスとマイペースを崩さないミサに呆れるやら腹が立つやら。しかもサトルには逃げられたのだ。アキトのはらわたは煮え繰り返り、奥歯がギリッと鳴った。
「野郎、ふざけやがって!」
あのダメージでは、そんなに遠くまでは逃げていないだろうと踏んだアキトは、すぐさま追いかけようとした。その背中に薫の声がかかる。
「ちょっと、どうするのよ!?」
「決まってんだろ! ヤツを追う!」
「一人で大丈夫なの?」
「誰に向かって言ってやがる! オレがあんなヤツにやられるか! お前らはつかさを頼んだぜ!」
後ろも振り返らず、アキトは体育館の外へと出た。が、サトルがどこへ行ったかまでは分からない。血痕でも残っていないかと地面を調べたが、そんなものは都合良く発見できなかった。
そのとき、校舎の方から女の悲鳴が聞こえた。アキトはハッと顔を上げる。
「ヤツめ、学校に戻りやがったか!?」
手負いのサトルがどんな行動に出るか分からない。アキトは悲鳴が聞こえた場所へと急いだ。
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