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主将の加世を始め、女子剣道部員たちが薫を心配して集まった。一瞬の出来事に、薫が蹴られたのではないかと錯覚した者も多かったが、杏が狙ったのはあくまでも竹刀だ。薫にはまったく当たっていない。そのことは、つかさにもちゃんと分かっていた。しかし、だからこそ薫にはショックだっただろう。
つかさと杏が、夏休みや正月休みなどを利用して祖父の家――つまり、今のつかさの家に来て、古武道を教わっていた頃、薫は祖母つばきの華道教室に通っていたので、お互いに顔見知りであり、どれくらいの実力があったか分かっていたはずだ。小学生の頃から大人顔負けの強さだった杏に対し、剣道もやっていた薫は憧れを抱いていたくらいである。よって、今日の手合わせは、自分の成長を量る上でも申し分のないものであるはずであった。いくらか、その溝を埋められたと信じて。ところが結果は完敗。現実の残酷さに薫は打ちのめされていた。
「さあて、つかさ、行こうか」
杏にとってはジャブのような一撃で勝負がついてしまい、いささか物足りない様子だった。敗者には目もくれず、つかさに預けていたニーソックスを座りながら履く。その間、女子剣道部員たちからは敵意に満ちた視線が向けられていた。
「それじゃあ、お邪魔しました」
完全アウェイな雰囲気にも動じることなく、杏は加世たちに挨拶し、去って行こうとした。つかさは何事も起きませんように、と祈りながら、チラリと後ろを振り返る。案の定、主将の加世が怖い顔で睨んでいた。
「待ちな」
引き留められることを予期していたのだろうか、杏はにこやかに振り向いた。ただ、やっぱり目は笑っていない。
「何か?」
「あなたの実力、確かに見せてもらったわ」
「いえいえ、それほどでも」
「でも、やっぱり剣道部の主将として、今回の手合わせは認めるべきではなかった」
「あら、反省?」
「そうよ。大事な大会前にして、こんな危険なことを」
「そんなこと、こっちだって分かっているわよ。だからケガさせちゃいけないと思って、薫の身体には触れなかったじゃない」
「確かに肉体的なダメージはない。でも――」
「精神的なダメージは深刻――ってこと?」
杏は悪魔のような微笑みを浮かべた。確かに、まだ立ち上がれない薫の目の焦点は何も捉えていない様子だ。
「そうは言うけど、この程度でショックを受けているようじゃ、最初から大会なんて出ない方がマシよ」
杏は肩をすくめて言った。これには加世も目を吊り上げる。
「何ですって!?」
「だって、そうでしょ? この世には自分より強い相手なんてゴロゴロしているのよ。それに負ける度にヘコんでいたら、その場から一歩も進めず、強くなんかなれるわけないでしょう。まあ、この琴姫杏は別格だったと、今日のことはとっとと忘れてしまうことね」
杏は臆することなく、堂々と言ってのけた。この発言に反感を持たぬ者はいないだろう。さらに鋭い敵意が杏に突き刺さった。
「……その通りです」
その一触即発の不穏な空気を破ったのは、小さな声だった。薫だ。
他の部員たちの手を借りながら、薫は立った。まだ顔は青ざめているが、瞳には力が戻っている。
「負けた以上、私がもっと強くなるだけのことです。大会も近いですし、しっかりしないと」
一番の痛手を受けたはずの薫にそう言われてしまえば、加世たちも何も言えなかった。あとはもう薫の言葉を信じるしかない。
杏はこれで話は終わりだとばかりに背を向けた。
「じゃあね」
今度こそ、杏は立ち去った。その背中に向かって、薫が一礼する。薫にも負けて得るものがあっただろうか。少なくとも、さらなる高みを目指すだろうとつかさは思った。
何はともあれ、大きなトラブルに発展せずに済み、つかさはホッと胸を撫で下ろしていた。もしも、杏と女子剣道部が乱闘沙汰にでもなっていたら、秋の大会を出場辞退せねばならない事態に陥っていただろう。かつては誰彼なしに挑みかかるようなところがあった杏であるが、いくらかは大人になったのだろうか。つかさは杏の評価を少しだけ上げた。
「ほら、つかさ。何しているの?」
校門を出たところで、まだぐずぐずしているつかさの手を杏は引っ張った。思わぬ寄り道をしてしまったが、琳昭館高校から目的地の神鳳女子短期大学はすぐそこだ。
「そんなに急がなくたって、まだ昼前なんだし、学園祭には間に合うよ」
つかさは杏に請け合った。ところが、
「学園祭? ああ、それ、やっぱやめる」
という一言。
「やめる?」
つかさは自分の耳を疑った。
「うん。大体、お婆さまの家からここまでの道順は分かったから、場所はこれでOKよ」
「で、でも、受験する大学を見学するために東京へ来たんじゃ……?」
「別にいいよ、そんなの。合格すれば、イヤでも通うことになるんだし、そのときにキャンパスを見て回れば」
あまりにも気まぐれすぎる杏の突飛な言動に、つかさはどうしたらいいのか分からなくなった。そんなつかさの腕を杏はグイグイ引っ張る。
「それよりも、せっかく東京へ来たんだし、どっか案内してよ」
「どこかって、どこを?」
「渋谷とか原宿とか。それとも遊園地へ行く?」
「ちょ、ちょっと、何を言い出すの!? ボク、そんなところ、案内しないからね!」
「何? 他のところがいいわけ? あっ、昼間からラブホとか?」
「なっ――!」
杏の過激な発言に、聞いているつかさの方が赤面してしまった。杏は本気なのか、それともからかっているだけなのか、つかさの腕に絡みつくと、大胆にも身体を密着させてくる。
「もお、つかさったら、可愛い顔して積極的なんだからぁ。まあ、つかさがそうしたいって言うなら、私も考えないでもないけど」
つかさの腕に自分の胸を押しつけつつ、杏はほのかに頬を染めた。
「そんなトコ、行きませんッ!」
つかさは断固拒否した。杏の魔の手から必死に逃れる。まったく、杏のことをわずかでも見直した自分が愚かだったと、つかさは悔やんだ。
「神鳳女子に行かないんなら、あとは好きにしてよ! ボクは帰るから!」
「あっ、つかさぁ!」
つかさは杏から離れると、全力で駆け出した。これ以上、杏につき合っていられない。もう、知るもんか。
すぐに杏は追いかけてくるだろうとつかさは踏んでいたが、そのような気配はなかった。つかさを怒らせたことに、いくらかやり過ぎたと反省したのだろうか。あるいは一人で大学へ行ってみる気になったのかもしれない。とにかく、自分にはもう関係ない、とつかさは決め込んだ。
一緒に祖父と修業しているときからとはいえ、杏の身勝手さには、いくら人のいいつかさでもついていけないところがある。それにその頃は、なぜか杏はつかさを敵視しているかのような態度を常に取り、先程の薫とやったような手合わせではコテンパンにやられたものだ。つかさが他人を殴れない、優しい気持ちの持ち主だと知りながら。
そんな杏が、一体いつ、どのような心境の変化でつかさとの結婚まで公言するようになったのか、そこのところが不明でしょうがない。つかさは自分の胸に手を当てて、ちょっと考えてみたが、心当たりと呼べるようなものはなかった。それどころか、何か裏があるのではないかと、そんなことばかりが頭に浮かんで気持ち悪い。
とはいえ、杏は外見上、すこぶる美少女であることは満場一致の事実であり、つかさとしても健全な男子の一人としては、魅力を感じないわけではない。しかし、従姉である。一人っ子だったつかさにとっては姉に等しい存在である杏に対して、恋慕の情を抱くことなど出来はしなかった。
歩いているうちに、段々とつかさの頭は冷めていった。そうすると、一人残してきた杏のことが心配になって来る。ついカッとなって、杏を置いてけぼりにしたことにも罪悪感を覚えた。杏は名古屋から出て来て、ちょっとハメを外してしまったのではないか。それを目くじら立てて腹を立てるなんて、我ながら寛容さが足りなかったかもしれないと省みる。残された杏はどうしているだろう。
つと顔を上げた刹那、けたたましいサイレンの音を鳴り響かせながら、数台のパトカーが法定速度以上のスピードを出して、つかさの横を通り過ぎていった。それは杏と別れた琳昭館高校のある方角だ。つかさはたちまち不安になり、今来た道を引き返した。
ひょっとして、杏が何かの事件に巻き込まれたのではないか。そのような不吉な想像が頭をよぎる。
(杏姉ちゃん!)
つかさは焦燥感に駆られた。
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