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十年前――
小学一年生の頃より、つかさは夏休みや冬休みなど、学校が長期の休みになると、必ず祖父母の家に預けられた。両親が共働きだったこともあるが、実際には祖父の源氏郎がつかさを寄こすよう督促していたらしい。その理由は可愛い孫の顔を見るためというより、つかさに自分の古武道をやらせるためであった。
かつては、つかさの父、源堂<げんどう>も小さい頃から祖父にしごかれていたという。だが、高校生の頃に強く反発したそうで、なんと実家までも飛び出してしまい、それ以降は半ば絶縁状態になってしまったそうである。それでもつかさの母、美彌子との結婚を機に、いくらか父が歩み寄りを示し、関係は修復された。その陰には、母や祖母による両者の説得があったとつかさは聞いている。
そのようなわけで、つかさは父の身代わりとして、祖父に師事し、《天智無元流》を学ぶことになった。無論、祖父の源氏郎は孫といえども甘やかすことなどなく、ひと昔前のスポ根もののように厳しい修行を課したのは言うまでもない。かつていた門下生が次々と去って行ったのも、源氏郎の厳しさゆえだ。元々、体格的にも、生来、小さかったつかさには酷な鍛練であり、そのために傷や痣をこしらえるのは毎日のことだった。
どれほど、祖父のところから逃げ出し、自分の家に帰りたかったことか。子供相手にしては、あまりにも厳しい稽古に、泣いたことだって数え切れないほどある。それでも、つかさは自分から帰りたいとは言わなかった。そんなことをしたら、危うい関係を保っている父と祖父の仲が決定的に破局するに違いないと、幼いながらも察していたからだ。それは同時に、母と祖母をも悲しませることになる。だから、つかさは自分一人で我慢した。
夏休みも半ばを過ぎた頃、祖父から一人で町内をランニングしてくるよう言われた。しかも裸足で。祖父の方針により、稽古中は裸足のことが多かった。大地を踏みしめ、《氣》を感じろ――それが《天智無元流》の基本なのだ。
ランニング・コースはアスファルトで舗装されているとはいえ、小石を踏みつければ涙が出るほど痛い。その日、つかさは角の尖った小石を踏んだせいで、ケガを負ってしまった。
足の裏から血を出したまま、つかさはランニング・コースの途中にある神社の社に座り、独りで泣いていた。あまりの痛さと稽古のつらさに涙は止まらず。いつしか日も暮れてきた時間だった。
「どうしたの?」
つかさに声をかけたのは、剣道着姿の女の子だった。たまたま近道として、この神社を通り抜けていたのだろう。ただし、女の子だと分かったのは声のおかげで、顔はつかさからだとちょうど逆光になっていて見えなかった。かろうじて判別できたのは、袋に入れた竹刀とそこから吊り下げた防具一式。そして剣道着という出で立ちのみだった。
声をかけられたつかさは顔を上げたが、何と答えていいのか分からなかった。元来、引っ込み思案な性格のせいもある。見知らぬ女の子に涙声を聞かれるのもイヤだった。
「ああ、ケガしてんだ。痛そう」
剣道着の女の子は近くまで来ると、つかさの足の裏を見て言った。歳の頃はつかさと同じぐらいだろうか。髪は剣道をやっているせいか、かなり短くしており、男の子みたいである。声を聞いていなければ間違えていたかもしれない。
すると女の子は何を思ったのか、いきなり荷物を下ろすと、くるりとつかさに背を向けた。
「はい」
「えっ?」
つかさは自分に背中を向けた女の子の意図が分からなかった。女の子はじれったそうに振り返る。
「ほら、おんぶしてあげる」
事もなげに女の子が言うので、つかさは狼狽した。
「い、いいよ」
「いいから。そこの水道まで連れてってあげる。傷口を洗っとかないとバイ菌が入っちゃうよ」
そう言って女の子は、つかさを促すように背中を揺すった。
自分が弱虫だと自覚しているつかさではあったが、さすがに同い年くらいの女の子におんぶしてもらうことは躊躇があった。自分は男であり、相手は女の子なのだ。ひ弱な女の子にそんなことをさせるわけにはいかないと。
「ちょっとぉ! 何してんのよ!?」
つかさが動かないことに苛立ったらしく、女の子は癇癪を起しそうになった。つかさは、また半ベソのような顔になる。他人に声を荒げられるのが、何よりも苦手なことだった。
「まったく、もお、何もできない赤ちゃんじゃあるまいし。男の子でしょ!」
よく、つかさが泣いていると、大抵の場合、「男の子でしょ」と言われてしまう。どうして男の子だと涙を我慢しなくてはいけないのか。いつも、つかさは不条理に感じていた。
女の子は自分から背中を押しつけるようにしてきた。これには、さすがの優柔不断なつかさも諦めるしかない。つかさは背負わされた。体格的には似たようなものだが、女の子はふらつきもせず、よいしょ、とつかさを背負い直し、そのまま歩き始める。神社には誰もいなかったにもかかわらず、つかさは恥ずかしくて仕方がなかったが、だからといって今さら降りるとも言えなかった。
水道のところまで辿り着くと、女の子はつかさを降ろした。そして、蛇口をひねってから、つかさのケガした足をグイッと持ち上げ、傷口に流水を当てる。泥で汚れた部分は、傷口に触れないよう気をつけながら、指で拭ってきれいにした。
「そのままにして、ちょっと待ってて」
片脚を上げたまま傷口を洗っているつかさをその場に残し、女の子は、一旦、自分の荷物を取って来た。その中から、まっさらな日本手拭を取り出す。
「ちゃんと洗濯してあるからね」
女の子はそう断りを入れてから、洗った傷跡を確認した後、その日本手拭で足を縛り始めた。
まだ、つかさと同じ小学一年生か二年生くらいなのに、随分と慣れた手さばきだった。そのことに、つかさは礼を言うのも忘れ、ただ感心して見惚れてしまう。ギュッと縛り終えると、女の子は、ポン、とつかさの足を軽く叩いた。
「はい、おしまい。帰ってから、ちゃんと治療してね。――ところで、あなた、靴は?」
「えっ?」
「履いてたものよ」
「……ない」
つかさは消え入りそうな小さな声で答えた。
「ない、って……じゃあ、ここまで裸足で来たの?」
だからケガしたのに、と思ったが、つかさは黙ったままうなずいた。
「へえ、裸足でランニングかぁ。それも稽古なのね。――あなた、家はどこ?」
つかさは祖父母の家の住所を答えた。
町名と番地を聞いた女の子は、おおよその見当をつけた様子だった。
「あそこかぁ。あの空手の道場がある家」
正確には空手道場ではない。よく知りもしない人間にそう言われると、祖父はあからさまに不機嫌になる。
「ここからだと、ちょっとあるね。じゃあ、私の草履、片方貸してあげるよ」
女の子は、つかさがケガをした方の草履を脱いだ。もちろん、つかさにとっては有り難かったが、彼女だって片方が裸足になるのだから申し訳ない気持ちもある。
「私も一緒に行くから。早くしないと、日が暮れちゃうよ」
こうして、つかさは女の子に付き添われながら帰ることとなった。
一足の草履を片方ずつに分けたため、二人は裸足の方になるべく体重をかけないようにしながら、まるでびっこでも引くような歩き方になった。そのため、自然とゆっくりとしたペースになってしまう。
「ねえ、あなた何歳?」
道々、黙っていられる性分でもないのだろう、女の子が尋ねてきた。
「六歳」
「じゃあ、小学一年生?」
「うん」
「だったら、同い年かぁ。でも、ウチの学校では見かけない気がするけど」
「夏休みの間だけ、おじいちゃんの家に来ているんだよ。ボクの家は川崎なんだ」
「おじいちゃんの家って、あの道場がある家だよね?」
「うん」
「胴着を着ているってことは、あなたも道場でやっているの?」
「本当はあまりやりたくないんだけど……」
「どうして?」
「だって、おじいちゃんの教え方は凄く厳しいし、いつもあっちこっち擦り剥いたりして痛いだけで、全然、楽しくないんだもん」
それは祖父母の家では決して口にしない愚痴だった。毎晩、息子の様子を気にして電話をかけてくる母にも弱音を吐いていない。本当は超がつくくらいの弱虫なのに。「ボクは元気だよ」。それがお決まりの返事だ。
しかし、女の子はつかさの答えに不満だったらしい。眉間にしわが寄った。
「今はそうかもしれないけど、強くなれば、きっと楽しくなるよ。私は剣道をやっているけど、楽しいわよ。まだ、他の子は上級生ばかりだから負けることが多いけど、今に勝てるようになるつもり。そのために頑張っているんだ。あなただって、もう少し頑張れば――」
「イヤだよ。ボクは――」
つかさは次の言葉を呑みこんだ。
――ボクは強くなんてなりたくないんだ。
普通、この年頃の男の子ならば、テレビのヒーロー番組などを見て、その強さとカッコよさにあこがれるだろう。しかし、つかさは強いヒーローよりも、やられてしまう悪人についつい感情移入してしまい、可哀そうだと思ってしまうのだ。結局、いくら正義を振りかざしたところで、力による解決しかないヒーローものは、つかさに釈然としないものを残すだけだった。
――みんなが争いなんてしないで、仲良くできればいいのに。
それがつかさの願いだ。
そんな内心の声を聞いたかのように、女の子もまた、深い追及はして来なかった。
口数が少なくなった二人は、それからかなりの時間を要して、祖父母の家に到着した。つかさは黙ったまま、貸してもらった草履を返す。せっかく困っているところを助けてくれて、わざわざ家まで送ってもらったのに、何だか彼女を不快にさせてしまったようで、つかさはひどく後悔した。
「それじゃあ」
それだけを言い残し、女の子は立ち去ろうとした。最後にさようならも言えず、つかさは自分で自分が嫌になる。でも、感謝を表す言葉は喉の奥に貼りついたままだった。
去り際、ふと女の子が振り返った。
「そう言えば、名前言ってなかったね」
思い出したように言った女の子はこれまでになく笑顔だった。見かけは男の子みたいだけど、笑顔は確かに女の子のもの。それを見て、つかさは救われたような気がした。
「私はねえ、“忍足薫”」
「えっ? お、おしたり……?」
まだ小学一年生のつかさには、それがどんな漢字なのか、まったく見当もつかなかった。ただ、“かおる”という名だけは深く胸に刻み込んだ。
「あなたは?」
「ぼ、ボクは武藤つかさ」
「つかさ君かぁ。じゃあね、バイバイ!」
祖父母の家に来てから、初めてこちらの友達ができたような気がして、つかさは面映ゆくも嬉しかった。帰っていく薫に向って、自然と手を振る。
「ありがとう! またね!」
約束こそしなかったが、また会えると、つかさは思った。
それが武藤つかさと忍足薫の初めての出会いだった。
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