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その夜、つかさはまともにご飯も食べられなかった。杏に蹴られたせいだ。祖母はそんなつかさの具合を心配したが、食欲がないだけだから、と誤魔化して、早めに寝た。
翌朝、いつもの習慣で五時半に起きた。昨日、あんなことがあったので、杏と顔を合わせるのが憂鬱だったが、かえってそのことが祖父たちに知られるのもイヤだ。胴着に着替えてから道場へ行くと、すでに祖父の源氏郎と杏がいた。
「おじいさま、お話があります」
「何だ」
ただならぬ雰囲気を感じ、道場に入りかけたつかさは入口の手前で立ち止った。そのまま息を殺し、二人の会話に耳を立てる。
「つかさのことですが、おじいさまはどう思っていらっしゃるのです?」
「どう、とは?」
「私から言わせてもらうなら、つかさは格闘技に向いていません。まだ子供だから、という理由からではなく、もっと根本的なものが不向きだと思うんです。そもそも、つかさが自分から好んで、おじいさまの教えを受けているようには見えません。あの子は争いごとができるタイプではないんです。いくらおじいさまが熱心に指導されても、つかさには無理だと思いますが」
「では、どうしろと?」
源氏郎は静かに尋ねた。
「やめさせるべきです」
杏はきっぱりと言った。つかさは、昨日、蹴られたところが、ズキリとするような感覚を覚えた。
しばしの沈黙。祖父はうなずくだろうか。
「つかさ」
「はいっ!」
とっくに気配など悟られていたのだろう。源氏郎は盗み聞きしていたつかさを呼んだ。反射的に返事をしてしまったつかさは、バツが悪そうに道場へ入る。こちらを振り返った杏の視線が突き刺さるように痛かった。
「つかさに尋ねる。道場を辞めたいか?」
祖父から尋ねられ、つかさは答えに窮した。
本音は、もちろん今すぐにでも辞めたい、だった。自らひ弱だと認める自分が、格闘技などを学んで強くなれるわけがない、と。いや、そもそもつかさには強くなろうとする志さえなかった。しかし――
昔、つかさの父、源堂も祖父の下から逃げ出した。父には、つかさと違って素質があったはずである。そのまま研鑽を積んでいれば、《天智無元流》を継ぐことができただろう。だが、父は何でも祖父に従わねばならないことに反発を抱いた。その結果、ここを飛び出し、まったく別の道を選んだのである。
そのとき、祖父はどう思っただろう。つかさは当時の祖父の心情を思いやる。自らの指導法を悔いたか、あるいは育ててきた父に裏切られたと感じたか。普段から何も言わない偏屈者だが、おそらくは祖父の胸に何かが去来したに違いない。
もしも、ここでつかさが辞めると答えたら、祖父はどう思うだろう。ここまで厳しく指導してきた祖父。孫に格闘技の素質など欠片もないことは、最初から見抜いているはずである。にもかかわらず、祖父はつかさに指導をし続けてきた。これまでとずっと変わることなく。そして、きっとそれはこれからも変わらないであろう。
なかなか返事をしないつかさを、杏は火花が飛び散りそうな鋭い目で見つめていた。その目が告げている。早く、辞めるって言いなさいよ、と。
つかさは祖父に答えた。
「このまま……続けます」
それだけを言うのに、喉がカラカラになった。杏はつかさを睨んだまま、唇を噛みしめる。祖父は小さくうなずいただけだった。
「本人が辞めると言わない以上、ワシは追い出したりせぬ」
「でも、おじいさま――!」
杏はなおも食い下がろうとした。それを祖父の厳然とした眼光が射抜く。勝ち気な杏をも一瞬で黙らせる眼力だ。
「この話はここまで。――さあ、つかさ」
祖父に促され、つかさは杏の隣に正座した。杏がどんな顔をしているか、つかさは怖くて見られない。
師匠への一礼のあと、朝稽古が始まった。
いつも閑散としている神社が、この夏の一夜に限って多くの人たちが集まり、賑やかな様相を呈していた。
夏祭りだ。
昼間、町内を回ってきた神輿は戻され、煌々と電飾が連なった参道には縁日の屋台が軒を並べていた。こういう風景はどこも変わらない。あちこちから美味しそうな香ばしい匂いが漂ってきた。
「お待たせ」
つかさが約束の時間ピッタリに鳥居まで行くと、すでに薫が待っていた。
薫は夏祭りに合わせて、白地に淡いピンクや青の柄が入った浴衣を着ていた。母親に着つけてもらったのだろう。いつも剣道着のイメージしかないため、つかさには一瞬、その女の子が薫だと分からなかったほどだ。今夜は男の子みたいな雰囲気はどこへやら、すっかりとおめかしした艶姿になっていて、つかさは薫が女の子であったことを再認識させられた。
「どう?」
薫は袖をちょんとつまんで腕を広げたポーズを取り、自慢の浴衣姿をひけらかした。ここはつかさも素直に褒めておくことにする。
「うん、『馬子にも衣裳』だね」
「何よぉ、それっ!?」
つかさの感想に、薫は目を吊り上げると、持っていた巾着袋を振り回してぶつけた。やっぱり、おしとやかに見えたのは浴衣のせいで、中身はそう簡単にはいかないらしい。
「『馬子にも衣裳』って、褒め言葉じゃないんだからね!」
「えっ、そうなの?」
「帰ったら、辞書を引きなさい!」
どうやら用法を間違えたらしい。改めて褒めるのも照れ臭いので、つかさは笑って誤魔化すことにした。
「つかさも浴衣を着せてもらったんだね」
「うん。おばあちゃんが着て行けって。昔、お父さんが着た物だよ」
つかさの浴衣は年代のせいか、子供用の割には少し地味だった。ただ、草履だけはこの日のために新調したものである。祖母は孫を着せ替え人形みたいにできて楽しそうだった。
「こっちの方も派手になったようね」
薫が指摘したのは、つかさの顔だった。左の目尻と右の唇に絆創膏が貼られている。夜のせいで見づらいが、少し腫れてもいるようだ。
「ああ、これは杏姉ちゃんにやられて……」
稽古中の組み手において、顔面への攻撃は基本的に寸止めするよう言われている。しかし、つかさは二度も杏に殴られた。
つかさが道場を続けることに対して、当然、面白く思っていない杏は報復に出た。それは言うまでもなく、徹底的につかさを叩き伏せること。打撃が顔面に入ったとき、「ごめん」というおざなりの謝罪は述べているが、わざと殴っているのは分かっていた。
その場には祖父もいたが、加害者の杏に対しても、負傷したつかさに対しても何も言わなかった。ただ、「ばあさんに治療してもらえ」と言っただけ。つかさは、やっぱりあのとき辞めておけばよかった、とつくづく後悔した。
「例の人は?」
薫はキョロキョロと辺りを見回した。それが杏のことを指しているのは、つかさにも察しがつく。女だてらに武道に邁進しているところが、共感を持たせているのだろう。
「さあ、知らない」
つかさは素っ気なく答えた。
夏祭りのため、早々に稽古が切り上げられ、つかさが浴衣に着替えさせられていたとき、杏も一緒に行かないのかと祖母のつばきに尋ねられていた。浴衣は叔母のつばさが小さい頃に着ていたものが用意されていたが、杏は「興味ない」と素っ気なく言うと、どこかへ姿を消してしまった。多分、道場で自主練をしているのだろう。家を出るとき、道場の電気がまだ点いていた。
「それより、早く行こうよ」
このところ、益々、相性の良くない杏のことをあまり考えたくないつかさは、薫を露店へと誘った。
二人は様々な店を覗いていった。お好み焼きやリンゴ飴といった飲食関係が多かったが、子供たちを賑わせているのは金魚すくいやヨーヨー釣りといったものだ。どちらも渡されたお小遣いは少なかったので、そういったもので遊びはしなかったが、見ているだけでも楽しかった。
貴重なお小遣いはラムネと綿菓子に使った。二人は右手と左手にそれぞれを持ち、夏祭りを満喫する。
ところが、そんな楽しいひとときに暗雲が垂れこめた。
「忍足」
不意に声をかけられた。振り返ると、つかさの知らない顔が三つ。歳は自分と同じくらい。当然、薫にとっては見知った顔だった。
「遠藤……」
それは薫と同じ道場に通う、遠藤、三田、市村の三人だった。だが、とても友好的な雰囲気ではない。
「ちょっとツラ貸せよ」
「何よ?」
不穏なものを感じ、薫は訝った。だが、三人組は二人を囲むようにして身体を押してくる。
「すぐ済むからさ」
声をあげて、近くの大人に助けを求むことも出来たが、薫が黙って従っていたので、つかさも不安を抱きつつ、為すがままに任せた。
結局、つかさたちは人通りが途絶えた神社の外れまで連れて行かれた。裏手にある木立の中で、ここまでは電気の明かりも届かない。目が暗がりに慣れるまで、闇の中にさまよい込んだようだった。
「見違えたぞ、忍足。そんな格好をしているからよ」
つかさは怖くて震えていた。実のところ、彼らの気配にはちょっと前から気づいていて、ずっと尾けられていたのである。ただ単に知った顔を見つけて声をかけてきたわけでないのは、こんなところへ誘ったことからも明らかだ。そして、そんなことをする理由は、おそらく――
「剣道じゃ男みたいなのに、そういうのを着ると、やっぱり女だな」
薫は擦り足で下がった。自然とつかさを後ろにかばう。薫も警戒しているのだ。
「何よ、道場での腹いせ? 剣道では私に敵わないものだから、力尽くで仕返ししようっていうの? しかも三人がかりで」
「うるせえ! そもそも女のくせに生意気なんだよ!」
堪りかねたらしく、とうとう三人は本性を顕わした。まるで、あらかじめ打ち合わせてでもいたかのように動き、つかさたちを取り囲む。つかさは思わず、薫の背中に隠れてしまった。
「お前はこっちだ!」
「あっ!」
突然、横合いから手が伸び、つかさは襟元をつかまれた。抗う間もなく、三人組の一人に捕らえられ、後ろから羽交い絞めにされてしまう。つかさは薫から引き離された格好だ。
「つかさ!」
薫はつかさを助けようと動きかけたが、それは残りの二人に阻まれた。
「逃げる気か、忍足?」
同学年だが、力差のある男児と女児。その上、一対一の勝負ではないのだ。せめて薫に竹刀の代わりになるようなものがあったら、この場を切り抜けられたかもしれないが、もちろん、そんなものは都合よくありはしない。
「薫、逃げて!」
つかさは羽交い絞めにされたまま言った。途端に、捕まえているヤツは「うるさい!」と怒鳴り、つかさを持ち上げるように力を込める。小柄で軽いつかさの爪先は地面から浮き上がった。
「つかさは関係ないでしょ!」
薫はつかさを捕まえたヤツに突っかかって行こうとしたが、慣れない下駄を履いていたせいで、剣道のときに見せる動きには程遠かった。連中の一人に奥襟をつかまれると、力任せに引き倒される。
「キャッ!」
薫は尻餅をついた。そのザマを見て、三人の男児はせせら笑う。
「何だよ、竹刀がなければ、オレたちに敵わねえのか!」
「これで少しは女らしくなれよ! それっ!」
つかさを捕まえた以外のヤツらは、地面の土や泥を蹴って、倒れている薫に浴びせかけた。せっかくの浴衣が汚れてしまう。いつもは勝ち気な薫も、このときばかりは顔を歪ませた。
「おっ、泣くか!? 泣くか!?」
「泣けよ、忍足! 泣いちまえっ!」
卑劣な三人組は、薫に屈辱を与えて有頂天になった。つかさは何もできない自分に歯ぎしりする。何が古武道だ。何が《天智無元流》だ。大切な友達である薫の窮地を救うことも出来ないなんて――
そのとき、誰もいないはずの神社の外れにもかかわらず、こちらへ近づいてくる一人の気配があった。
「情けないね、アンタたち。女の子をいじめて、そんなに楽しいわけ?」
暗がりの中から現れた人物を見て、つかさは驚いた。杏だ。浴衣姿ではなく、私服のTシャツに半ズボンというラフな格好だった。夏祭りに来たのだろうか。
第三者の登場に、一瞬、ビビった三人組であったが、それが自分たちよりも年上とはいえ、まだ小学校中学年くらいの女の子一人だと分かり、緊張を解いた。
「何だよ、正義の味方ぶって!」
「引っ込んでろよ! じゃないと、痛い目に遭わせるぞ!」
そんな恫喝にも、杏はひるまなかった。むしろ、思い通りの状況になり、楽しんでいる素振りさえ窺える。つかさはゴクリと唾を飲んだ。
「どっちが痛い目に遭うって?」
それからおよそ一分の間、杏は三人組を相手に暴れた。手加減なし。拳と蹴りの乱打。三人組は気の毒になるくらい徹底的に叩きのめされた。
泣きながら逃げ帰って行く三人組に唾を吐きながら、杏はぞっとするような笑みを浮かべた。満たされた破壊衝動。つかさ相手に組み手をするよりも、いくらか歯応えがあった、という感じか。
しかし、今のケンカは、いささか杏の肉体に負荷をかけ過ぎたようだった。
「ゴホッ、ゴホッ!」
杏は激しく咳き込んだ。息が苦しそうに、喉が喘鳴する。発作だ。つかさは杏を気遣って近づいた。
「大丈夫!?」
「触るな!」
伸ばされたつかさの手を杏は跳ね除けた。そして、ズボンのポケットを探る。中から吸引器を取り出すと、それを咥えた。
程なくして、杏の呼吸は落ち着いた。つかさはまだ杏のことが心配だったが、どうせ拒絶されてしまうだろうと諦める。ただ黙って見守ることしかできなかった。
「立てる?」
杏はひどい目に遭わされた薫に手を貸した。薫は消沈した様子で、コクンとうなずく。杏は薫の浴衣についた泥を払ってやった。
「あーあ、汚れちゃったねえ。――まったく、あいつら、男のクセに卑怯なマネをしやがって! ――さあ、アンタはもう帰った方がいい。一人で帰れそう?」
薫はもう一度うなずいた。そして、小さく「ありがとう」と礼を言って帰る。それを見送ってから、杏も立ち去ろうとした。
「あ、杏姉ちゃん……」
つかさも助けてもらった礼を言おうと思った。自分のことよりも、薫を救ってくれたことに対して。
ところが杏はつかさと目を合わそうともしなかった。
「女の子も守れないなんて、男として最低だね。やっぱり、アンタにはおじいさまの《天智無元流》は無理なのよ。そのことをよく覚えておきな」
つかさを沈黙させた杏は木立の暗がりの中へ消えてしまった。
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