[←前頁] [RED文庫] [「WILD BLOOD」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]
夏休みの間、つかさと杏は同じ祖父母の家で寝食を共にしていたのに、一言も口を利かなかった。杏は徹底的につかさを無視。つかさもトゲトゲしい態度の杏に話しかけることはできなかった。
両親の死後、転校を余儀なくされたつかさにとって、親しい友人といえば、以前から知っている薫しかいない。新しい中学では、決して積極的ではない性格と長らく尾を引く喪失感から、まだそれらしい人間関係を築けていなかった。
しかし、薫は剣道の大会に向けた夏合宿に行ってしまい、夏休みに入ってからは一度も顔を見ていない。薫はまだ一年生ながら、その実力が早くも認められ、団体戦のメンバーに選ばれたのだというから大したものだ。同じ中学に通うようになって、薫の剣道の腕前がかなりのものであることが分かったし、それにもまして、誰からも好かれている人気の高さを今さらながら思い知らされた気がした。
そうなるとなおさら、つかさは独りでいる時間が多くなった。鬱屈した感情の捌け口もなく、ただひたすら自分一人だけで溜め込んでいくことが辛くてしょうがない。それこそ現実からの逃避を考えるあまり、自殺という言葉がよぎったことも一度や二度ではなかった。
「つかさ」
夏休みも半分が過ぎたある日、つかさは祖母のつばきに声をかけられた。新しく自分のものになった二階の部屋で、相変わらず眠りたいわけでもないのに、ただベッドに突っ伏していたつかさは、買い物でも頼みに来たのかと身を起こす。しかし、つばきの用事はそうではなかった。
「ちょっと和室へおいで」
言われたとおり、つかさは一階の和室に降りた。襖を開けると、正座をしたつばきが待ち構えている。その前には立花や水盤といった花器と花が用意されていた。
「久しぶりにどうだい?」
つばきはつかさを誘った。
祖父が古武道の道場を開いているかたわら、祖母のつばきは華道教室を開いていた。流派は自己流の『武藤無心流』。祖父の古武道に比べれば、まだ通ってくる生徒がいるだけいい。
つかさもまったく経験がないわけではなく、小さい頃から祖母の見様見真似でやっていた。遊び半分の代物だったが、こちらは古武道よりもセンスがあるようで、何度か作品をつばきに褒められたことがある。このところはご無沙汰だが、この家に泊まりがけで来ていた頃は毎週日曜日の教室に参加したこともあった。
ちなみにつばきの華道には、薫も最年少の生徒として参加していた。剣道ばかりではなく、少しは女性らしいたしなみも身につけさせたい、と薫の母親が半強制的に入れたのだが、生来の不器用さが災いしてか、かれこれ三年になろうかというにもかかわらず、まったく上達の程は見られず、致命的ともいえるくらいに不得手としている。最近の薫は、すっかりと華道に見切りをつけ、サボっているような状態だった。
つばきに促されるまま、つかさは正座した。少しは気晴らしの役に立つだろうか。深呼吸をし、生け花の完成形をイメージする。
ところがイメージはなかなかうまくいかなかった。というより、完成形そのもののインスピレーションが湧かない。これまでにはなかったことだ。今までは使う花と生ける空間を意識しただけで勝手にイメージが浮かび、それに従って手を動かせばよかったはずなのに。
「まだ迷っているようだね」
一向に手の動かない孫を見て、つばきが指摘した。つかさは何も言えずに押し黙る。
「今まで、お前は自由に生けていた。何の迷いもなく、ただ純粋に。それは素晴らしいと私は思うよ。お前のいいところだ。でも、今のお前にはそれがない。ずっと他のことに気を取られてしまっている」
そんなことは言われるまでもなかった。すべては両親を失ったせいだ。その喪失を悲しまずにいられない。
「迷いのない人間なんていやしないよ。迷ったまま生きている人間の方が多いはずさ。それでも歩みを止めるわけにはいかないのが人間というものなんだよ。今、進んでいる道が正しいのか、それとも間違っているのか。そんなことは誰にも分かりやしない。それでも歩き続けるのさ。どうしてって、それが生きるということだから」
「………」
「だけど、今のお前は立ち止ったままだ。いつまでも過ぎたことを気にして、前に進めない。それでは生きているとは言えないね。死んでいるも同然さ」
「………」
「つかさ。お前の父さんと母さんを忘れろとは言わない。でも、生きている以上、その悲しみにばかり捉われてはいけないよ」
「けど……」
「お前の前には、今、何があるんだい?」
祖母の真っ直ぐな目がつかさを射た。祖父にも負けない眼光の鋭さ。だが、怖い、という感情はない。不思議と目を逸らすことのできない力がそこにはあった。
「ありのままを見なさい。目の前の花を。その向こうにいる私を。おじいさんもいる。杏もいる。お前の周りにはたくさんの人がいる」
「………」
「お前の父さんと母さんはいなくなってしまったけれど、それでお前が一人になってしまったわけじゃない。お前の人生はこれからさ。前を見つめなさい。そして、道を定めなさい」
突然、つかさは目の前にかかっていた靄が晴れたような錯覚に陥った。今頃になって、ようやく目の前に座っているのが、祖母のつばきだと認識する。ここは華道教室でよく使う和室の中で、外では蝉が夏を盛りに鳴いていること。自分の肌の上を伝う汗。切り花から微かに香る匂い。まるで停まっていた時間が急に動き出したかのような不思議な感覚だった。
呼吸をする。単なる呼吸ではない。古武道で習った呼吸法だ。体内に《氣》を溜める。すると気力が充実していくのを感じた。それにともない、肉体の中で淀んでいた陰の気が振り払われる。《氣》が体内を巡っていく。徐々に速く。全身が活性化していく。チャクラが開いた。
そんなつかさの様子は、つばきにも分かったのだろう。口許に微笑を浮かべ、小さくうなずいた。
つかさは改めて感動した。祖父から学んでいた古武道《天智無元流》に。ただ、他人を傷つけるだけの格闘技でしかないと思い込んでいた祖父の古武道がこんなにも自分を救ってくれることに。そして、今までそれを忌避してきたことを恥じた。
もう、つかさの目には生きた輝きが戻っていた。今なら、生け花のイメージが明瞭に浮かぶ。
つかさはおもむろに花へ手を伸ばすと、迷うことなくハサミを入れた。
胴着に着替えたつかさは道場へ赴いた。
道場では祖父の源氏郎に見守られながら、杏が型の練習をしているところだった。ひとつひとつを決める度に、気合のこもった声が道場に響く。つかさはそれに負けまいと、一回、胴着の帯を締め直してから中へ入った。
「長らく休みまして申し訳ございません。また、稽古をつけていただきたく、お願い申しあげます」
祖父の前に正座したつかさは、深々と頭を下げた。
一瞬、祖父は沈黙した。つかさが戻ってきたことに異を唱えようとしたからではない。それはつかさが着ていた胴着のせいだった。
今、つかさが身にまとっている胴着は、従来のものではなかった。いささか時代を経てきたような感じで古く、所々に擦り切れた痕やほつれなどの粗が目立つ。あまり見栄えがいいものではない。だが、源氏郎にはその胴着に見覚えがあった。
「うむ。修行に励めよ」
源氏郎の許しを得て、つかさは身を起こした。左胸には『武藤』と無骨な字が大きく書かれている。この胴着は死んだ父、源堂が使っていたものだ。つかさが祖母に頼んで、大切にしまわれていたものを譲り受けたのだった。
つばきによれば、その胴着は父が小学生の頃に着ていたものだそうだが、中学生になったというのに、平均身長よりも背の低いつかさには、若干、大きかった。袖は拳にまで達し、裾は引きずってしまいそうである。とりあえず裾は折り返しているが、あとでつばきにサイズを詰めてもらう必要があるだろう。
その横では杏が、突然、変心して戻ってきたつかさを凄い形相で睨んでいた。辞めると言ったり、やると言い出したり、その気まぐれさに腹が立つ。祖父も祖父だ。やはり、つかさには甘い。説教のひとつもなく、再修行を簡単に許してしまうとは、どういうつもりなのか。
入門以来、真剣に取り組んできた杏としては、一度は辞めたはずのつかさが戻ってきたことに承服など出来るはずがなかった。祖父の古武道を何だと思っているのか。覚悟も持たない、チャランポランな気持ちで始めようというのなら、それが間違いであることを思い知らせてやる、と杏は剥き出しの敵愾心を燃やしていた。
「つかさはまずランニングだ。町内を一周して来い」
「はいっ!」
源氏郎から指示され、つかさは立ちあがった。ウォーミング・アップの町内ランニングだ。普段は早朝に行われるが、すでに日は高くなっている。外へ出たつかさは、熱くなったアスファルトを裸足で踏んで、「あぢぃ!」と悲鳴をあげた。
しかし、ひるんだのも最初の一歩だけ。つかさは足の裏の火傷を我慢しながらランニングに出た。今まで怠けていた分、再スタートも楽ではない、と肝に銘じながら。
この胴着を着ていた父も高校生になるまで、毎日、このランニングを欠かさなかったのだと思うと、つかさは気力を振り絞ることができた。祖母にこの胴着を出してもらったのも、少しは父の力を借りたかったからである。
振り返ってみると、父との思い出はあまりない。専業主婦だった母に比べ、普段から仕事の忙しい人で、日曜日に家にいなかったこともざらだったし、反対に、つかさが夏休みや冬休みで学校が休みになっても、今度は祖父母の家で過ごす羽目になっていたので、すれ違いが多かった。だから、本当のところ、父がどういう人なのか、つかさはよく知らないのである。
その父を知る機会は永久に失われた。しかし、こうして父の胴着を着ることによって、近づけるような気がする。何を思いながら父は古武道の修行に明け暮れたのか。これからは父と一緒に稽古するのだ、とつかさは心の中で決意し、炎天下の中を駆けた。
[←前頁] [RED文庫] [「WILD BLOOD」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]