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WILD BLOOD

第17話 拳も恋も一日にしてならず

−10−

 その翌日になっても、杏の体調はすぐれなかった。朝から咳が止まらない。しかし、つかさが気にかけようとすればするほど、杏は反発したくなるのか、まったく言葉を聞こうとしなかった。
 早朝のランニングに出かけると、昨夜のうちに少し雪が降ったらしく、薄らと白いものが積もっていた。この中を裸足で駆け回るなど、昔のつかさだったら考えられなかったことだが、今はそうでもない。「心頭を滅却すれば、火もまた涼し」ではないが、要は《氣》のコントロールである。
 そもそも、それを肝要とする《天智無元流》では、そういったことがまず教えられた。そこが普通の武道と一線を画す部分だろう。ゆえに、まずは体内の《氣》の巡りについてや、大地や大気からの《氣》の取り込み方などが伝授される。格闘技としての型や技は、どちらかというと二の次だ。祖父が裸足で町内を走らせたのも、そういう《氣》の感じ取り方に比重を置いたための修行だった。
 今では、杏にはまったく認められていないが、つかさも《氣》を操れるようになっていた。だから雪の上を踏んでも、霜やけができそうな冷たさは感じない。ただ、雪のサクッとした感触や、結晶のひとつひとつが分かるだけだ。
 この山へ来てから、より大地が持つ《気》のパワーを感じることができた。やはり人工的なものに囲まれた街では、巡っている《氣》も遮られてしまうのだろう。祖父がこの山に冬合宿をしようと思い立ったのも、つかさたちにこのことを体感させようという配慮からだったのかもしれない。つかさは、そういう意味では来てよかったと思っている。だからといって、ずっといたいとは思わないが……。
 一方、前を行く杏の動きは重そうだった。元気なときなら、あっという間につかさを置き去りにしてもおかしくないのに、今日は楽々とついて行けているのがその証拠である。これを祖父が見ていれば、きっと杏の体調を考慮して、即刻、ランニングをやめさせたであろう。
 それでもつかさは何も言えないまま、杏の背中を見ながら、山を駆けた。
 ランニング・コースも半分くらいに差し掛かった頃、杏のペースがさらに落ちた。小さな咳が次第に大きくなる。発作だ。
「あ、杏姉ちゃん!」
「来るな!」
 心配したつかさを杏は制した。仕方なく、つかさはその場に止まる。杏はしゃがみこみながら、胴着の懐から吸引器を取り出した。
 パチン、と小枝が折れるような音がしたのは、そのときだった。
 突然、木立の中から黒い塊のようなものが現れた。杏の目の前。しかも、その身長を遥かに凌駕する大きさ。
 一瞬、つかさは頭の中が真っ白になった。まさかの遭遇。クマだ。よく見ると、胸にVの字のような白い模様が確認できる。いわゆるツキノワグマだった。
 つかさより間近にツキノワグマと出くわした杏も、さすがに動けない様子だった。距離にして三メートルくらいだろうか。しゃがんだ杏と四つん這いになったツキノワグマ。両者とも、互いに見つめあったまま微動だにしない。
 クマに出くわしたときは、ジッと目を見据えたまま、ゆっくりと後ろに下がるといいらしい。いつだったか、専門家がテレビでそう言っていたのをつかさは聞いたことがある。昔からよく言われている死んだふりはダメだ。かと言って、一番マズいのはいきなり逃げ出すことで、そんなことをすればクマに後ろから襲われて一巻の終わりである。大声を出して威嚇するのもご法度だ。
 そういうことでは、杏の対処は冷静だったと言えるだろう。このまま何もせずにクマが去ってくれればいいと、つかさは祈る。しかし、ツキノワグマはなかなか動こうとしなかった。ずっと杏を睨み据えたまま。こんなときに、なぜかつかさは木彫りのクマを連想してしまった。
 だが、緊迫の均衡状況は長く続かなかった。杏がとうとう発作を堪えかねて咳をしたせいだ。
 一度出てしまうと、咳は止められなかった。杏は苦しそうに身体を折る。視線が外れた瞬間、ツキノワグマは唸り声を発しながら、後肢で立ちあがった。
 でかい――思わず、つかさが息を呑むくらい、立ちあがったツキノワグマには百獣の王ライオンさえひるみそうな迫力があった。二メートルは優に超えるだろう。ツキノワグマは、そのまま杏に覆いかぶさる形で襲いかかった。
「危ない!」
 そのつかさの叫びを聞いてか。杏は背中からひっくり返るように、後転でツキノワグマの襲撃から逃れた。発作で思うように身体の動かない杏にとっては、精一杯の回避であったに違いない。それが功を奏して、一瞬早く、杏は避けることができた。
 ところが、その拍子に、杏は手に持っていた吸引器を落としてしまった。それをツキノワグマが踏み潰してしまう。痛恨のミス。これでは発作を抑えられない。
 杏はひどい咳をしながらも、打開策を見出そうと必死の様子だった。イチかバチかで走って逃げるような体力はない。それに、普段の体調のときならばともかく、今の状態では戦って撃退することも困難に思えた。
 ツキノワグマは再び立ちあがった。威嚇の唸り声が山を震わす。万事休すか。
 鋭い爪が杏に振り下ろされた。動けない杏は目をつむる。次の刹那、自分の身体が後ろに引っ張られるのを感じた。
 確かめるまでもなく、杏を引っ張ったのはつかさだった。ツキノワグマの爪が空振りする。しかし、それにひるむことなく、ツキノワグマは追いすがってきた。杏はつかさに引っ張られながら蹴りを見せる。それはツキノワグマの鼻面に当たらなかったが、多少の牽制には役立った。
 わずかにできた空隙を突き、つかさは杏よりも前に出た。その勢いに気圧されたかのように、さしものツキノワグマも一旦、後ろに下がりかける。杏の後ろから出てきたつかさを警戒しているようだった。
 そのつかさの足は震えていた。無理もない。自分よりも大きなツキノワグマに相対しているのだ。しかし、このまま怯えているわけにもいかず、なんとしてでも杏を守らねばならなかった。
「つ、つかさ、下がりなさい!」
 声が出しづらそうだったが、杏は自分の盾となっている頼りない従弟に命じた。だが、つかさはかぶりを振る。
「で、できないよ……それじゃ、杏姉ちゃんを見殺しにすることになる……」
「だからって、アンタじゃ――ゲホッ、ゲホッ!」
 それ以上、杏は言葉を続けられなかった。発作は著しく体力を消耗させる。しかも冬山の中。寒さも厳しい。
 つかさはツキノワグマに臆しながらも、自然と手足は動き、構えを取っていた。
「ボクは誰かが傷つくのを見たくない……だから……だから……」
 ツキノワグマはつかさを敵と認識したらしい。獰猛な唸り声を発しつつ、隙を窺うかのように、右へ左へと動き回る。
 つかさは懸命に呼吸を整えようとした。《天智無元流》の極意は呼吸にある。静かに吸い、静かに吐く。そうしているうちに、巨大なツキノワグマと対しているにもかかわらず、段々と恐怖心が薄れていった。
(不思議だ……あれだけ足が震えていたのに、それが止まっている……)
 それはこれまでつかさが感じたことのない感覚だった。いつもなら、杏と稽古をするときでさえ緊張するのに、今はどういうわけか心が穏やかになっている。下手をすれば、殺されるかもしれないというのに。それとも、敵うはずがないと、最初から諦めているせいなのか。
 いや――
 つかさは諦めてなどいなかった。第一、自分が斃れれば、次にやられるのは杏だ。そんなことをさせるわけにはいかない。そんなのは絶対にイヤだった。
 ツキノワグマは構えたまま攻撃してこないつかさに、どうしていいか迷っているようだった。今度こそ立ち去ってくれないだろうかと、つかさは願う。相手は人間ではないが、ツキノワグマだって生命あるものなのは変わりなく、できることならば傷つけたくはない。
 きっと、このクマもまだ冬眠せずにいるということは、それに必要なだけのエサが不足しているということだろう。最近はよく、エサを求めて人里まで降りてくるクマの話を聞くようになった。その原因は異常気象や森林の伐採などのせいだという。決して、クマそのものが悪さを覚えたのではない。だから、つかさはこのツキノワグマを完全に敵視することは出来なかった。
(山へ帰って……お願い……)
 つかさの想いはツキノワグマに届くかに見えた。だが、急にツキノワグマは何かに驚いた様子になり、また後肢で立ちあがった戦闘モードになってしまう。このままではやられる。
「くっ!」
 仕方なく、つかさは《氣》を集中させた。頭上から襲いかかるツキノワグマ。つかさはその懐に潜り込むようにした。
「はあっ!」
 ツキノワグマの腹めがけ、つかさは両手で発勁を繰り出した。実戦では初めて試す。体内に充填させていた《氣》のすべてをツキノワグマに叩きつけた。
 つかさの手が触れるか触れないかのところで、ツキノワグマは大きく吹き飛ばされた。小さな体の持ち主では、決して有り得ない爆発力。つかさの発勁が成功したのだ。ツキノワグマの巨体は十メートルも弾き飛ばされ、そのまま背中から地面に落ちた。
 その瞬間を目撃した杏は、自分の見たものが信じられなかった。つかさが繰り出した発勁。まさか、それほどまでにつかさが《氣》を扱えるとは思いもしなかった。そして、その威力。杏も祖父から教えられ、発勁を会得してはいるが、あれほどまでにツキノワグマを吹き飛ばすことができるかは疑問だった。
 そのとき、杏には腑に落ちるものがあった。祖父が後継者につかさを選ぼうとしていた理由である。祖父は見抜いていたのだ。男の子だからという贔屓目などではなく、純粋につかさの中に眠る素質を。
 そして、同時に思い知らされた。杏にはそれを見抜くことができなかったことを。嫉妬と先入観に満ちた目でしか、つかさを見ていなかったことを。
 それもまた、祖父にはお見通しだったのだろう。ならば当り前だ。杏が《天智無元流》の後継者に選ばれなかったのは。杏は己の未熟さを痛感した。
 片や、見事にツキノワグマを撃退したつかさは、精根尽き果てたかのように、その場に座り込んでいた。杏から見えるその背中は小さく震えている。泣いているのか、と思った。せっかく、自分を守ってくれたヒーローだというのに。
 そこへ、どこにいたのか、突然、一頭の仔グマが現れ、倒れているツキノワグマのところへ一目散に駆け寄った。多分、杏たちを襲ったのが母グマなのだろう。冬眠もままならず、子連れで山の中をさまよっていたに違いない。
 つかさたちは、その途中で遭遇した人間だったのだ。それは双方にとって、不運な邂逅と言えた。どちらも出会わなければ、無事でいられたのに。母グマは仔グマを守ろうと必死になり、そのせいで襲いかかって来たのだ。
 仔グマが摺り寄ると、母グマは意識を取り戻したようだった。母仔の触れ合いに、危なく命を落とすところだったことも忘れそうになる。そんな心和む光景だった。
「よかった……」
 つかさの呟きは、安堵から漏れたものだった。初めて本気を出した己の力に、戸惑い、恐怖を覚えたのだろう。例え相手が人間ではなく、狂暴なツキノワグマであろうとも、つかさには傷つける意思などありはしなかった。だが、つかさが身につけた発勁は、本人すら想像もしなかった力を秘めていたのである。
 ツキノワグマの母仔は、まるで憑き物でも落ちたかのように、つかさたちに再び敵意を向けることなく、山の中へと帰って行った。もう二度と人間を襲うようなことにならなければいいと、つかさは願わずにいられない。
 ツキノワグマを見送ったつかさは立ちあがると、杏に手を差し伸べた。杏はその手を見つめる。だた、今回はそれを跳ね除けようとはしなかった。おずおずと握り返す。
「帰ろう」
 つかさの言葉に、杏はしおらしくうなずいた。

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