[←前頁] [RED文庫] [「WILD BLOOD」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]
「おはよう、つかさ」
不意に聞こえた朝の挨拶に、何処からだろうとつかさは首を巡らせた。すると、一年A組の教室に入ろうとしていた薫が上半身だけひょっこり覗かせ、こっちよ、と合図でもするかのように手を振っている。
発せられた声のトーンから、どうやら今日の薫は機嫌が良さそうだ、という印象をつかさは受けた。一昨日の土曜日は、何となく思い詰めたようなところがあり、部活を休んでまで帰ったので少し心配したのだが、それも不要のようだ。
「おはよう、薫」
「どうしたのよ、そんな所にいて。B組に何か用なの?」
薫が言うように、つかさが立っていたのは、自身のクラスであるA組の教室の前ではなく、隣のB組の前だった。何かあるのかと訝るのも当然だろう。
「いや、大神くんが来てないかと思って」
「大神くん?」
どれどれ、とつかさの所までやって来た薫は、B組の教室を覗いてみた。ざっと見渡して見た感じ、アキトの舎弟である大神憲の姿は見当たらない。
「まだ来てないようだけど」
「どうしちゃったのかなぁ。もうすぐHRが始まっちゃうし」
「そのうち来るでしょ。それとも何か急ぎの用事?」
「うーん……まあ、急用ってワケでもないけど」
ハッキリしないつかさの態度に、スパッと竹を割ったような性格の薫はモヤモヤしてしまう。
「じゃあ、あとにすればいいじゃない。ほら、行くわよ」
「あ、ああーっ……」
薫に腕をつかまれ、つかさは半強制的に自分の教室へ連行された。仕方がないと諦め、またHRが終わってからでもB組を訪ねてみることにする。
「大神くんに用事ってことは、土曜日のときに彼が言っていた『手伝って欲しいこと』に関係あるわけ?」
教室でのつかさと薫の席は、まるで誰かが配慮したみたいに、前と後ろという、とても近しい位置関係にあるため、HRが始まるまでは、まだ会話を続けることが出来た。鞄から机の中にノートや教科書を移しながら、つかさはうなずく。
「ご明察。薫はうまく逃れて、ラッキーだったね」
「で、どんな頼み事だったのよ?」
皮肉っぽい物言いを無視して、薫は促す。
「人捜しだよ」
「人捜し?」
「うん。日本に来たばかりの子なんだけど、大神くんの知り合いとはぐれてしまったらしいんだ。都内にいるのは確実だと思うから、放課後や休みの日に捜すのを手伝ってくれないかって」
「何なの、それ? そういうのは警察の仕事でしょ?」
薫は聞きながら呆れてしまった。
「ボクもそう思ったし、大神くんにも言ったよ。でも、相手は日本語も分からなければ土地勘もなく、警察に保護されていればいいけど、そうでなければとても心細い思いをしているだろうからって言われてさ」
「それで引き受けたわけ?」
「うん。昨日、一昨日と繁華街をあちこち」
「まったく、お人好しなんだから」
力が抜けそうになるくらい、薫は嘆息した。つかさは反論があるのか、やや口を尖らせ気味にして後ろを振り返る。
「そうは言うけどさ、相手はまだ小さい男の子なんだよ。薫だって、あのとき最後まで大神くんの話を聞いていたら、手を貸さずにはいられなかったと思うけど」
「男の子?」
つかさの話の中に引っかかるものを覚え、薫は尋ね返した。何かに思い当たったような薫の表情に、つかさは眉をひそめる。
「そう、捜しているのは香港(ホンコン)から来た男の子。まだ十歳くらいかな? 多分、弟の元気くんと同じくらいの子だよ」
薫の脳裏に、とある一人の少年の顔がフッと浮かんだ。香港、それに十歳くらい――いろいろなものが符合する。
「ねえ、その子、どんな子!? 写真とかないの!?」
先程までとは打って変わって、身を乗り出しかねない薫の勢いに押され、つかさはタジタジとなった。つかまれた腕が痛くなるくらい力が込められている。
「あ、あるよ。大神くんに転送してもらったヤツが」
つかさは携帯電話を取り出し、写真を呼び出した。それを薫に見せる。
「――っ!?」
薫はつかさの携帯電話を引ったくるようにして画面を凝視した。固く結んだ唇が震え出す。
「ちょっと……薫……?」
「こ、これは……」
「えっ、知ってるの?」
「ゆ、ユウくんだ……」
「ユウ、くん?」
つかさには聞き覚えのない名前だった。
「ええ、間違いなくっ!」
「それで……そのユウくんって、誰?」
その問いには答えず、薫は自分のスマホをつかむと、席から立ち上がった。血相を変えた薫の様子に、つかさは何らかの重大な手がかりについて知っているらしいと睨む。
そこへ運悪くチャイムが鳴り、と同時にクラス担任の竹田が教室に現れた。このベテラン教師は長年の経験からチャイムと入室のタイミングが同時になるよう計っており、ほとんどの場合、大きな誤差がない。
朝のHRが始まるということで、今まで教室内で騒いでいた生徒たちは自分の席へと慌てて戻った。お蔭で、電話をしようとしていた薫も着席せざるを得なくなる。
「起立! ……礼!」
今日の日直が号令をかけた。HRが始まる。週始めの月曜日ということもあり、いつもより連絡事項が多いような気がして、薫は「早く終われ」とひたすら念じた。
ようやくHRが終わり、担任の竹田が退室すると、一時限目の授業が始まるわずかな時間を利用して、薫は自宅に電話しようと教室の外にあるバルコニーへ出た。つかさも追いかけて行き、電話の会話に聞き耳を立てようとする。
ところが電話は、呼び出し音が鳴れども応答なし。母の舞衣は朝一番に警察に連絡し、すっかり全快したユウ少年を然るべき施設で保護してもらうと言っていた。だから、むやみに外出しているはずはないのだが。
嫌な胸騒ぎを覚えた薫は自宅への電話を諦め、今度は直接、母のスマホにかけてみた。こちらには「電源が入っていないか、電波が届かない場所にいる」という旨のメッセージが流れる。
「ああーっ、もおっ!」
どちらも電話が繋がらず、薫は肝心なときに役立たないスマホを投げ捨ててしまいたくなった。
「さっきから何処へかけてるの?」
つかさがおずおずと尋ねた。電話を諦めた薫は、母宛てにメールを打ちながら、
「家よ。さっきの写真の子、私の家にいるの」
「えっ、何だって?」
思いもよらない展開に、一度聞いただけでは理解できず、つかさは思わず尋ね返した。
「だから、ウチにいるのよ!」
説明するのが面倒で、つい薫の声は大きくなった。しかも焦っているせいでメールも誤字が多くなり、余計に苛々してしまう。
「金曜日にね、近所で倒れていたあの子を見つけたのよ。家まで何とか運んだんだけど、ずっと雨の中にいたせいか、凄い高熱でうなされてて。身元も分からなかったし、とりあえずウチで預かることにしたの。もちろん、警察の了解を得てね」
メールを打ち終わり、薫は送信した。スマホの電源を切っている以上、母がこのメールに気づくのには時間がかかるだろうが。
「その子、土曜日の夕方には無事に意識を取り戻して、今はすっかり元気になったんだけど、どうも中国人みたいで、日本語がさっぱり。家族が何処にいるかとか、まったく訊けなかったの。今日は警察が迎えに来ることになっているんだけど」
今朝、学校へ行く前、別れを惜しみ、玄関でユウ少年とハグして来たことを薫は思い出す。また会おうね、と日本語で一方的に約束して来たが、はにかんだ笑顔を浮かべていた彼には通じたであろうか。
「警察なら通訳を介して、その子から事情を聴けるかも知れないね」
保護されると聞き、これでひと安心だ、とつかさはホッとする。しかし――
「なら、いいんだけど」
薫は浮かない表情をしていた。
「どうして? もう心配いらないんじゃない? その子に話が聞ければ、今日中にでも、はぐれていたご両親と会えるかもよ。――あっ、そうだ。あとで大神くんにも教えておかないと」
すっかり解決したつもりになっているつかさに対し、薫の不安は増してゆく。
「ねえ、あの子と大神くんはどういう関係なのかしら?」
「さあ。知り合いとしか聞いていないけど」
「あんな小さい子とはぐれて行方知れずになったら、普通、警察に捜索願を出すわよね?」
「まあ、そうだろうね」
「でも、ウチで保護していることは警察も知っているはずなのに、どうして一度も問い合わせがなかったのかしら?」
「それは……」
どう説明付けるべきか、つかさは答えられなかった。まさか捜索願を出さない親がいるなどとは考えたくもない。或いは、そう出来ない何らかの事情を抱えているのか。
「――ああっ! お母さん、何してんだろ!?」
返信のないスマホを握りしめながら、薫はやきもきした。
「とにかく、今は何かあったと決まったわけでもないし、ボクらはこれから授業なんだから、どうしようもないよ。大神くんなら、もっと詳しい事情を知っているかもしれないし。次の授業が終わったら、隣の教室を覗いてみようよ」
つかさは薫をなだめ、一緒に教室の中へ戻った。
そのとき、つい忘れていたが、もう一人、馴染みの顔をHRの前から見かけていなかったことに気づく。
「あれ……? そう言えば、アキトはどうしたんだろう……?」
[←前頁] [RED文庫] [「WILD BLOOD」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]