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一時限目の授業が学校で始まった頃、仙月アキトはまだ自宅にいた。制服にすら着替えておらず、自室のベッドの上に寝転んだままで。
ちなみに、今、アキトが寝ているベッドは、昨日、黒井ミサによって一緒に召喚されたものだ。そのまま学校の屋上に放置しておくわけにもいかず、苦労して運び、何とか部屋の中に戻した。いつかミサには仕返ししなければ、と思っている。
朝食も摂らず、ただ横になっていると、思い出したみたいに、ぐーっ、と物欲しそうに腹が鳴った。昨夜から何も食べていないせいだ。それでも起き上がる気になれない。昨日の敗北が、まだアキトの中では長く尾を引いていた。
「兄貴ィ、今日は学校をサボるつもりなの?」
小一時間ほど前、ドアの外から妹の美夜の声がして、登校する意思があるのか、くどいほど確認してきた。昨日、帰宅してから、ずっと自室に引きこもっていたので、さすがに心配したのだろう。しかし、アキトは一切返事をしなかった。
美夜も自分の中学へ行かねばならず、今、自宅にいるのはアキト一人だけだ。ところが、ようやく静かになったというのに、アキトは眠ることすら出来なかった。
目を閉じようとすると、思い出したくもないのに、どうしても昨日の闘いが鮮明な映像となって甦ってしまう。だから目を開けたまま、ひたすら天井を睨みつけるしかすることがない。そうやってアキトは昨日から一睡もしていなかった。
あの広東語を喋っていた少年の《暴れ独楽》という大技――今の学校に転校して以来、様々な相手と闘ってきたアキトだが、気絶にまで追い込まれたのは初めての経験だ。しかも、吸血鬼<ヴァンパイア>より格下だと思っていた人狼少年に。
アキトが最も知る狼男といえば同学年の大神だが、同じ人外の者といえども、その力量の差は火を見るよりも明らかだ。大神となら、何度やっても万にひとつも負けない自信がある。
なのに、なぜ、あの少年はあんなに強かったのか。特殊な鍛え方をしているのだろうが、それにしても完膚なきまでに叩きのめされるとは屈辱的だ。ここまでの敗北感を覚えたことは久しくない。
もちろん再戦を挑み、一刻も早く昨日の雪辱を晴らしたいところだ。けれども、対決の一部始終を観戦していたミサにも昨日言われたことだが、あの《暴れ独楽》をいかにして破るか、具体的なイメージがまったく湧かない。
いくら猪突猛進を絵に描いたようなアキトでも、このままぶつかっていったところで勝機が薄いことくらいは理解している。何しろ、身を以て、あの凄まじい回転撃を喰らったのだ。生半可な手段で防ぐのは難しいと本能が言っている。
とはいえ、どんなに逆転のヒントをつかもうと思っても、元々、頭を使って闘うのが得意でないアキトに、いいアイデアなど閃くわけがない。結局、昨日の負けたときのシーンが無限ループのように再生されるだけで、悶々としてしまう。
「おい、アキト」
急にノックする音と共に声がして、アキトはハッと現実に戻った。兄の影人だ。
このところ、影人の生活リズムは不規則で、何日も連絡なしに帰って来なかったりする。昨日も帰宅していない。ということは、朝の九時を回って、ようやく帰って来たということだ。朝帰りもいいところである。
兄が役所勤めの他に、何やらサイドビジネスをしているのはアキトも承知だ。とはいえ、どんな仕事なのか内容は知らないし、知らされてもいない。その辺は兄弟でもノータッチだ。
それでも、何となくではあるが、公には口に出せない仕事なのだろう、とは察している。でなければ、地下の駐車場にあるエンツォ・フェラーリなんていう日本でもわずか数台しかない高級スポーツカーを乗り回せるわけがない。
「おーい」
返事をためらっていると、再び呼びかけてきた。アキトは面倒臭そうに髪の毛をクシャクシャにする。
「何だよ、兄貴?」
するとドアが開けられ、影人が顔を覗かせた。同居しているはずなのに、こうして顔を合わせるのは久しぶりだ。
「いや、お前が学校をサボるなんて珍しいと思ってな。こっちに来てから、そういうことがなかったもんだから」
確かに、琳昭館高校に転校して以来、アキトは寝坊での遅刻はちょくちょくあっても、理由なしに無断欠席はしていない。たまに居眠りをするため、登校してから授業をパスするくらいのことはあるが。
「オレのことを何でも知っているみたいに言いやがって」
あまり自宅に居もしないクセに、とアキトは兄に煩わしさを覚える。不機嫌な弟に対し、影人はフッと微笑んだ。
「一度、ウチに来たことのある、あの武藤くんというクラスメイトの存在があるからだろ? お前が学校を楽しいと思っているのは」
「だから、うるせえよ」
何もかも見透かしたようなところのある兄がアキトは苦手でしょうがない。
昔からそうだ。アキトが物心ついた頃から影人は大人びていた。妹の美夜とは、よく口喧嘩をするが、兄とはほとんどした記憶がない。大抵の場合、影人は何に対してもアキトに譲ってくれるからだ。まるで先回りするみたいに。
海外在住の両親と別々に暮らす今の生活だって、兄が親代わりみたいなものだ。アキトたちが住むこのタワーマンションも影人が購入したものだし、生活費も兄の財布からすべて出ている。
長命長寿の吸血鬼<ヴァンパイア>である以上、アキトも美夜も様々な人生経験を重ねてきた。ただの高校生や中学生ではない。それこそ普通の人間が費やす一生の三倍や四倍の時間を過ごして来たのだから、精神年齢はとっくに大人だ。
それをまだ子供として扱う兄には、楽をさせてもらっている半面、辟易としてしまう部分も感じていた。家族であるのに、秘密主義なところがあるのも気に食わない。謎のサイドビジネスひとつを取ってもそうだ。
兄はどんな危険に手を出しているのだろうか。吸血鬼<ヴァンパイア>としての高い能力を十二分に発揮し、裏社会で活動しているとは想像するが。
「まったく、こんな時間に朝帰りしてきやがって。そっちこそ役所の仕事をサボるつもりか?」
一方的に不登校を責められたくないと思い、アキトは反撃した。しかし、影人は肩をすくめただけ。
「いや、着替えたら、すぐに行くつもりだ」
「そんな調子で、よくクビにならねえな」
「そこはコネで潜り込んだからな」
「自慢していいトコじゃねえぞ」
「――で、何があった?」
柔和な笑みを崩さず、影人が尋ねた。アキトにとって触れられたくない話題。
「……別に」
「何もないわけないだろ。そうやって“陰”の氣を発しているんだから」
「………」
やはり影人を前にして感情を隠すのは難しい。それでもアキトは断固として言いたくなかった。吸血鬼<ヴァンパイア>である自分が人狼の少年に敗北を喫したことを。
ずっとアキトが黙り込んでいると、影人は諦めたように嘆息した。
「やれやれ。どうしてもオレに言いたくないってことは、よっぽど、お前のプライドを傷つけるようなことがあったんだな」
図星を突かれ、アキトは顔を背けた。その反応こそが影人の推理を肯定したようなものだが。
「そうやって寝転がったって、何の解決にもならないと思うぞ。お前は考えて行動するタイプじゃなく、直感で動くタイプなんだから、うだうだ悩む時間なんて勿体ないだろ? そんな暇があるなら、まず動け」
「チッ! 兄貴ヅラして説教かよ! しかもオレは、泳ぎ続けないと死んでしまう回遊魚のマグロ扱いか!」
「珍しく美夜が心配して、オレに相談してきたからな。たまにはそういうこともしておかないと。最近、オレも忙しくて、お前たちの面倒も見てやれてないから」
「そいつは余計なお世話ってもんだ。オレも美夜も、そこまでガキじゃねえよ。表向きはともかく、普通の高校生や中学生だと勘違いするなよな」
「そうやって反発するところが、オレからすれば、まだまだガキっぽいんだが」
ムッとして、アキトは背けていた顔を戻し、兄を睨んだ。影人は相変わらず微笑を浮かべたまま。
「よしよし。怒りは行動の原動力になり得る。立ち止まるな。もがき苦しんででも前へ進め」
影人はそう言い残し、自分の部屋へ着替えに戻った。しばらくしてから、玄関を出て行く音がする。すでに遅刻は確定だが、勤務先の区役所へ向かったのだろう。
鍵のかかる音がするまで、アキトは動かなかった。兄に言われて動き出したのでは、言葉を聞き入れたと思われ、あまりにも癪だからだ。
「チクショウ! もっともらしいことを言いやがって! けど……確かに、こうしているのはオレらしくねえな」
アキトはベッドから起き上がった。部屋着から、手早く制服に着替える。
「もう一度、あいつと闘って、勝てるかどうかは分からねえが……それもやってみなけりゃ、分からねえってことだな」
あれこれ考えるのは、もうやめることにした。あの《暴れ独楽》を持つ人狼少年に再戦を挑む。今、勝てる要素はほとんどないに等しいが、ぶつかることで新たな何かをつかむこともあるだろう。何しろ、アキトは直感型なのだから。
ダイニングキッチンへ行き、冷蔵庫から紙パックの牛乳とハム、それとマスタードを出した。
牛乳はコップへ注がず、そのまま口をつけずに飲む。美夜にバレるとうるさく言われるのだが、時間が惜しい。ハムは食パンに乗せ、マスタードをたっぷり塗ってから、もう一枚のパンで挟んで、かぶりつく。とにかく腹ごしらえだ。
その間、アキトはどうすれば、あの人狼少年に再会できるかを考えた。ヤツの居場所は分からないが、心当たりはひとつだけある。あのとき一緒にいた大神だ。
口の中のものを牛乳で流し込むと、アキトは大神を問い詰めるため、遅まきながら学校へ向かった。
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