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WILD BLOOD

第20話 香港人狼少年団

−17−

「まったく! 何度、同じことを言わせるんですかぁ!?」
 ドン、と机を叩くように手の平を衝き、反対の手は腰に当てながら、早乙女詩織は「今日こそは許しません!」とばかりに凄んだ。本人としては精一杯のドスを利かせたつもりなのだろう。それにどれほどの効果があるかどうかは別として。
「……すみません」
 ちっとも反省の気持ちがこもっていない謝罪を仙月影人は口にした。
 影人の勤め先であるS区役所福祉保健部地域福祉課では、これまでにも何度となく繰り返されてきた光景である。そのため、他の職員はもう慣れっこだった。やれやれ、また今日も始まったか、くらいの感じで自分の仕事に取り組む。
 遅刻の常習犯である影人には困りものだった。一年先輩である詩織がいくら注意しても、怠惰な勤務態度は一向に変わらない。暖簾(のれん)に腕押しのようなものだ。
 ――いや、今日はまだ十時を少し回ったところなので、いつもよりはマシだと言えるかもしれない。ひどいときだと、昼頃にようやく現れることも多々ある。
「――で、今日の遅刻の理由は何ですか?」
 一応、正当な理由があるのなら聞いてあげましょう、と詩織は影人の目をジッと見ながら詰め寄る。ただ、身長が一五七センチしかないので、一八〇センチ以上ある長身の影人を見上げる格好だ。ちっとも怖くない。
「えーと……」
 影人は目を逸らし、右上の辺りを見る。言い訳を探しているらしい。
「――あっ、そうそう。不登校の弟を説得していましてね」
「弟さんを?」
 不登校というキーワードを聞いた途端、詩織の顔は急に曇り、影人との距離を無意識に縮めた。小柄な割には他人の目――多くの場合、男たちのスケベな目――を惹かずにはいられないボリュームたっぷりの胸が今にも影人にくっつきそうだ。
「えっ、ええ……」
 まさか、その話題に詩織が食いつくとは思ってもいなかったので、影人は戸惑った。
「確か、弟さんって高校生でしたよね?」
「そ、そうです」
「やはり高校生って、色々と多感な時期なんですよねえ。私にも高校生になる妹がいるんですが、同じ屋根の下で暮らしているというのに、最近、まったく会話がないんですよ。本当に、今の高校生って何を考えているんだか……」
 詩織はコミュニケーション不足になっている妹の顔を思い浮かべながら嘆いた。
 このとき、詩織の妹である蜂子(ほうこ)と影人の弟であるアキトが、同じ高校に通っているとは露ほども知らぬ二人であった。
「――で、弟さんは、なぜ不登校なんかに?」
 なおも詩織は仙月家の家庭の事情に踏み込んで来た。ただ、詩織の場合、単なる興味本位ではなく、同じ高校生の弟妹を持つ身として、真摯に相談に乗るつもりでいるのだろう。
 さて、どうしたものか、と影人は困った。
「そ、それは、ええと……あっ、学校で嫌なことがあったんでしょう、きっと」
 と当たり障りのないことを理由に挙げる。とりあえず嘘は言っていない。
 すると、途端に詩織の目がうるっとして、
「いじめ、ですね! きっと転校生だから、クラスに馴染めなかったんだわ!」
「い、いや、それは……」
 あるはずがない。あのアキトに限って。いじめる側に回るなら、まだしも。
「それで弟さんは説得を聞き入れてくれたんですか?」
 ここで詩織の誤解を解こうとすると、余計にこじれる気がしたので、影人はそのように思わせておくことにした。
「まあ、多分、あいつの性格からして、学校へ行ったと思いますが……」
「そうですか! 自分に負けず、立ち向かうことにしたのですね! 良かった!」
 さっきまでの怒りは何処へやら、詩織は影人の話を聞いてパッと表情をほころばせた。やはり、しかめ面をするよりも、この娘には笑顔が似合う。
 せっかく高揚しているところに水を差すわけにもいかず、それ以上、影人は何も言わないでおく。
 そこへ影人のスマホに着信があった。
「あ、ちょっと、すみません」
 詩織に断って座を外した影人は、誰も使っていない打ち合わせスペースへと移動した。ここなら他の職員と少しは距離を取ることが可能だ。
 影人は普段からスマホを二台持ち歩いている。プライベート用と裏の仕事用だ。かかってきたのは裏の仕事用のスマホだった。
「はい」
 盗み聞きをされてもいいよう、何気ない風に装いながら応答する。
 電話をかけて来たのは、影人が信頼し、よく利用している情報屋からのものだった。あらかじめ区役所での勤務時間中はなるべく連絡しないよう伝えてあるが、どうも今回は緊急の用件らしい。
「………」
 案の定、もたらされた内容に、影人の表情が日常の凡庸としたものから夜の非情なものへと切り替わりかけた。短い通話が終わると、課長のデスクへ向かう。
「桑原課長」
「ん?」
 湯呑を口に持って行きかけていた課長の桑原照光が影人を見上げる。
「申し訳ありませんが、急用が出来ましたので、早退させていただきます」
「はあっ!?」
 それを聞いて、素っ頓狂な声を上げたのは桑原課長ではなく、ようやく自分の仕事に戻ろうとしていた詩織だった。バン、と異議を申し立てるように机を叩き、目くじらを立てて席から立ち上がる。
「分かった。明日でいいから、早退届、書いて出しといてね」
 さすがに想定していなかった事態に、地域福祉課の職員すべてが仕事の手を止める中、桑原には影人の早退願いが問題だという認識もないのか、あっさり認めてしまう。
 許可を得られた影人は課長に一礼すると、足早に退室した。ものの数秒で終わってしまった出来事に、詩織は開いた口が塞がらず、その後ろ姿を見送ることしか出来ない。
 ようやくハッと我に返ってから、課長のところまで行った詩織は、上司に噛みつきそうな勢いで抗議した。
「課長ぉ! 何で、早退をお認めになったんですか!?」
「だって、急用だって言うんだもの。それを『ダメ』とは言えないでしょ?」
 柳眉を逆立てる詩織の顔よりも、身振りと一緒に弾む豊満な胸の揺れを目の保養にしながら桑原は答えた。詩織は納得できない。
「仙月さんは遅刻して、たった今、来たばかりなんですよ! なのに、ひとつも仕事をせずに早退だなんて! これじゃ、他の人たちにも示しがつきません! こんなの欠勤扱いが当たり前じゃないですか!」
「まあまあ、人にはそれぞれ事情というものがあるから。それを汲み取ってあげるのも、上司の役目というものなんだし」
 憤慨している詩織には取り合わず、桑原課長は涼しい顔で、ずずずっ、と茶をすすった。



 まるで猛烈な竜巻が通過したあとのようだった。
 整然と並んでいたはずの自転車は散乱し、校舎の壁も穴こそ開いてないが、ひどく破損している。つかさは力が抜けてしまい、地面に両膝をついて北東の方角を眺めることしか出来なかった。
「そんな……」
 小悠(シャオユウ)と仲間の少年たちによって、薫が連れ去られてしまった。しかも漫画みたいに、ふわりと空を飛んで。
 これが夢ではないことくらい、つかさも分かっている。けれども現実感に乏しかった。それに、どうして薫がさらわれなくてはならなかったのか、その理由についても思い当たるものがない。
 誘拐となれば、当然、警察を呼ぶべき事案だ。が、相手は人知の及ばない強大な力を持つ。国家権力など、どれほど通用するものか。それに、どう説明すれば。
「……大丈夫、武藤くん?」
 後ろからつかさの肩に手を置き、沙也加が心配した。きっと信じられないようなことの連続で、それを目の当たりにした沙也加自身もショックと混乱が少なからずあるはずだが、後輩への配慮を忘れないのはさすがだ。
 途方に暮れている場合ではない、とつかさは意識を強く持とうとした。
「つぅ……あっ……ッ!」
 パラパラと頭上から細かい破片が降ってきた。見上げてみると、校舎に穿たれた破壊の痕跡から、アキトがもがきながらも脱出を試みているところだ。まず右腕が抜け、次に左腕、そして上半身が抜け出す。
「アキト!」
 小悠(シャオユウ)の念動力(サイコキネシス)によって痛めつけられたアキトは、崩れるコンクリートの欠片(かけら)と共に、およそ三階の高さから飛び降りた。足から着地したものの、ダメージは相当にあったらしく、そのまま跪いてしまう。血と汗にまみれた顔は歪められていた。
「ち、チクショウ……あんな隠し玉があろうとは……」
「アキト、大丈夫なの!?」
 着ていた制服はボロボロ、身体中も傷だらけというアキトをつかさは気遣った。
「ああ……何とか、な……あれ以上、やられてたら、ヤバかったろうけど……」
 珍しくアキトからは余裕が失われていた。いつもなら強がってでも、そういった弱味を見せないはずだが、今回ばかりは本当に危なかったのだろう。
「アキト……薫が……」
「ああっ? ……薫が、何だって……?」
「連れ去られちゃったよ……」
「――ッ!?」
 校舎の外壁に埋め込まれそうになっていたアキトは、その場面を目撃していなかった。今にも泣きそうなつかさの声に血相を変える。
「あっ、あいつらぁ――!」
 すぐに追いかけようとしたのだろう。だが、アキトは立とうとして、それすらも出来ず、その場で転んでしまった。身体に力が入らない。
「くっそぉぉぉっ……!」
 もう一度、試みたが、やはり駄目だった。アキトはつかさたちに顔を見せまいとしながら歯ぎしりする。
「……ここから離れた方がいいわ」
「――えっ?」
 いつの間に現れたのだろう。背後に黒井ミサが立っていた。
 “琳昭館高校の魔女”とも呼ばれるミサは手の平の上に小さな砂時計を乗せていた。今、ひっくり返したばかりらしく、赤い色をした砂が下へと落ちている。
「黒井……さん……?」
 神出鬼没とも称される彼女の登場はいつものこと。だから、それほどつかさは驚かなかったが、言っている意味がよく分からない。
「……さあ、早く」
「えっ、それは、いったい――あっ!?」
 隣を見ると沙也加が微動だにしていなかった。まるでパントマイムをしているみたいに、振り向いた体勢で固まっている。よく見ると、呼吸すらしていないようだった。
「せ、先輩……? ど、どうしたんですか?」
 つかさは沙也加に呼び掛けたが、やはり返事はない。触れて確かめようかとも思ったが、憧れの先輩に対して、それすらもためらってしまう。
「武藤くん。待田先輩のことはいいから、早くして」
「な、何が、どうなって……?」
 目の前で起きている奇妙な現象に、つかさは混乱せずにいられなかった。
「あまり時間を止めてはいられないの。あなたたちは今すぐ、ここから離れるべきだわ」
 ミサの言葉に、つかさは彼女の手の上にある砂時計を見つめる。まさか、本当に時間を止めているとでも言うのだろうか。
 とにかく、ここはミサの言葉に従っておくべきだと判断し、つかさはアキトに肩を貸しながら、自転車置き場から移動した。


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