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吟遊詩人ウィル

闇の哀歌<エレジー>

3.途絶えた足跡

 見渡す限りの牧草地帯を黒塗りの馬車が進んでいた。それはジョエルにとって初めての景色であったが、その心はここにあらずといった感じで、ただ瞳に緑を映すだけ。頭の中では一人の少女のことばかり考えていた。
 ジョエルはエレナを追って、マルスキーの西、グローマを訪れることにした。そこはボードワール家の領地のひとつであったが、ジョエル自身は館のあるマルスキーよりも西に出かけたことがない。マルスキーの外へ出る機会は、王都プロミスへ出立するときくらいだ。だから、ここがかつて先祖の地であった感慨など湧いてこなかった。
 しかし、ジョエルの同行者は違ったらしい。
「いい土地だな。夏は過ごしやすそうだ。これより南に砂漠のシャムール王国があるとは思えない」
 ジョエルの斜向かいに座るのは、マルスキーにて酔漢から彼を助けたウィルと名乗る吟遊詩人だった。こんな何もない地にどのような用があるのか。館への晩餐に招いたジョエルが、これまでの経緯とエレナを連れ戻すためにグローマ行きを決めたことを話すと、意外なことに自らも同行を申し出てきたのだ。グローマへ送り届けてもらうことで、助けた礼代わりにする、と。その程度のことなら容易いと、ジョエルは奇妙な吟遊詩人だという感想を持ちながら承諾した。
「ここは北のヤルン山脈から吹き下ろす風が、一年中、吹いている土地なのです。おっしゃるように夏はいいですよ。ただし、冬は厳しい。一年の半分は冬だと聞きます。マルスキーも似たようなものですが、ここほどじゃありません。それに王都との流通も発展しているので、住みやすさは格段に違います」
 旅の同行者にジョエルは領主らしく語って聞かせた。
 それにしても、とジョエルは外を眺めるウィルの横顔を見ながら、その魔性のごとき美しさに魅入られた。本当に男かと疑わしくなるような容貌。肩のあたりまで真っ直ぐに伸ばされた黒髪のせいもあって、さぞやこの野暮ったい旅装束を脱ぎ捨て、きらびやかな装飾をあしらった貴族の衣裳を身につけさせてみたら、その美丈夫ぶりに誰もが陶然となることだろうと想像する。いや、それよりも女物のドレスを着せた方がよくよく似合うかもしれない。ジョエルは、自分が変な気を起こさないか、不安さえ覚えていた。
 そんなことを知ってか知らずか、ウィルは無表情に向き直った。
「かつては、ここに領主の城があったとか」
「おや、誰から聞いたのです? 確かに、五十年ほど前、私の祖父の代までは、このグローマ地方に居城を置いていたそうです。城があったのは、これよりもさらに先ですが」
「あった? とすると、今はもうないと?」
「いえ。私も祖父や父から話を聞いただけで詳しくは知りませんが、その五十年前に火事を起こしまして、未だに廃城として形だけは残っているようです。実を言うと、私もここを訪れるのは初めてなのですよ。ですから、自分の目で確かめたわけではありません」
「なるほど」
「当家の古い城に興味でも?」
「いや」
 終始、ウィルの顔からは何も読み取れなかった。
 グローマ地方では、小さな村が点在している。馬車は一番東寄りの村に到着した。
 早々にジョエルはエレナを捜した。ここまでの足取りはつかめている。確かにマルスキーから、この方面に向かったらしいとの情報をこれまでに得ていた。
 ところが先発させていた従者と合流したところ、エレナに似た少女を見た者は皆無であった。無論、そう簡単に見つかると楽観していたわけではない。だが、いざ現実を突きつけられてジョエルは落胆を禁じえなかった。
 これより先は、以東のように道が整備されているわけではなく、馬車を使っての移動は難しいと思われた。そこでジョエルはここを拠点にし、エレナの捜索を続行させることを決めた。
 翌日には騎乗用の馬が用意され、ジョエルとウィル、それに三人の従者とこの村で雇った案内人一名とで、あちこちの村を駆け回った。しかし、エレナの消息はふつりと途切れ、一人旅の少女の姿はもちろん、最近、よそ者を見かけたことすらないと言う。さらに捜索範囲は広げられたが、芳しい成果が挙げられぬまま、三日が経過した。
「こうなったら、もう少し西へ行ってみるしかないな」
 グローマ地方の東側をあらかた回りつくし、ジョエルはさらなる遠出を決断した。野宿などができる装備を整え、同じメンバーで翌日に出発する。
 六人はエレナを捜しながら広大なグローマ地方を横断した。だが、その行方はようとして知れず。次第にジョエルの焦燥感も募った。
 さらに三日後、案内人に従って北へ進路を取った一行は、次の村を目指した。北のヤルン山脈が近づく。その道筋、西に現れた威容にジョエルは目を細めた。
「あれは……?」
「あれがかつてのお城でございます」
 案内人が振り返りながら年若い領主に教えた。
「あれが……」
 ジョエルは息を飲んだ。初めて見たボードワール家の城。それはこちらから逆光になって、細部を確かめることはできなかったが、現在、マルスキーにある領主の館とは比べものにならないほど威風堂々としていた。さすがは大貴族と呼ばれたボードワール家の居城だ。かつての一門の繁栄ぶりが窺えた。
 その城に一番近い村へ、一行は辿り着いた。およそ五十年ぶりの領主の訪問に、村の者たちは一様に驚く。しかも、その間に二度の代替わりをしており、若きジョエルの姿は神々しいまでに眩しかった。
「これは閣下、ようこそお越しくださいました。おお、そのお顔立ち! 先々代のサミュエル様にそっくりでございますな。私も幼心に憶えております」
 村一番の長命な老人から歓迎を受けて、ジョエルも表情を和らげた。五十年も経過し、この土地で祖父のことを知っている者は、もうそんなに多くはいないだろう。このとき、ようやくジョエルにも、かつての先祖の地に帰ってきたのだという情感が込み上げてきた。
「今日はここで宿を取らせてもらう。世話をかけると思うが、よろしく頼むぞ」
 馬から降りたジョエルは、集まってきた村人ひとりひとりに対して気さくに握手し、肩を叩いてねぎらった。そうしながら、エレナがいないか、その姿を捜し求める。しかし、ここにも意中の恋人はおらず、ジョエルの高揚はすぐに冷めてしまった。
 その夜、村の者たちは、ジョエルに精一杯の歓待を施した。どこでも一泊した村では同じような羊肉のごちそうが振る舞われており、いささか食傷気味に感じてはいたが、この若い領主はそれを顔に出さず、人々の好意を素直に受け取った。そうとあっては従者たちもそれにならわぬわけにはいかず、半ばヤケ気味に酒を酌み交わした。
 宴の席で、吟遊詩人であるウィルが一曲披露し始めた。美しい女神の意匠が凝らされた見事な《銀の竪琴》を爪弾き、歌声を乗せる。その美声と世にも妙なる調べに誰もがうっとりとした。

   夜に風は吹き渡る 風が夜を吹き抜ける
   満天の夜空を駆け巡りし星たちよ
   その輝きを地上に降り注げ
   神話の時代より眠りし竜が天駆け
   炎の尾が箒星となりて草原に落つ
   旅人が見上げる夜空の何と美しいことか
   時代の栄枯盛衰など この永久の輝きには遠く及ばぬ
   星に手を伸ばせども つかむこと叶わず
   たとえ翼を得ようとも 届くこと決してあたわず
   星は満天にあり 旅人は草原に立つなり
   さまよい歩く旅人よ しかと地を見よ 己が足を
   求めし星は遠くにあらず 答えはそなたの懐中にあり
   夜に風は吹き渡る 風が夜を吹き抜ける

 歌が終わっても、誰も動こうとしなかった。それほどに聴き惚れたのである。誰もが感動を胸の内に忍ばせた。
 ジョエルはひとり、酔いを醒まそうと宴の席を抜け出した。そして、あの城が見えた方角を向く。
 残念なことに、ここから城を見ることはできなかった。丘の陰に隠れてしまっている。エレナの捜索をあきらめたわけではないが、明日は一旦休息を取り、あの城まで足を伸ばしてみようかと、ジョエルは考えを巡らせた。先祖の居城だったところだ。これまで訪れる機会がなかったが、一度、見ておくのも悪くない。
 そこへジョエルを出迎えた老人がやってきた。
「ここにおられましたか。ひょっとして、一人であの廃城へ行ったのかと、肝を冷やしましたぞ」
「なぜだ? あそこには何かあると言うのか?」
 怪訝そうに尋ねるジョエルに、老人の方が驚いた様子だった。
「ご存じありませぬか? サミュエル様や、お父上のセドリック様には、何度も訴えたのですが」
「訴えただと?」
「はい。実は、あの城からサミュエル様たちが去ってから、あそこに怪物が棲むという噂が立ちまして」
「なに?」
「その怪物は、夜、あの廃城に近づく者を襲うのです。これまでも何人かの男たちが帰らず、犠牲になったものと思われてきました。つい先日も、ワトキンという羊飼いの青年が、羊たちを残したまま姿を消したばかりでして。私どもは、なんとかしていただけないものかと、以前からサミュエル様やお父上に書状をしたためていたのです」
 老人の口からもたらされた話は、ジョエルが初めて聞くものだった。もし、それが事実だとすれば、由々しき問題だ。領内で怪物を野放しにしていたと知れたら、名門貴族の沽券にかかわる。領民を守ってこその領主だ。
 ジョエルは硬い表情で、もう一度、城のある方角を見やった。


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