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吟遊詩人ウィル

闇の哀歌<エレジー>

4.闇夜の誘い

 あれは何年前のことだったろう。多分、父セドリックが当主になった直後だから、十五年くらい前のことだろうか。
 ちょうど二階から下りてきたジョエルは、どこかへ外出しようとしている祖父サミュエルを見かけて声をかけた。
「お祖父さま、どこかへお出かけですか?」
 当主の座を父に譲ったとはいえ、サミュエルはまだ老けこんでなどいなかった。背筋はかくしゃくしてと伸ばされ、肩幅が広く、肌の色つやも若々しい。口にたくわえた髭が威厳を惹き立てていた。
「おお、ジョエル。勉強はもういいのか?」
 孫の顔を見て、サミュエルは好々爺然として相好を崩した。いつもは日頃から厳しいサミュエルも、こと孫のジョエルに関してだけは甘くなる。ジョエルも、そんな祖父が好きだった。
「もう終わりました。今日は手紙の書き方を習ったんです。今度、プロミスのヨドルに宛てて書いてみたいと思います」
「そうか。ここではお前と同い年の友達がいないからな。マンサールの倅も喜ぶだろう」
「それで、お祖父さまはどこへいらっしゃるのです?」
「ん、んん、私か……私はな……」
 サミュエルは珍しく言いよどんだ。いつも物言いがハッキリしている祖父にしてはらしくない。
「私はこれからグローマに行って来る」
「グローマ? 昔、ボードワール家の城があったという?」
 サミュエルからグローマの話は何度か聞かされたことがあった。ジョエルは目を輝かせた。昔、火事になってしまい、一族はマルスキーに移ることになったらしいが、子供心にも一度はかつての居城を見てみたいと思っていたのだ。父のセドリックもマルスキー生まれなので行ったことがないという。
「ねえ、お祖父さま! 私も一緒に連れて行ってください!」
 ジョエルは子供らしい率直さでサミュエルに願い出た。すると、サミュエルの顔が強張る。
「……ならぬ」
「え?」
「ならぬと言っておるだろう! 私は遊びに行くのではない! だから、まだ子供のお前を連れて行くわけにはいかぬのだ!」
 そのとき、ジョエルは生まれて初めてサミュエルに怒鳴られた。長年、名門を守り抜いてきた厳しさ。そんな祖父の本性をジョエルはまざまざと思い知らされた。
 まるで雷にでも打たれたように、ジョエルはその場から動けなくなくなった。サミュエルは険しい目つきで孫を一瞥してから、黙して玄関ホールを突っ切っていく。そのまま外に待たせてあった馬車に乗り込んだ。
 馬車が走り去っていく音を耳にしてから、ジョエルは追いかけるように外へと出た。そこでジョエルは異様を目にする。
 さっきまで昼間のはずであったのに、いつの間にか外は夜になっていた。それと同時に、ジョエルは自分の身の丈の変化にも気づく。大人になっていた。今の自分そのままだ。
 しかも、出発したはずの馬車がなぜか引き返してきた。それが祖父の乗っていった馬車ではないと、どういうわけかジョエルには分かる。馬車がこっちへ近づくにつれ、胸を押し潰されるような不安感に苛まれた。
 馬車はジョエルの目の前で停まった。御者が下りてきて、馬車のドアを開ける。そのとき、ジョエルは胃液が込み上げてくるような気持ち悪さを覚えた。
「――っ!? だ、旦那さまぁ!」
 中を覗いた御者が驚いて叫びをあげ、尻もちをついた。そのおかげで、ジョエルからも馬車の中が見えるようになる。あのときの再現かと、ジョエルは気づいた。目を背けたい。そう思ったが、どういうわけか視線を逸らすことはできなかった。
 乗っていたのは祖父のサミュエルではなく、ジョエルの父、セドリックだった。セドリックは座席から転げ落ち、床に仰向けになった状態で死んでいた。カッと見開かれた目。苦しみもがいたであろう、酸素を求めて開けられたままの口。恐怖の引きつった形相。しかし、何よりも奇妙なのは、まだ五十手前だったはずの父が一気に老けこんでしまったように見えたことだ。皮膚は干乾びたようにカサカサになり、髪は色が抜けてしまったかのように白くなっている。この馬車がボードワール家のものでなければ、別人かと疑っていたことだろう。
 ジョエルは驚愕に打ちひしがれた。
「ち、父上……父上!」
 それはひと月足らず前の忌まわしい出来事の記憶だった……。



 ジョエルは悪夢にうなされて、夜中に目が覚めた。自分が何かを大声で口走ったのではないかと焦り、暗闇の中を慌てて見回す。
 ここは村の者が好意で用意してくれた寝所だ。隣の部屋には従者たちが寝ているはずだが、彼らが異変に気づいた様子はない。暗闇の中は死んだような静寂に満ちていた。
 ジョエルは寝汗を拭った。どうして、あんな夢を見たのか。父の死を思い出すのは久しぶりだ。それにすっかりと忘れていた幼き日の祖父との会話。あれからジョエルは、祖父に近寄りがたいものを感じるようになったのだ。
 やはり、これも祖先の地を訪れたせいなのだろうか。ジョエルはそんな感慨にふけった。
 それにしても、なぜあのとき、祖父はジョエルの同行をあんなにも激しく拒絶したのか、夢の内容を思い出しながら疑問がもたげる。グローマへは、常に祖父の目が光っているように感じられ、今日まで来訪が叶わなかった。それはジョエルばかりでなく、父も同様だったように思える。父セドリックもまた、グローマへ出かけることはなかった。グローマに用事があるときは、必ず祖父サミュエルが出かけていたし、その祖父が三年前に死んでからも、父はグローマに近づこうとはしていない。ひょっとすると、父も祖父サミュエルから厳しく戒められていたのか。
 一体、このグローマに何があるというのだろう。五十年前、炎に包まれたボードワール家の城に何か関係があるのか。
 城といえば、村の老人から聞いた話を思い出す。廃城に棲む怪物の話。それによれば、夜中に出歩く者を襲うという。
 その陳情を父も祖父も無視したらしい。ジョエルにも、そんな話を一言もしてくれなかった。まるで秘密にしようとしていたかのように。
 ジョエルの中で、怪物のイメージと父セドリックの死が重なった。なぜかは分からない。しかし、不可解な父の死。弔ってくれた僧侶<プリースト>は何かの発作ではないかと言ってくれたが、一気に二十年以上も歳老いてしまったような、あの恐ろしいまでの形相は説明がつかない。プロミスに出かけるまで、セドリックは至って元気だった。父の死はあまりにも突然だった気がする。
 いろいろなことがジョエルの頭の中で駆け巡った。とても、もう一度、ベッドに潜り込んで眠る気になれない。ジョエルは少し頭を冷やそうと、こっそり寝所を抜け出した。
 誰にも気づかれずに外へ出ると、冷たい空気が気持ちよかった。草の匂いを運んでくる秋風は、長い冬の到来が間近なことを知らせているようだ。澄み切った空気を通して眺める夜空には、きらめく星々が瞬いており、閉め切った部屋の中よりも外の方が明るく感じられた。
 ジョエルは胸一杯に夜気を吸い込んだ。火照った身体が心地よく冷めていくようだ。鬱屈した思いと一緒に息を吐き出す。
 明日は城へ行ってみよう。ジョエルはそんなことを考えた。やはり怪物のことを聞いては黙っていられない。もしも本当に怪物が存在するのならば、そのときは何か対策を講じなければと、領主としての責任を感じていた。
 そうやって、ちょっとの時間、立っているだけで、ジョエルは肌寒くなってきた。やはりグローマはマルスキーよりも気温が低い。そろそろベッドに戻った方がよさそうだと判断した。
 そのとき――
 戻りかけたジョエルは、不意に何かを感じて振り返った。すると、さっきまで影も形もなかったはずのところに、小さな何かが立っているのが見える。人だろうか。ジョエルは目を凝らした。
 遠かったが、月明かりのおかげでなんとなく見ることができた。やはり人間だ。それも見覚えのあるドレスを着た少女の。
「――っ!?」
 ジョエルは息を呑んだ。見間違いではないかと、再度、確認する。だが、それは夢でも幻でもなかった。
「エレナ……」
 その少女こそ、ジョエルが捜していたエレナだった。着ているドレスはジョエルがかつて贈ったもの。見忘れようはずがない。
「エレナ!」
 ジョエルは少女の名を呼んだ。こちらには気づいているはず。それなのにエレナは何の反応も示さない。ただ、こっちを向いて立っているだけ。
「エレナ!」
 もう一度、ジョエルは声をかけた。しかし、やはり反応はない。それどころか、くるりと踵を返し、立ち去ろうとした。
「待って、エレナ!」
 ジョエルは追いかけた。やっと、こんな遠くまで来て見つけたのだ。もうエレナを離しはしない。彼女をマルスキーに連れて帰り、結婚する。その想いで一杯だった。
 ところがエレナの姿は段々と遠ざかった。走っている様子もないのに、ジョエルの足では追いつけない。ジョエルは不思議に思った。だが、そんなことよりも今はエレナの姿を見失ってしまうことの方が怖かった。
「エレナ、待ってくれ! 私だ! ジョエルだ! キミを迎えに来たんだ!」
 ジョエルは必死にエレナを引き止めようとした。もう全力疾走だ。村の外れまで来ている。それでもエレナとの距離は縮まるどころか開いていた。
 いつの間にか、ジョエルは緩やかな丘を駆け上がっていた。前方に巨大なシルエットが見えてくる。それが廃城の威容だと気づいてはいたが、夜に出没するという怪物のことなど完全に失念していた。ジョエルにあるのは、ただエレナのことだけ。
 廃城の前まで来て、エレナは立ち止った。そして、ジョエルの方を振り返る。ようやく、こちらに気づいてくれたかと、ジョエルはふらふらになりながら走る速度を落とした。
「エレナ……もう逃げなくていいんだ……帰ろう……一緒にマルスキーへ帰って、そして……」
 そのとき、歌声が聞こえた。
 それはエレナが唄っているものではなかった。エレナの口は動いていない。第一、エレナの声ではない。別の女性の声だ。艶やかでなまめかしく、それでいて哀切の響きが混ざっている。ウィルの歌声も素晴らしかったが、この歌声の美しさもジョエルを虜にしていった。
 歌声は廃城から聞こえてくるようだった。それに引き寄せられるようにして、ジョエルは歩いた。まるで魔法にかけられたかのように。すでに、そばに立つエレナの姿も眼中にない。二人はすれ違った。
 ジョエルは廃城の中に消えた。外にはただエレナだけが立つ。少女の顔には何の感情も浮かんでいない。
 月だけがその奇妙な邂逅を目撃していた。


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