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「エレナ!」
と叫ぶジョエルの声がウィルの耳に聞こえた。
横になっていたにもかかわらず、まるで眠っていなかったかのように、ウィルはベッドから起きあがった。ジョエルたちが泊まったのとは違う家の中だ。老夫婦の二人住まいで、一室だけ空きがあるということで提供してもらったのだった。
耳を澄ますと、またジョエルの声がした。どうやら移動しているらしい。最初よりも声が遠のいている。
ウィルはすぐさまベッドから降りると、ブーツを履いた。上は脱いでおらず、黒い旅装束のままだ。まるで、このことを予期していたかのようである。
短剣を差した黒革のベルトを装着し、全身を覆うようにマントを羽織ると、旅帽子<トラベラーズ・ハット>をかぶった。最後に《銀の竪琴》を手にする。これがウィルの身につけているすべてだ。床についている老夫婦の眠りを妨げぬよう外へと出た。
外の風は冷たかった。ウィルはマントの襟を掻き合わせる。そして、ジョエルの姿を捜した。
夜空に月は出ていたが、ジョエルはもちろんのこと、誰の姿もそこにはなかった。ジョエルが叫んでいたエレナという名は当人の口から聞いている。そもそもの旅の目的だ。その名前をジョエルが呼ぶようにしていたということは、捜していたエレナが見つかったということだろうか。
ウィルは地面に屈み込んだ。その場に残されているはずの真新しい足跡を捜す。夜には向いていない作業だ。しかし、ウィルの夜目は難なく見つけたようだった。
立ちあがったウィルは、ジョエルの足跡が続いている方向を見やった。その目は甘い調べを奏でる吟遊詩人というよりも、まるで獲物を追う狩人のように鋭い。
突然、ウィルは駈け出した。マントが風をはらみ、まるで化鳥の翼のように広がる。夜の道を疾駆する美しき黒ずくめの異邦人。それはまるで人ならぬものに見えた。
ジョエルの足跡は村の外へと向かっていた。しかも、ウィルと同じように走っているのが、歩幅の広さから知れる。ウィルは足を速めた。
やがて道は登り始め、正面に忽然と山のような塊が現われた。それはボードワール家の城。五十年もの間、主を失った廃城だ。
そのとき、夜をも見通すウィルの目がジョエルの背中を捉えた。ジョエルは一人で廃城の中へ入って行こうとしている。その足取りは、どこか頼りなかった。
「ジョエル!」
ウィルは若き領主の名を呼んだ。しかし、ジョエルには届かなかったのか、そのまま廃城の中へと姿を消してしまった。
無論、ウィルは追いかけようとした。が、次の刹那、その足が止まる。
シューッ シューッ
どこからか聞こえてくる、ひそかに息が漏れ出すような音が原因だった。低く不気味な音。だが、その出所までは分からない。
やがて、それは聞こえなくなった。何事もなかったかのように夜の静寂が戻る。
それでもウィルは動かなかった。まるで何かを警戒するかのように。
――と。
ウィルの背後より近づくものがあった。それは何の物音も立てず、一切の気配を殺して忍び寄る。ウィルは――気づかない。そのものの接近に。
不意に地面から巨大なものがゆっくりと立ちあがった。ウィルの背丈よりも高い。にもかかわらず、それは気取られることのない慎重さを持っていた。ウィルを見下ろしながら、急所への狙いを定める。
シャアアアアアアアアアッ!
その化け物は初めて独特の唸りをあげた。長い黒髪に隠れたウィルの白い首筋に咬みつこうとする。鋭く禍々しい牙が月明かりに光った。
次の瞬間、襲われた吟遊詩人は牙の攻撃を逃れた。まるでタイミングを計っていたかのように横へ跳び、襲撃者を振り返る。その正体を見たとき、美しき相貌には怯えも驚きもなかった。
虚空を咬んだものの正体は大人も震え上がるほどの巨大なヘビであった。体長は人間の七倍から八倍くらい、胴回りは屈強な男の大腿部をはるかに上回る。鱗めいた体は黄褐色で、黒褐色の斑紋の持ち主だ。せっかくの獲物に逃げられた大蛇は、まるで仕留め損なったことを呪うかのように、先が二つに分かれた細い舌をチロリと見せた。
「使い魔か」
目の前の恐ろしい大蛇に眉ひとつ動かさず、ウィルは誰にともなく呟いた。
使い魔というのは、黒魔術師<ウィザード>が使役する下僕のことだ。普通は鳥やネコといった小動物が使い魔になることが多いが、高位の術者になればもっと大きな動物を使役することもできる。もっとも、この大蛇のように危険な化け物まで従えるというのは、非常に稀な例であり、常識的には考えられない。何かの拍子にコントロールを失えば、術者自身に身の危険が及ぶからだ。
ウィルはなぜ、この大蛇を使い魔だと断じたのか。
大蛇はシュー、シューという気味の悪い音を出しながら、再びウィルに襲いかかろうとした。頭が高く持ちあがり、鎌首をもたげる。
一気に襲いかかるスピードは、その巨体に似合わず俊敏なものだった。剣よりも鋭い牙が美しき吟遊詩人を捉えようとする。だが、対するウィルはまるで機敏さなど無縁のように、優雅な舞でも踊っているかのごとく大蛇の攻撃を回避した。それはさながら黒い羽毛のような軽やかさだ。
しかし、大蛇は執念深い。その巨大な体長を生かして、逃げるウィルを仕留めるまで追いかける。
「ディロ!」
大蛇の口が眼前に迫ったとき、ウィルは短い呪文を唱えた。それは白魔術<サモン・エレメンタル>。精霊の力を行使する魔法だ。
ウィルが使ったのは白魔術<サモン・エレメンタル>の中でも光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>の力を用いた魔法の矢――マジック・ミサイルだ。
その鼻面に光が炸裂したかと思うと、マジック・ミサイルを受けた大蛇はひるんだ。苦しそうに頭を振る。その間にウィルは、再び大蛇との距離を取っていた。
「ディノン!」
すかさずウィルは攻撃魔法を使った。今度はマジック・ミサイルの連射である。それは夜を明るく照らし、すべて大蛇に命中した。
シャアアアアアアアッ!
大蛇は猛り狂った。鱗状の胴体をくねらせ、身悶える。禍々しい蛇眼が小癪な吟遊詩人をねめつけ、忌々しげに舌を出した。絶対に丸呑みしてやるという執念が伝わってくる。
さすがに巨体の持ち主だけあって、ウィルの魔法を数発喰らっても、大蛇はまったく弱った様子を見せなかった。その代わり、手強そうな相手に対して攻め手を変える。大蛇はもたげていた鎌首を地面に下ろし、ウィルの足下を攻める策に出た。
体を蛇行させながら、大蛇は音もなくウィルへと迫った。素早い。
ウィルはさらに攻撃を加えるかと思いきや、大蛇から離れるように動いた。意識は目の前の大蛇に向けられていない。まるで別の何かを捜しているかのようだ。
次の刹那、ウィルは何かに足を取られた。その拍子に背中から倒れ込んでしまう。すぐそこには大蛇。この好機を逃すはずがない。
ウィルが足下を見ると、土で作られた手のようなものが足首をつかんでいた。ウィルを転ばせたのはこれだ。ウィルは自由な方の足で土くれの手を蹴飛ばし、粉々にしてしまう。これで動けるようにはなったが、大蛇が襲いかかったのはそれと同時――
シャアアアアアアアアアッ!
「――っ!」
逃げるのは不可能と見たウィルは、とっさに身をひねって大蛇の牙をかわした。顔のすぐ横に大きく口を開けた大蛇の頭。危機一髪だ。
しかし、大蛇は即座に首をねじって、黒衣の吟遊詩人を毒牙にかけようとした。ウィルは反射的に大蛇の首をつかむ。毒牙はウィルの眼前で防がれた。
この力勝負は、すぐウィルに分の悪さが出た。大蛇をつかむウィルの両手はまるでたおやかな女のようで、太い首に指が回らない。しかも大蛇はなんとしても咬みつこうと大きな口を益々開けながら、一方で長い胴体を蠢かし、ウィルに対して絞めつけにかかった。こんな大蛇に絡みつかれては、人間はおろか牛でもたまらないだろう。大蛇はウィルの身体を巻き取ると、じわじわと力を込めた。
大蛇の首をつかむウィルの手が震えた。身体を絞めつけられたせいで呼吸が困難になっているからだ。このままでは力尽きるのも時間の問題である。腰のベルトに唯一の武器である短剣があるが、それを抜く間、片手だけで大蛇の頭を押さえ込むのは不可能だ。となれば手段はひとつしかない。
絞めつけはより強力になっていた。ウィルは残った最後の酸素を使う。
「ヴィ……ヴィド・ブライム!」
ウィルの呪文に火の上位精霊<イフリート>が応えた。大蛇を押さえる両手から赤い火球が膨れあがる。突然、耐えがたい熱にさらされ、大蛇は悶えた。だが、逃げるには、もう遅い。
魔法が発動し、ウィルの手からファイヤー・ボールが発射された。それは大蛇の頭を易々と吹き飛ばし、夜空へ立ち昇る流星と化す。首を失った大蛇は狂ったように身をくねらせ、断末魔の痙攣を引き起こしていたが、やがて力尽きたように動かなくなった。
ようやく恐ろしい大蛇の死骸から抜け出して、ウィルは立ちあがった。そして、再び周囲の気配を探る。
「消えたか」
それはこの大蛇を使役していた術者のことだったろうか。そして、ウィルを転倒させたあの土くれの手も、その者の仕業なのか。いずれにせよ、それを知る術は、今はない。
それよりも廃城に消えたジョエルを追うことの方が先決だった。ウィルは改めてボードワール家の廃城を見上げた。
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