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ここはどこだろうか。
ジョエルはふと夢から覚めたような心持ちになっていた。辺りは暗い、階段の途中のような場所である。そこにジョエルは立ち尽くしていた。
どうやってここへ辿り着いたのか定かでない。まるで頭の中に霞がかかったような不透明さがあり、記憶があやふやになっていた。ただ、なんとなく道筋らしきものがおぼろげに思い出される。
石畳の通路を歩いていると、不意に隠し扉があり、その中にさまよいこんだのだ。どうして、そこに隠し扉があると分かったのか、それはまったくもって解せなかったが、ジョエルはまるで導かれるようにしてくぐり抜けて来たのだった。
隠し扉の向こう側は地下へと続く階段になっていた。かなり下へ降りたと思われる。深く暗い。まるで死者の国と呼ばれている冥界へでも通じているかのようだった。
その階段こそが、今、ジョエルが立っているところだった。どうして、こんなところへ来てしまったのか。自分が何をしていたのか思い出そうとすると、あの廃城から聞こえてきた美しい歌声がよみがえった。
そうだ、とジョエルはすべてを思い出した。深夜に外気を吸おうと表へ出たところ、捜し求めていたエレナが立っていたのだ。ジョエルはエレナの名を呼んだが、どういうわけか彼女は彼から逃げるように遠のいて行ってしまい、それを懸命に追いかけたのである。気がつけば、かつての先祖の居城であり、今では怪物が出るという噂の立つ廃城の近くへと来ていたのは、偶然か、はたまた見えない何者かの意図によるものか。そこでジョエルは妖しくも美しい歌声に誘われて、ここへと招き寄せられたのである。
あのエレナは本物だったのか。今となっては、何らかのまやかしのような気がしていた。なにしろ、ジョエルの声が届かないばかりか、いくら走ろうとも追いつけなかったのである。奇怪としか言いようがなかった。
それに不思議な力を持った、あの女の歌声。ジョエルの意思とは関係なく、ここまで連れて来られてしまった。ひょっとすると、あの歌声こそが、この土地の若者を生かして帰さない秘密なのかもしれない。とすれば、ジョエルもまた、罠にかかった一人ということになる。
とにかく、ここがどこなのか、ジョエルは状況を把握しようと努めた。
とりあえず、廃城の隠された入口から続く地下への階段であることは、なんとなく分かった。当然、入って来たのは上からである。しかし、ジョエルはいくらも戻らないうちに階段が閉ざされていることに気がついた。どうやら跳ね上げ戸が落ちているらしい。ジョエルは持ち上げて開けようとしたが、鍵がかかっているのか、いくら力を入れてもびくともしなかった。
仕方なく、ジョエルは階段を降りて行くことにした。これこそが罠なのかもしれないが、他に選択肢はない。一歩一歩、慎重に足を進めた。
しばらくすると、ジョエルの耳に水音が聞こえてきた。川のように流れているわけではないが、静かに打ち寄せるような音が微かに聞き取れる。それは下へ降りるたびに、はっきりとしてきた。
やがて階段は終わりを告げた。ジョエルは思わず棒立ちになる。そこに広がっていたのは石畳の床などではなく、一面の地下水だった。
北のヤルン山脈の万年雪が地面に染みこみ、それが地下水となってグローマ地方の人々を潤しているという話を聞いたことがある。だから、廃城の地下に大量の水があっても、何の不思議もなかった。
それにしても、どれだけの水が地下に広がっているのか。明かりがないので確かなことは言えないが、低い天井の下に見渡す限り水があり、どこからかひんやりとした空気を運んでくる。多分、水は透き通るほど清らかで、冷たいのだろう。自然が作り出した景観にジョエルは息を飲んだ。
階段を降り切ると、そこにはちょっとした船着き場のような足場があった。もしかすると、昔はここを抜け穴として利用しており、舟を用意していたのかもしれない。とすれば、この地下水は地上のどこかにつながっている道理だが、ジョエルは水に触れてみて、すぐに脱出をあきらめた。案の定、ヤルン山脈の雪解け水だけあって、手がしびれるくらいに冷たい。こんなところを泳いで出口を捜そうとしても、とても長くは水の中に入っていられないだろう。それにジョエルはあまり泳ぎが得意ではない。小さい頃に川で溺れた苦い経験があった。
万事休すとなり、ジョエルは途方に暮れた。
あとどれくらいで朝になるだろうか。地下にいては夜明けなど分かるはずもないが、朝になれば、ジョエルがいなくなったことを従者たちが気づき、捜し始めるかもしれない。村の中にいないと分かれば、廃城かと思い立って来てくれる可能性も充分に考えられる。
――いや、ダメだ。ジョエルは楽観を打ち消した。
これまでにも廃城には、怪物退治を依頼された男たちが何度となく探索に訪れているのだ。その者たちがこの地下への隠し扉を発見したという話は聞いたことがない。つまり、それは誰にも気づかれないよう、巧妙に隠されているからに違いないのだ。従者たちだって、何らかの確信がない限り、いつまでも廃城を調べるようなことはせず、成果が上げられないとなれば他の場所に行ってしまうだろう。見つけてもらえる可能性は低いだろうと言うのが、ジョエルの結論だった。
完全に閉じ込められたことを知り、ジョエルは階段に腰掛けた。すぐに湿ったような冷たさがズボンを通して尻に伝わってくる。ひどく惨めな気持ちになり、ジョエルは顔を埋め、身体を丸めた。
ここで朽ち果てるしかないのか。とうとうエレナにも会えず、まだ二十二歳の若さで。涙は不思議と出なかった。それよりも身体にぽっかりと穴が開いたような気分に陥り、何も考えられなくなる。
そのとき――
ぽちゃり、と小さな水音がしたような気がした。
最初、ジョエルは顔を上げなかったが、なんとなくこちらに近づいてくるような気配を感じ、そちらを見やった。すると、昏い水面にささやかな波紋が浮かび上がっており、ジョエルの方へそっと辿り着く。ジョエルは目を凝らした。
どうせ魚か何かだろうと思った。水面に黒い影が浮かんできたように見える。その次には、意外に大きそうだと分かり、ジョエルは肝を潰した。廃城に棲む怪物。帰って来なかった若者たち。ジョエルは自分がどこへ誘い込まれたのか、今になって思い出した。
「うわっ!」
ジョエルは慌てて立ちあがり、後ずさった。階段だったので、思わず転びそうになる。こちらへ、すーっと近づいてくる影から目を離せぬまま、体勢を整え、数段、上にあがって水から遠ざかった。
黒い影は水際の足場まで辿り着いた。ジョエルが息を殺して見守っていると、水の中から白いものが浮かんできて、ひっ、と悲鳴をあげそうになる。それでも目をつむるわけにはいかなかった。
それは闇の中でまるでぼーっと光っているかのような白さだった。その正体が人間の手であると分かったのは、しばらくかかってからのような気がする。それは手探りするように水から這いあがり、石造りの足場に指をかけた。さらにもう一本の腕が現われて、同じようにする。ジョエルは目を見開いたまま震えた。逃げ場などどこにもない。
やがて、おもむろに水面から黒い頭が浮かび上がった。これまでの静寂を破るように、全身から水がしたたり落ちる音がやけに大きい。水の中から現れた姿に、ジョエルはギョッとした。
それは女だった。それも一糸まとわぬ裸身の。長い黒髪は水に濡れ、貼りついたように顔を覆い隠している。肌はやけに白かった。豊満な乳房とふるいつきたくなるような腰つきに、ジョエルはごくりと咽喉を鳴らす。
まだ、エレナの裸を見たことはないが、未だ少女の体つきをしている彼女よりも、熟れた女の色香がジョエルの脳髄をしびれさせた。びしょ濡れになっている全身がなまめかしい。足場に座り込む女に、ジョエルは我知らず近づいた。
「どうされましたか?」
ジョエルは地下水から現れた女に声をかけた。このときの若き領主には、恐怖の念も不信感もない。ただ女の匂い立つような色香に惹き寄せられた。
女は肩を抱くようにして震えていた。それでも胸や恥部を隠そうともしない。顔はうつむいたままだ。
「寒い……」
女は声まで震えていた。ジョエルは恐る恐るといった感じで、女の肩に触れる。一瞬、指を離しそうになるくらい女の肌は冷たかった。どれくらいの間かは知らないが、この地下水の中を泳いでいたせいだろう。無理もない。
「だ、大丈夫ですか?」
裸の女を前にして、ジョエルはどうしていいのか分からなかった。いや、彼の本能は先ほどから女を抱きしめろと言っている。激しく、欲望のままに、と。しかし、ジョエルはかろうじて自制した。領主としての厳しい教育が、ジョエルから理性が吹き飛びそうになるのを押しとどめた。
だが、それもわずかの間のことだった。
「ああ、私を温めてくださいまし」
女の方からジョエルにしなだれかかってきた。あまりの冷たさに、ジョエルは飛び上がりそうになる。しかし、それにもましてジョエルを魅了するのは女の柔肌だ。芯から這い上ってくるような冷たさには歯の根が合わぬほどであったが、柔らかく、しかも濡れているせいなのか、ぬめるような抱き心地はこれまでに味わったことがないものであり、一生このままでいいと思わせるほど甘美なものであった。自分の服が濡れるのも関係ない。ジョエルの手が自然と腰よりも下へ伸びていく。女は嫌がる素振りも見せなかった。
「ああ、あなた、帰ってきてくれたのね」
女はうわごとのように呟いた。寒さのせいで錯乱でもしているのかとジョエルは思う。ジョエルはこの女のことなど知らなかった。だが、そうだとは言わない。ジョエルはいつまでも、この裸の女を抱いていたかった。
二人の抱擁は、いつまでも続くかに思われた。すでに体を温めるためではない。己の劣情を満たすためのものになっていた。互いの手が相手の身体をまさぐり合う。唇より漏れる吐息は次第に男女の熱いものへと変わっていた。
真っ白な裸身を抱きしめながら、ジョエルはどうしようもなく女に口づけをしたくなった。もはや、恋人のエレナのことなど頭にない。地下に閉じ込められたことも忘れた。
「顔を見せてくれないか」
自分の胸に顔を埋めたままの女にジョエルは言った。すると女も、
「私にもあなたのお顔をよく見せて」
暗闇の中であったが、これだけ近くにいれば関係なかった。女がジョエルを見上げる。若き領主の顔を見て、女は微笑んだ。
「ああ、あなたは昔のまま。変わっていないのね」
そのとき、ジョエルは顔を隠した女の黒髪をかきわけて、目を見開いた。その女の顔は――
「うわあああああああああっ!」
ジョエルは悲鳴をあげた。なぜならば、抱いていた女の顔の右半分が醜く焼けただれていたからである。
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