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吟遊詩人ウィル

闇の哀歌<エレジー>

7.妖  蛇

 まともに女の素顔を見てしまったジョエルは、まるで化け物に出くわしたかのように怯え、少しでも離れようとした。しかし、女はすがりついてくる。ゾッとするような凍りついた手で、ジョエルの服をつかむ。
「どうしたの? どこへ行くの?」
「く、来るなぁ! 近寄るなぁ!」
 ジョエルは追いすがる手を振り払うのに躍起になった。相手が女だという配慮もない。ただ逃れたかった。
「やめろ、化け物!」
 恐怖に駆られたジョエルは罵声を浴びせた。途端に、女の動きが止まる。ジョエルはその隙に女から離れ、四つん這いになりながら階段を上に登った。
 女はすぐに追っては来なかった。その場に両手をついて、力なくうなだれる。ううっ、という悲しげな嗚咽が漏れた。
 肩で息をしながら、ジョエルは下にいる女を見つめた。段々と冷静に物事を考えられるようになる。確かに、女の顔は火傷のせいで醜くなっていたが、考えてみれば、それは本人に非のあることではない。驚きのあまり、自分がひどい言葉を投げつけたことに、ジョエルは次第に後悔し始めた。
「あ、あの……その……」
 ジョエルが謝罪の言葉を探していると、女の嗚咽がぴたりと止まった。代わりに、
「化け物……化け物……」
 と、ジョエルに言われた言葉を繰り言のように呟く。やはり、彼女を傷つけてしまったかとジョエルは唇を噛んだ。
「いや……すまなかった。私が言いすぎた。許してくれ」
 ジョエルは自分を恥じながら女に謝った。だが、女には聞こえなかったのか、繰り言をつづける。
「化け物……化け物……」
 どうやって女を慰めていいものか、ジョエルは途方に暮れた。とにかく自分が悪いのだから、謝るしかない。
「すまない。悪いのは私だ。あなたにひどいことを言ってしまった。ボードワール家の当主として、どんな償いもさせてもらおう」
 もう一度、ジョエルが頭を下げると、女は繰り言をやめた。そして、ゆっくりと顔をあげる。濡れて張りついた黒髪の間から、右半分だけが焼けただれた顔が覗いた。こうして改めて見ると、かつての彼女はなかなかの美人であったろうと窺い知れる。少し異国風の顔立ち。どことなくエレナに似ているような気がした。
「ボードワール……?」
 何かに気づいたように女が呟いた。ジョエルはうなずく。
「そうだ。私はジョエル・ボードワール。このグローマ地方の新しい領主だ」
「新しい領主……? サミュエルではなくて……?」
「サミュエルは私の祖父だ。なぜ祖父の名を?」
 ボードワール家がこの土地から去ったのは五十年前。女はまだ二十代半ばくらいで、祖父のことを知っているとは思えない。ひょっとすると、かつてはボードワール家の居城があった関係で、この地では死んだ父セドリックよりも馴染みがあるのだろうか、とジョエルはぼんやりと考えた。
 すると、女の目がこれまでになく大きく見開かれた。
「あのひとにも……あのひとにも言われたわ! “化け物”って!」
「あのひと?」
 突然に言われ、女が誰のことを指しているのか、ジョエルには分からなかった。しかし、その顔は狂気を現出させる。そして、いきなり号泣した。
「ああっ! あのひとは私を捨てた! “化け物”と言って、私のことを殺そうとした! あんなにも愛していたのに! あんなにも愛されていたのに! 私の正体を知った途端、あのひとは私を憎んだ! おぞましいと、目に怒りの炎を燃やした! ああっ、あああああああっ、あまりにもひどい、あまりにもむごい仕打ち!」
「ま、待て! 何の話をしているんだ!?」
 狂ったように叫び始めた女に、ジョエルはうろたえた。正体とは、一体、何のことだろう。
「私は……私をこんな目に遭わせてくれたボードワール家が憎い!」
「な、何だって!?」
「憎い、憎い、憎い! 私の愛しいひと! 私のいとわしいひと!」
 急に女は身体を仰け反らせた。その刹那、女の下半身が変化していく。それは異様な光景だった。女の下半身は見る間に二本の脚ではなくなり、薄紅色にぬらぬらと輝く鱗を持った大蛇の胴体へと姿を変えたのだ。
「うわああああああああっ!」
 その姿を目撃したジョエルは、発狂しそうなくらい悲鳴をあげた。人間の上半身とヘビの下半身。その忌避すべき異形を目の当たりにしたのだから無理もないだろう。特にヘビの胴体となっている下半身は長大で、上半身の十倍はあろうかと思われた。
「ば、化け物だぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 ジョエルは叫んだ。その言葉が女の癇に障る。
「あのひともそう言った! あのひとも私をそんな目で見た! そして、私を殺そうとした!」
 鎌首をもたげるように、女の上半身が持ち上がった。階段の上にいるジョエルと同じ高さになる。美醜の面が狂気と悲しみに歪む。
 女がジョエルへと襲いかかろうとした瞬間、何か重いものが動くような音がし、階段を塞いでいた跳ね上げ戸が開いた。そこから一陣の風のように黒い影が滑りこむ。
「ディノン!」
 薄暗かった地下室で光が炸裂した。それは痛烈にも女を直撃する。女は悲鳴をあげ、ヘビの胴体をくねらせた。
 ジョエルは何事が起きたのかと、反射的に後ろを振り返った。
「無事か?」
 美しくも冷やかな声。それに救われるのは二度目だとジョエルは思った。
「ウィル!」
 危機一髪の場面で現われたのは、誰あろう、吟遊詩人のウィルだった。
 ウィルは物珍しげに周囲を眺めながら、自然な足取りで階段を降りてきた。
「こんなところに隠し扉があったとは。緊急時の脱出路だな」
「ああ、ウィル! 助かった!」
 誰も来ないとあきらめていただけに、ウィルの登場はジョエルにとって天の助けだった。その足にすがりつきたいくらいだが、さすがに領主としての威厳を考えて思いとどまる。
 ウィルはマジック・ミサイルを喰らってひるんだ半妖の女に一瞥を向けた。
「ラミアか」
 黒衣の吟遊詩人は瞬時に女の正体を看破した。
 ラミアは美しい女の上半身とヘビの下半身を持つモンスターだ。知能は人間並みに高く、魔法を操ることもできる。また、変身能力によって人間社会の中に溶け込んでいることも少なくなく、その類稀なる容姿と魅力で人間の男を籠絡し、精気を吸い取ることでも知られていた。
 ボードワール家の廃城に棲む怪物とは、このラミアのことだったのだ。
「何者だ!? ここはボードワール家の城ぞ!」
 ラミアは憤怒の形相で言い放った。それに対し、ウィルは涼やかに受け止める。
「オレの名はウィル。この男とはちょっとした縁で知り合った、ただの吟遊詩人だ」
 普通、ウィルを前にすれば、誰であろうとも、その魔性の美貌に魅入られるものだが、ラミアはすでに狂っているからなのか、この吟遊詩人をただの侵入者としてしか認めなかった。ボードワール家の人間であるジョエルに復讐を遂げようとするところを邪魔され、敵意を露わにする。
「下賤の輩が! あのひとと私の城から出て行け! ――ディノン!」
 ラミアもまた、白魔術<サモン・エレメンタル>の攻撃呪文を唱えた。数条のマジック・ミサイルがウィルへと放たれる。ウィルはマントで身体を覆った。
 自動追尾のマジック・ミサイルから逃れることはできないが、自らの魔力を高めることによって相手の魔法を中和・緩和することが可能だ。それをレジストという。
 ウィルはラミアからの全弾をレジストしてのけた。それは暗にウィルの魔力の高さを証明したことになる。何事もなかったかのように、マントを払った。
 吟遊詩人ウィル。――その者、偉大なる魔術師なり。
 そのとき、頭上で軋むような音がした。ジョエルはハッとする。振り仰げば、せっかく開いた跳ね上げ戸が再び閉じようとしているところだった。慌てて階段を登ってみたが間に合わない。またしても地下に閉じ込められてしまったのだ。
「う、ウィル、出口が!」
「今は目の前の化け物の方が先決だ」
「ぬっ! お前も化け物と申したな!?」
 どうやらラミアは、その言葉を嫌っているようだった。忌まわしい記憶でもあるのか。ラミアの美醜に苦悶が浮かぶ。
「よかろう! その化け物に抱かれるがよい!」
 ラミアはそう言うと、おもむろに唄い始めた。美しい歌声。ジョエルはそれに聴き覚えがある。
「この歌声は!? ――ウィル、聴いてはいけない! この歌は――」
 ジョエルはこの歌声に誘われて、この廃城の地下室に入り込んでしまったのだ。何か抗いがたい魔力がラミアの歌に秘められているのは疑いようもない。ジョエルは自分の耳を塞いだ。
 しかし、ウィルは平然として立っていた。
 ラミアはなおも唄い続けたが、ウィルの意識が奪われるようなことはなかった。ラミアに疑念と焦燥が表れる。
「なぜだ!? なぜ、私の歌声を聴いて平気でいられる?」
「お前の歌声は警戒すべきだった。この廃城の怪物が若い男を虜にしてしまうラミアらしいと分かったときからな。だから、オレも手を打っておいた」
 そう言ってウィルは、背中から《銀の竪琴》を取り出して見せた。よく見ると、《銀の竪琴》の一弦が手も触れていないのに震えている。魔法で鳴っているのだと、ラミアもジョエルも気づいたものかどうか。それが微かな音を立てていた。意識を集中させていないと聴き取れないが、それは確かに鳴っている。
「この一音がお前の歌声を阻害し、魅了の魔力を打ち消していたのだ。従って、その手は通用しない」
 ウィルは美しい顔をしながら無情にも告げた。ラミアは愕然とする。
「次はこちらの手を見てもらおうか」
 まるで、これから一曲奏でようとでもいうように、ウィルは優雅に右手をあげた。


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