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「ブライル!」
ウィルは呪文を唱えた。その瞬間、ラミアの顔に怯えが走る。
闇の中を照らすように、ウィルの右手から一条の炎の矢が迸った。ファイヤー・ボルト。攻撃魔法としては、マジック・ミサイルと同じくらい初歩的なものである。にもかかわらず、ラミアの驚愕ぶりは尋常ではなかった。
ラミアの身が宙に踊った。ヘビの長い胴体が身体を追うように跳ねる。ただ直線的に飛ぶだけのファイヤー・ボルトは寸でのところで躱され、ラミアはそのまま地下水に飛び込んだ。
ウィルは続けざまに二撃目を放ったが、さすがに火の魔法であるファイヤー・ボルトは水中にいる敵にまでは届かなかった。それに昏い水の中ではラミアがどこにいるかも判然としない。地下水はかなりの深さがあるのか、飛び込んだときの波紋以外は、ラミアの動きを教えてくれるようなさざ波ひとつ立たなかった。
静かな水面を見つめながら、ウィルはラミアの気配を探った。沈黙が訪れる。そのせいか飛び交う魔法をただ見ているしかできないジョエルの息遣いがやけに大きく聞こえた。
あまりにも静寂が続くので、ラミアはそのままどこかへ逃走したのかとジョエルが思い始めたとき――
バババッ!
突如として、地下水の水が噴き上がった。その不自然な噴水は一直線に黒衣の吟遊詩人へと襲いかかる。ウィルは素早く横に回避した。
どれほどの威力が、その噴き上がった水に秘められていたものか。単なる水であるはずのものが、あろうことかウィルの背後にあった石の壁を削り、その表面を穿った。
おそらくはラミアの仕業であろう。しかし、水中にいる限り、短くとも呪文の詠唱を必要とする魔法は使えぬはず。とすれば、今の技は何だったのか。間違いなく水であった証拠に、壁に穴を開けたあとは自然に流れ落ちていく。信じられぬ光景にジョエルは目を瞠った。
「オレから離れていろ」
驚くばかりのジョエルに、ウィルは警告した。そこへ《飛水槍》とでも呼ぶべきものの第二波、第三波が水中より次々と発射される。
階段という不利な足場にも関わらず、ウィルは華麗に繰り出される《飛水槍》を避けた。しかも一番上へと避難したジョエルに近づくまいとしながら。その軽やかなステップは見る者を魅了し、死と隣り合わせという現状を忘れさせた。
誰が彼をただの吟遊詩人と信じられるだろう。魔法に通じ、体さばきも訓練されたもののように見事。一体、この男は何者なのか。
水中にいるラミアも《飛水槍》をことごとく見切られ、ほぞを噛んでいたに違いない。普通の人間ならば、とっくに仕留められていてもおかしくない苛烈な攻めだ。やがて、打つ手がなくなったかのように攻撃が中断された。
攻守交代。今度はウィルの番だった。果たして、水中に身を潜める敵にいかな攻撃の手を見せるのか。
「あくまでも隠れるつもりならば、いぶり出すまで。――ベルクカザーン!」
ウィルが呪文を唱えると、空気がピリッとしたような気がした。次の刹那、手首を合わせるように突き出されたウィルの両手から、青白い電撃が発射される。白魔術<サモン・エレメンタル>の中でも上位の攻撃魔法、ライトニング・ボルトだ。
それはラミアの影すら見えぬ地下水へと吸い込まれた。底も見通すことが出来ない黒い水が、目にも鮮烈に青白く発光する。直線的なライトニング・ボルトが水の中をくぐった瞬間、そこから放射状に拡散されているのがよく見て取れた。
たまらず、ウィルたちのいる場所から少し離れた水面にラミアが姿を現した。水中にいる限り、電撃は至るところへ届く。当然、無事では済まされず、その形相は鬼女のごとく凄まじかった。
「おのれ、よくも!」
苛立たしげにラミアの右手が勢いよく水を跳ね上げた。すると、それは小さな波から徐々に大きな波へと変わり、真っ直ぐウィルへと到達しようとする。ウィルはその射線上から逃れた。
ラミアの《飛水槍》の威力も驚くべきものだったが、この水でできた波状の刃――名づけるならば《水走刃》――も相当なものだった。到達するや否や、石の階段を真っ二つに割り、壁にまで深々とその痕跡を残したのだ。人間が喰らえば、まず切断は免れないであろう。
だが、ラミアの恐るべき異形の技を見ても、ウィルは少しも動じなかった。彼には恐怖という感情などないのかもしれない。
吟遊詩人ウィル。
黒衣の魔人。
それでもラミアは攻撃の手を緩めなかった。《飛水槍》と《水走刃》を自在に操りながら、階段という不利な足場のウィルを攻め立てる。とうとう、一番下のかつては船着き場として利用されていたと思われるところまで追い詰めた。ここは一番広いスペースがあるが、地下水にもっとも近い場所だ。
「かかったわね!」
ラミアが狂喜した。
次の刹那、ウィルの足首に巻きついたものがあった。水中から伸びたラミアの尻尾だ。水面から姿を現わしている上半身に気を取られていたせいで、忍び寄ったヘビの下半身に気づかなかったのである。
初めて吟遊詩人の美貌に感情らしきものが仄見えた。それも一瞬。
ウィルは地下水へと引きずり込まれた。抵抗する間もない。黒いマントの旅装束が昏い水の中へ落ちた。
「ウィル!」
ジョエルは階段の一番上で叫んだ。
ラミアの哄笑が響いた。
「水の中ならば、この私の天下! とくと絞め殺してやるわ!」
そう言うとラミア自身も水の中へと姿を消した。階段に取り残されたジョエルには、ただ水面に残った波紋を見つめることしかできない。
水中ではラミアのヘビの胴体が美しき吟遊詩人の身体を絞めあげていた。ウィルはもがいていたが、押し潰されるような圧迫感と息つぎができないことで、まともな力が入らない。それに加え、肌を突き刺すような水の冷たさだ。急激に体力と気力が奪われていった。頭がガンガンと鳴る。口からは酸素が漏れた。
「ウィル! ウィル!」
ジョエルはひたすら命の恩人である吟遊詩人の名を呼んだ。もちろん、それに応えはない。水面に浮かび上がるのは、あぶくばかりだ。
ジョエルは自分にできることはないかと考えた。生憎と武器である細身の剣<レイピア>は持ってきていない。ただ外の空気を吸うために出ただけなのだ。それがこういうことになろうとは。ジョエルは他に使えそうなものはないかと辺りを見回してみたが、小石ひとつ落ちていなかった。ジョエルは絶望的になる。
このままだと、遠からずウィルは絞め殺されてしまうだろう。そうなれば次は自分の番だ。あの半人半蛇の化け物に殺されるのを想像すると身の毛もよだつ。何とかしなければ。何とか。
「………」
ジョエルは冷たそうな地下水を見つめながら勇気を振り絞ろうとした。自分が水の中に飛び込んでウィルを助けられないものだろうか、と。武器などない。泳ぎもうまくない。しかし、ウィルが死ねば、自分も同じ末路を辿ることになるだろう。水の中ではラミアが圧倒的に優位かもしれないが、一人よりは二人で立ち向かった方が勝機はあるように思えた。
それに何と言っても、ウィルはジョエルを救ってくれた命の恩人だ。二度、危ないところを助けてもらった。その借りを返すなら今しかない。
深呼吸ひとつして、ジョエルは意を決した。どうせ死ぬならば最後の最後まであがいてやろう。ボードワール家の当主として誇り高い死を選ぼう、と。
ざばん!
目をつむって、ジョエルは飛び込んだ。瞬間、氷よりも冷たい水温に心臓が止まりそうになる。ドクドクと脈打ち、大量の血液が全身に送り込まれているのを感じた。動いていないと、そのまま凍りついてしまいそうだ。ジョエルは必死に手足を動かして泳いだ。
上からも見ていた通り、水の中は視界が悪かった。ほとんど何も見えない。水が汚れているわけではなく、地下で光が届かないからだ。それでも、水面に浮かんでいたあぶくからおおよその見当をつけて進む。
次第に息苦しくなってきた。ウィルとラミアはどこなのか。昏い水の中ではまったく方向も分からない。自分の行為が無謀だったかと、ジョエルの頭に後悔がよぎった。
と、そのとき、ジョエルの足が何かを蹴った。慌てて戻ると、手にぬるりとした感触。ジョエルは慌てて手を引っ込めた。
ラミアだ。そして、ウィルもここにいるに違いない。目と鼻の先であるはずなのに、どちらもほとんど見えなかった。
ここでジョエルの息は限界だった。一旦、水の上に出る。水面から顔を出すと、ジョエルは喘ぐように呼吸した。
ウィルはまだ無事だろうか。波打つ水面に小さなあぶくが浮かび上がってくるのが見えた。これはウィルのものだろう。だとすれば、まだ生きている証になる。しかし、あぶくは今や切れ切れで頼りなく、いつ途絶えてしまうか分からなかった。一刻も早くウィルを助けなければ。
ジョエルは再び潜った。今度は真下へ。そこにウィルがいるはずだった。
慎重に潜っていくと、またあのヌルッとした感触があった。多分、ジョエルが触れたのはラミアのヘビの胴体部分だろう。想像するだけで気持ち悪かったが、ウィルはその胴体に絞めつけられているのだ。
ジョエルは手探りで、懸命にウィルからラミアを引きはがそうとした。ウィルの身体とラミアの胴体の隙間に指を潜り込ませようとする。しかし、ヘビの胴体はぬめり、ましてや水中で力を入れるのは困難だった。何度も試みは失敗し、ジョエルに焦燥感が募る。
「――っ!?」
突然、何者かがジョエルの足首をつかんだ。ジョエルは肺の中の酸素を全部吐き出しそうになるくらいギクリとする。ラミアだろう。下半身はウィルを絞めあげていても、上半身は自由に動かせるはずだ。
ジョエルは恐慌状態に陥った。殺されてしまう。このままウィル共々、水の底で朽ち果てることになるのだ。
ラミアの手から逃れようと足を蹴り上げてみたがムダだった。せめて剣があれば、とジョエルは悔やむ。そのとき、思い出した。
確かウィルは護身用に短剣<ショート・ソード>を持っていたはずだ。普段はマントの下になって隠れているが、ここ何日か行動を共にしてきたので知っている。ひょっとして、それを使えれば、この場を切り抜けられるのではないか。
ジョエルは一縷の望みを託して、ウィルの身体を探った。ラミアの胴体が邪魔していれば万事休すだ。その下から短剣<ショート・ソード>を抜くことなど不可能だろう。
だが、神はジョエルに味方した。ジョエルの手が硬いものに触れたのだ。これは間違いなく剣の柄。ウィルの短剣<ショート・ソード>だ。
ジョエルは無我夢中で短剣<ショート・ソード>を抜いた。その瞬間――
闇に閉ざされていたはずの水の中で光が爆発した!
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