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吟遊詩人ウィル

闇の哀歌<エレジー>

9.五十年目の解放

 まるで夜から、いきなり陽光の降り注ぐ昼間になったかのようだった。ジョエルはもちろんのこと、ウィルを拘束していたラミアも、あまりの眩しさに目をつむってひるむ。そのせいでウィルへの絞めつけが緩んだ。
 光を発しているのは、驚いたことにジョエルが抜いたウィルの短剣<ショート・ソード>の刀身だった。どういうカラクリかはジョエルにも分からないが、その強烈な光のおかげで活路が開けたのは確かだ。ジョエルは無我夢中で光を発する短剣<ショート・ソード>を振るった。
 その一撃は動きが阻害される水中だったこともあり、あまりにも浅いものであったが、ヘビのごときラミアの下半身に傷を負わせることができた。ラミアは焼きごてでも当てられたかのように身体を痙攣させ、反射的に逃れようとする。ようやくウィルのいましめが解かれた。
 ジョエルは必死になって沈みそうになるウィルの身体をつかみ、足を蹴り上げるようにして水面に浮かび上がると、階段がある岸へ向かって泳いだ。幸いにも短剣<ショート・ソード>の光が闇を照らし、方角が分かる。両手は使えないので、足だけを懸命に動かした。
 ウィルは気を失ったかのようにぐったりとしていた。無理もないだろう。ラミアに絞めつけられ、肺の中の酸素をほとんど吐き出してしまったはずだ。元々、白かった顔色は、今はまったく血の気がなく、死んでしまったかのように見える。
 それでもジョエルはウィルを見捨てようとはしなかった。これが逆の立場なら、ウィルも彼を助けようとするだろうからだ。
 しかし、ウィルを引っ張りながら、足だけで泳ぐのはとても骨が折れた。推進力が乏しく、岸辺は一向に近づかない。そのうちに追って来たラミアが水面に現れた。
「よくも……よくも!」
 ラミアの形相は悪鬼さながらだった。余計なことに、ジョエルは思わず振り返って、それを見てしまう。かろうじて悲鳴を飲み込んだ。
 次の刹那、ラミアの右手が水中から激しく跳ね上げられた。飛沫があがり、それが水面を走る。《水走刃》だ。半分だけ顔を出した三日月のような波が、真っ直ぐジョエルたちに襲いかかる。
「うわああああっ!」
 ウィルを連れたまま避けることなどできなかった。ジョエルはとっさに水の中に潜る。特に考えがあってのものではなく、本能的なものだった。
 水中で身構えていると、不思議なことに、いつまで経ってもジョエルに痛みは襲って来なかった。そのうち息が続かなくなり、再び浮かび上がる。ラミアを見ると、ジョエルたちが無事であることに少なからず動揺しているようだった。
 まさか《水走刃》の効力が水中では失われることをジョエルも知らなかっただろう。苦し紛れの行動にすぎなかったが、単なる偶然が幸運をもたらしたのだった。
 ラミアはさらなる激情に駆られて、ジョエルたちに向ってきた。ジョエルは青ざめる。一応、武器はまだ手にしているが、水の中では身体の自由が利かない。
 なんとか岸にまで辿り着くことができた。ジョエルは力を振り絞って、ウィルの身体を押しあげる。ウィルの半身を石の足場に乗せることができたと思われた瞬間、ジョエルは凄い勢いで水中に引っ張られた。
 ごぼごぼごぼごぼっ……
 まったく身構えていなかったせいで、ジョエルは水を飲み込み、苦しくなった。あっという間に意識を失いかける。もはやこれまで、とあきらめたとき、思いもかけず水上に身体が浮かび上がった。
「まったく、邪魔立てをしてくれおって……!」
 ジョエルは助かったわけではなかった。ラミアに両手で首を絞められながら、高く掲げられたのだ。女の細腕では不可能な力技だが、やはり相手は怪物。ジョエルは呼吸できず、苦鳴を絞り出すことしかできなかった。
 手にはまだウィルの短剣<ショート・ソード>を持ってはいたが、それを振るう力はさすがになかった。やがて四肢から力が抜け、短剣<ショート・ソード>も水の中に落としてしまう。ジョエルは自分が死ぬのだと思った。
「エレナ……」
 死の間際、愛しい女性の名前が自然と口をついた。その瞬間、ラミアの目が丸く見開かれる。一瞬だけ首を絞める力が緩んだ。
「ディロ!」
 マジック・ミサイルがラミアの顔面で炸裂した。その拍子に、ジョエルは地下水に落ちる。ラミアはマジック・ミサイルが飛んできた方向をキッと睨んだ。
 そこにいたのは息を吹き返したウィルだった。まだ横たわったままであったが、その怜悧な目は死んではいない。
「死に損ないめが!」
 ラミアは上半身を水に浸すと、得意の《水走刃》を瀕死の吟遊詩人に放った。ウィルはまだ立ち上がることもできない。代わりに左手を水につけた。
「クリント!」
 ウィルが呪文を唱えると、その前に水の壁が立ち塞がった。ウォーター・ウォールだ。ラミアの《水走刃》は、そのウォーター・ウォールに吸い込まれる。
 岩をも切断するはずの《水走刃》は、ウィルが作ったウォーター・ウォールによって阻まれた。ジョエルが水の中に潜って《水走刃》をかいくぐったように、水は水を切り裂くことができないのである。
「小癪なマネを!」
 ウォーター・ウォールを盾にされては、同じく《飛水槍》も無力であった。かくなる上は魔法で攻撃するしかない。
 しかし、魔法に関してはウィルに一日の長があった。
「ヴィム!」
 まだ身体を動かすことが難しいウィルは、飛行の呪文を唱え、空中に浮かび上がった。空中と言っても、地下水の水面と岩の天井との間は、そんなに高くない。ほとんど水面の上を滑空しているような状態であった。
 だが、このことによってウィルは足場を気にせずに済んだ。飛行の方向やスピードは術者が念じるだけでよく、体力を必要としない。
 ウィルはラミアに向って飛んだ。
「ディノン!」
 ラミアはマジック・ミサイルを連発した。マジック・ミサイルは目標を外さぬ。今のウィルの状態では、すべてをレジストすることは難しく、ダメージを受けることになるだろう。
 そんなことはウィルにも分かっていた。
「ディノン!」
 ラミアよりも一拍遅らせて、ウィルもまたマジック・ミサイルを撃った。そのすべてがラミアのマジック・ミサイルを相殺する。一発も魔法を喰らわず、ウィルはラミアに肉迫した。
「ヴィド・ブライム!」
 ウィルは間髪入れず、ファイヤー・ボールを発射した。炎を見た瞬間、ラミアの顔に怯えが走る。すぐさま逃げるように水中へ身を隠した。
 だが、それはウィルの牽制にすぎなかった。外れたファイヤー・ボールが水中で消滅したのも構わず、その近くで沈みかけていたジョエルの身体を拾い上げる。ウィルの狙いはジョエルの救出だったのだ。二人はラミアがいた場所から、一時離脱した。
「大丈夫か?」
 ウィルは腕に抱えたジョエルに声をかけたが答えはなかった。どうやら気絶しているらしい。顔色は悪く、呼吸は弱々しかった。
「必ず助けてやる」
 自らの命の恩人にウィルは誓った。
「逃げられるものか!」
 思いもかけず、ラミアはすぐ近くまで忍び寄っていた。水中を移動するラミアの速さは、予測をはるかに上回っている。後ろに回り込まれた。
「喰らいな!」
 矢のように水中から《飛水槍》が撃ち込まれた。ウィルは右へ左へと、その攻撃を躱す。天井から砕けた岩の破片が降り注いだ。
「ガ・ゴーラ!」
 その破片すらもウィルは利用した。地の下位精霊<ノーム>の力で降ってくる破片の方向を転じさせ、石つぶての雨をラミアへと見舞う。上半身を水上にさらしていたラミアにはたまらなかった。
「ギャアアアアアアアアッ!」
 石つぶてが白くなまめかしい肌を切り裂いた。ラミアの体に痛々しいほどに血が滲む。額にも大きな石がぶつかり、そこから出血している。血にまみれ、怨讐の眼差しを向けるラミアの形相は凄まじかった。充血した目からは赤い雫も流れている。血の涙だった。
「おのれ! このような仕打ち! 城に火を放ち、永劫ともいえる間、ここへ閉じ込めた非道! 私はボードワール家当主、サミュエル様の妻ヘレンなるぞ!」
 ラミア――ヘレンの五十年間に及ぶ呪詛は身の毛もよだつ凄まじさであった。これをジョエルが聞いていれば、彼は先祖の罪を大いに悔いたかも知れぬ。だが、それをただ一人聞いた黒衣の異邦人に、彼女へ向ける情け容赦など微塵もない。
 吟遊詩人ウィルは人にあらず。彼は魔人なり。
「お前は妖魔。五十年前はいざ知らず、これまでの間に何人もの人々を犠牲にしてきた。その罪の贖いは必要だ」
 静かではあるが、ウィルは冷酷に言い放った。
 ヘレンの目が狂気に血走る。
「私は――私は――!」
 《水走刃》が走った。これまでにない大きさ。驚くべきことに、その高さは天井にまで達していた。
 ザザザザザザザッ!
 巨大な《水走刃》は天井を切り裂きながらウィルとジョエルを真っ二つにしようとした。ウィルはそれを躱しざま、最後の呪文を詠唱する。
「ダル・ブラッヘイム!」
 ウィルは炎をまとった。それは火の塊から不死鳥の姿へと変化し、驚愕の表情に凍りつくヘレンへ襲いかかる。炎は五十年前の悲劇が彼女に刻み込んだトラウマだ。ヘレンはもう一度、《水走刃》を放ったが、火の鳥はそれをも打ち破る。ヘレンは動けなかった。
 水面すれすれを飛翔し、炎の化身はすべてを薙ぎ払った。耳を塞ぎたくなるような断末魔があがる。半人半蛇の肉体が炎に包まれていた。
 再び階段のある足場にジョエルを抱えながら着地したウィルは、火にくるまれたヘレンを振り返った。焼けた柱が土台から崩れるように、ヘレンが力なく水の中へ倒れる。そして、二度と浮かび上がってくることはなかった。
「この城が燃えたときに死んでいれば、この五十年間、憎しみと悲しみだけで生きることもなかっただろうに」
 地下水の真ん中で火が身悶えるようにして消えていくのを見つめながら、ウィルはそっと呟いた。


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