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ウィルたちが廃城の地下から脱出したとき、地上はすでに穏やかな夜明けを迎えていた。
朝になってから自分たちの主人の姿が見えないことに気づいた従者たちが、ちょうど廃城の方へと捜しに来ており、ウィルは彼らにぐったりとした領主を引き渡した。
「地下水に落ちて、身体がひどく冷え切っている。早く温めてやるといいだろう」
顔面蒼白で意識を失っている若き領主を見ながら孤高の吟遊詩人は言った。
ジョエルはすぐさま村に運ばれ、昨夜と同じベッドに寝かせられた。この村には治癒魔法を唱えられる聖職者<クレリック>も、医術に通じた薬師もおらず、従者たちはおろおろとするしかなかったが、昨日から世話になっている村人の助けも借りながら、どうにか懸命の看病に取りかかる。ある者は薬師を呼びに馬を駆けさせ、ある者はジョエルの頭に冷たい手ぬぐいを頻繁に交換し、ある者は村中からありったけの毛布をかき集めた。
こうして、その日はジョエルが昏睡状態に陥ったまま慌ただしく過ぎ去った。
そして、真夜中――
看護疲れからか、ジョエルの従者たちは、皆、居眠りをし始めていた。村の者たちも今は自分の家にそれぞれ帰っている。ジョエルの寝所は無防備になっていた。
そんな部屋へ訪れる人影がひとつ。
薄暗がりの中、部屋にジョエルしかいないことを確かめると、その人影は滑り込むようにして中へ入った。そして、物音を立てずにドアを閉める。カーテンを閉め忘れた窓からは月の光が差し込んでいた。
真夜中の訪問者はジョエルのベッドにそっと近づいた。その枕元に立つ。ジッと端正な顔を見つめ、それに触れようと手を伸ばしかけ――
「待っていたぞ」
「――っ!?」
突如として聞こえた声に、侵入者は身を強張らせた。背後の戸口には、いつの間にか黒衣の吟遊詩人が立っている。人影にとって、その登場は意外だったようだ。
「一刻ほど前に村から出て行ったはず……」
「落し物を回収してきた」
ウィルはマントを開くと、腰の短剣<ショート・ソード>を見せた。廃城の地下水でジョエルが落したものだ。
「それにオレがいては、ここに来づらいだろうと思ってな」
「それはご親切に」
人影は最初のショックから立ち直りつつあるようだった。もう動揺は見られない。
月明かりがジョエルの枕元に立つ人物の顔を照らし始めた。見たところ、十七、八くらいの少女だ。この村では見かけたことのない顔――いや、このマレノフ王国でも稀なエキゾチックな顔立ちだった。
「エレナだな?」
ウィルが問うと、少女――エレナはうなずいた。
「私を待っていたということは、すでに気づいていたということね?」
「そうだ」
「いつから?」
「昨夜、ジョエルが廃城へと誘われたとき」
ウィルの怜悧な眼が光った。
エレナは首をすくめた。
「あなたには姿を見せなかったはずだけれど」
「ラミアの魅惑の歌声は廃城の近くでなければ効果を及ぼさない。さすがに、この村までは遠すぎる。だから、彼を誘い出す必要があった。その役目を負ったのがお前だ。事実、ジョエルはお前の名前を呼びながら廃城へ向かった」
その声を聞いていたウィルの聴覚こそ驚くべきものだった。
「お言葉を返すようだけど、彼が見た私は、魔法が使えるラミアが変身<シェイプ・チェンジ>した姿だったかもしれないじゃない」
エレナはささやかな反論をしてみた。しかし、ウィルはかぶりを振る。
「それにはひとつの前提が必要だ。ラミアがお前のことを知っていること。マルスキーの仕立屋で働き、領主に見染められた娘のことを」
「………」
「それに、あのラミアが地下室の外へ出ることはなかったのではないか? いや、出られなかったと言った方が正しいか」
「………」
「ジョエルを追ったオレに大蛇が襲いかかってきたが、あれはお前の使い魔だったのだろう。あのとき、オレの足を封じる魔法を使った者も近くにいた。同じ頃、ジョエルを廃城へ招き入れた者とは別人と考えるのが当然だろう」
ウィルの推理に、エレナはもうシラを切ってもしょうがないという顔つきになった。
「恐れ入ったわ。いかにも、彼を廃城の近くまで誘い出したのは私」
そう言ってエレナは、眠っているジョエルの顔を覗き込んだ。普通の恋人がそうするように。
「こんなところまで追いかけて来てくれたのね」
「そうだ。彼はお前のことを心から愛している」
「分かっているわ。そんなことくらい。これでも人間の心を理解しているつもりよ」
「だったら、もうよせ」
「………」
「ラミアは――この地に残された怨讐は消え去ったのだ」
「……いいえ、まだよ。まだ、私がいるわ」
エレナは目をあげて、ウィルを睨んだ。美しき吟遊詩人は、それを静かに受け止める。
「外へ出よう」
まるで敵意を逸らすように、ウィルは唐突に促した。が、エレナは憤怒するどころか、それに黙って応じた。
家の外へ出ると、村は死んだように寝静まっていた。この真夜中の邂逅を見つめるのは夜空の月だけだ。長いふたつの影が地に落ちる。
「村中を眠らせたか」
ウィルがぽつりと言った。
「ええ。誰にも邪魔されたくなかったから」
エレナは微笑んだ。
「本気で彼を殺すつもりなのか」
「そうしなければ母は浮かばれないわ」
いつしかエレナの微笑みは哀しいものへと変じていた。醜く焼けただれた火傷こそなかったが、彼女はラミアのヘレンそっくりに美しい。
「人間と魔物の愛、か」
そのとき、ウィルは五十年前の出来事に思いを馳せたのであろうか。
エレナのまつ毛は小さく震えていた。
「母のヘレンはそれを信じていた。でも、人間は――夫となったサミュエル・ボードワールという男は、母が魔物だと知った途端、殺そうとしたのよ」
五十年前。このグローマの地で起きた惨劇。
「サミュエルは美しい母を娶って、それはそれは得意げにしていたそうよ。でも、ある日、その妻が魔物であるラミアだと知り、ひそかに始末しようとした。――いいえ、それどころか、家名を守るため、城にまで火をつけたのよ!」
ボードワール城の火災。その真相は魔物の妻を葬るための付け火であったのだ。
「火災で妻が死んだ。そういうことなら周囲からの同情も買える。だが、領主がラミアと結婚していたなどと知られれば、それこそ大貴族の家名は地に堕ちるだろうからな」
「でも、母は死ななかった。顔を半分焼かれ、父の裏切りに遭っても、地下室に逃げ込み、生き延びた……」
エレナは視線を地面に落としながら話した。まるで、あの地下室の暗闇のことを思うように。
「そのとき、すでに母は私を身ごもっていた。父サミュエルとの間にできた子。片や人間、片や魔物だというのにね。神様ってなんて残酷なのかしら」
「………」
「私はあの地下室で産み落とされた。母の子として。でも、そのときすでに母は狂っていたわ。父の裏切りにショックを受けて、あの地下室から決して出ようとしなかった。外へ出れば父に殺される。そんな強迫観念があったのかもしれない。五十年間ずっと。ただ父へ許しを乞うように歌を唄いながら」
「そして、ときどき憐れな犠牲者が訪れるようになったか」
「ええ。母は彼らを骨の髄から愛したわ。母にとって、あの男たちは父だったのでしょう。サミュエルが迎えに来てくれた。ずっと一緒にいてくれる。いつも母は言っていたわ。でも、彼らの精を吸い尽くし、ただの死屍になってしまうと、母は元に戻ってしまい、ボードワール家を呪い、狂ったように泣き喚いた。その繰り返し。私は五十年間、そんな母を見てきたのよ!」
「………」
「そういう母を見て育った私がボードワール家を恨みに思わないわけがないでしょ。やがて、私は地下室からの出口を見つけ、外へ出られるようになった。そんな私がしようとしたことは、ただひとつ。ボードワール家への復讐よ」
「それでジョエルに近づいたのだな」
「ええ、そうよ。ボードワール家はグローマからマルスキーに移り住んでいた。私の父サミュエルはすでに亡く、息子のセドリック――私にとっては腹違いの弟ね――が領主となり、そして世継ぎであるジョエルがいた。私、見た目はまだ少女みたいだけど、彼にとっては伯母に当たるのよね」
「ジョエルの父セドリックは、プロミスからの帰り、変死したと聞いた。お前の仕業か?」
ウィルは不幸な生い立ちの少女に尋ねた。エレナはそれを認める。
「私がジョエルと親しくなることに、セドリックがあまりにも反対していたものだから。セドリックは仕立屋の下賤な娘などよりも、家柄にふさわしい令嬢をと思っていたのでしょう。でも、私はジョエルを母の所へ連れて行きたかった。そして、母に復讐を遂げさせてあげたかったのよ。私がセドリックよりもジョエルを選んだのは、五十年前のサミュエルと年の頃が似ていたから。母にとっては、五十年前のあの夜から時間が止まってしまっている。サミュエルはすでに死んでしまったけど、容姿が似た彼なら復讐に最適だろうと考えたのよ」
エレナの言葉にウィルはうなずいた。
「実際、若き日のサミュエルとジョエルは瓜二つだったようだな。この村の者たちも、そう言っていた」
「そう。ジョエルが父に……」
エレナはジョエルが寝ている家の方を振り返った。
長い沈黙のあと、ウィルが口を開いた。
「お前の母が死んだ今、ボードワール家への復讐に意味があるのか?」
「………」
「何も知らないジョエルは、お前のことを本当に愛しているのだぞ」
「それがどうした!」
ウィルを遮るように、エレナは大きな声を出した。夜気が震える。唇は噛みしめられていた。
「私たち母子の五十年間。地下室の中で過ごしてきたこの年月を忘れろと言うの!? 私は……私は……!」
「どうしてもジョエルの命を奪うつもりなら、このオレを斃してから行け。オレはお前の母の仇でもある」
エレナが憎悪の瞳をウィルに向けた。それもまた母親のヘレンと重なる。運命の鎖は断ち切れないのか。
ウィルとエレナは無言で見つめ交わした。
月はこれから繰り広げられるであろう死闘を見まいとするかのように雲の中へと隠れた。
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