[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [あとがき]
教会の鐘が鳴っている。
その日、マルスキーの民たちは、誰もが新領主ジョエル・ボードワールの結婚を祝っていた。
マレノフ王国の首都プロミスより遠路はるばる花嫁を乗せてきた馬車には、町の入口で出迎えたジョエルも同乗し、挙式を挙げる町一番の教会へゆっくりと進みながら、大通りに集った領民たちの歓呼に応えていた。家々からは色とりどりの花びらが雪のように舞い落ち、二人の前途を祝福している。また、「ジョエル様、ばんざーい!」という掛け声と万雷の拍手も絶えることはなかった。
ジョエルは民衆たちに笑顔を振りまきながらも、左手は花嫁の右手にそっと添えられていた。ちらりと花嫁の横顔を盗み見る。妻になる女性はうつむき加減にはにかみつつ、幸せを噛みしめている様子だった。
グローマ地方より戻って半年。廃城での出来事のあと、体調を崩したジョエルは静養に努めた。身体の方は若さのおかげもあって回復にそれほどの時間はかからなかったが、深刻だったのは精神的なダメージである。廃城の地下で知らされたボードワール家にまつわる過去。まさか祖父サミュエルが半人半蛇の怪物ラミアと結婚し、その事実隠蔽のために自ら城に火をつけ、マルスキーに移り住んだとは驚愕の事実であった。領主になって、まだ間もないジョエルには、それは重過ぎる秘密であったと言わざるを得なかっただろう。おまけに愛するエレナの行方は杳として知れず、手掛かりを失ったまま捜索を打ち切らなくてはならないことが心痛を重くした。
マルスキーの館に帰ってからというもの、ジョエルは何事においても気力を失ってしまった。領主として、それではいけないと頭の中では分かっていながらも、日々は無為に過ぎ去っていき、この際、アドニス王に領地を返還すべきかとさえ思い悩んだ。煩悶はジョエルを苛ませ、夜、寝つくこともできなくなっていった。
そんなジョエルの元へ、一通の手紙が届いた。プロミスにいる友人ヨドル・マンサールからである。ヨドルとは幼き頃、首都へ連れられて行ったとき両祖父が知人同士であるという縁から知り合い、同い年ということもあって、その後もプロミスとマルスキーというそれぞれ違う土地で育ちながらも交流を続けてきた仲だ。ヨドルは父セドリックを亡くして悲しんでいるであろうジョエルを思いやり、気晴らしに首都へでも遊びに来ないかと誘ってくれたのであった。
ヨドルの招きに、ジョエルは応じた。別にそれで気が晴れると考えたわけではないが、ヨドルとはここ七年ほど会っておらず、懐かしさが込み上げてきたし、ついでに王宮へ赴き、国王陛下に新しいグローマ領主になった報告を、直接するのも悪くないと自分を納得させたからである。ジョエルにとっては久しぶりのプロミスであった。
プロミスでジョエルを出迎えたヨドルは、子供時代のひ弱さなど微塵もなく、立派な王宮付きの騎士になっていた。マンサール家は代々、国王陛下の近衛騎士団に名を連ねる血筋だ。いずれはヨドルも近衛騎士団の一員になるであろうと思われた。二人は互いの肩を抱き、七年ぶりの再会を喜んだ。
しかし、騎士となったヨドルより、もっとジョエルを驚かせることがあった。それはヨドルの妹、ソフィアである。
ジョエルやヨドルと五つ違う少女は、今や見違えたように美しく成長していた。部屋で二人が談笑しているところへソフィアがお茶を運んできたとき、ジョエルは思わず見とれてしまい、しばらくはヨドルの言葉も耳に入らなかったくらいだ。最後に会った七年前はジョエルも自分の妹のようにソフィアと接していたが、もうそんな間柄ではいられないと意識せざるを得なかった。
それからというもの、マンサール家に滞在するジョエルは、ソフィアと一緒に過ごすことが多くなり、互いに情を深めていった。ジョエルが美しい彼女に心を惹かれていったのは言うまでもなく、ソフィアもまた幼き頃の初恋を胸に秘めていたのだ。
ソフィアは聡明で、とても控え目な淑女であった。そういえば、小さい頃は外で遊ぶジョエルたちのそばで、よく本を読んでいた記憶がある。ジョエル自身も、彼女のために何度か読んでやったこともあった。
十日間の滞在はあっという間であった。マルスキーに帰る前日、ジョエルは思い切ってソフィアに結婚を申し込んだ。いくら幼少期からの顔見知りといっても、七年も疎遠になっていた間柄だ。それをわずか十日で一緒になろうというのは、我ながら性急すぎるような気もしないではなかったが、何年かしたらマンサール家の令嬢に縁談が持ち上がるのは間違いない。そのときに手遅れになるよりも、ジョエルは自分の気持ちを伝えることにしたのである。
突然の話に、求婚の場に居合わせたヨドルは大声で笑いだした。まさか自分が友の義兄になるということが、心底、おかしかったからだ。と同時に、昔からそのようになったらいいなと、漠然と考えていたので、この婚儀には一も二もなく賛同した。彼らの両親も、グローマ地方の領主に娘を嫁がせることに否はなく、むしろ名誉なことだったと言えるだろう。そして、ソフィアは――ジョエルへの初恋を実らせることができ、幸せで顔を赤らめながらプロポーズを受け入れた。
かくして、本日の婚礼になった。今日はマルスキーの領民たちに対して、花嫁であるソフィアのお披露目という意味合いもある。美しい花嫁の登場に、祝福と歓喜の輪は最高潮にまで達した。
手を振り続けていたジョエルは、集まった群衆の中に黒ずくめのマント姿を見つけた。花婿は、あっと声を挙げる。
「止めてくれ!」
ジョエルは御者に声をかけた。馬車が群衆の真ん中で止まる。警備の従者たちは、馬車に群衆が近づかないよう、必死になって守り、一時、辺りは騒然となった。
「そこの黒い帽子の者をここへ!」
歓声にかき消されないよう大きな声を張り上げて、ジョエルは従者の一人に命じた。程なくして、群衆を掻き分け、さっきのマント姿の男が領主の下へ案内される。ジョエルは破顔した。
「ウィル!」
「おめでとう。久しぶりだな」
その男こそジョエルの命の恩人、吟遊詩人のウィルだった。無表情なこの旅人には珍しく、口元は笑みに形作られている。
「まさか来てくれるとは! もう、どこか遠い国を旅しているのだろうと思っていた」
ウィルは周りを見回してから言った。
「風の便りに結婚すると聞いてな。お祝いの言葉を述べさせてもらおうと立ち寄った」
ウィルとはグローマでの一件以来であった。あのあと、衰弱したジョエルはマルスキーへ運ばれ、そのままウィルとはさよならの言葉もないままに別れたのである。ジョエルはあのときの礼を言いたかった。
「あなたには本当に助けられた。何の礼もできなくてすまない」
「助けられたのはお互い様だ。オレもお前に命を救われた。礼など必要ない」
一介の吟遊詩人が地方領主に対しているというのに、その言葉にはまったくもって敬語が含まれていなかった。耳をそばだてている従者たちの中には反感を持った者もいただろう。しかし、ジョエルはいかにもウィルらしいと自然に笑みを浮かべた。
「今日はゆっくりして行けるのでしょう? 久しぶりにあなたの歌を聴いてみたい」
「オレは吟遊詩人だ。もちろん、歌で祝福させてもらおう。こちらからお願いする」
「ああ、大歓迎だとも! ソフィアやヨドルにも聴かせてやってくれ!」
そのとき、隣にいるソフィアが吟遊詩人の顔をちらりと見た。ウィルは旅帽子<トラベラーズ・ハット>の鍔をつまみ、軽く会釈する。たとえ一瞬だけとはいえ、その魂をも魅了する魔性の美貌を目にし、ソフィアはぼうっと夢うつつに陥った。その横でジョエルが苦笑する。
「おいおい、私の花嫁を誘惑しないでくれよ、ウィル」
「フッ。では、教会で」
ウィルはジョエルたちに背を向けると、再び群衆の中に紛れて見えなくなった。
二人を乗せた馬車は再びゆるゆると進み始め、やがて教会前に到着した。ジョエルがまず降り、手を差し伸べてソフィアをエスコートする。先に教会で待っていたヨドルやその両親が微笑ましい表情で見守っていた。
ジョエルは教会に入る前に、もう一度、民衆たちの方へ振り返った。祝福の嵐。喜びに満ちた顔、顔、顔。そんなジョエルの目に一人の少女の姿が飛び込んできた。
「エレナ……?」
それは忽然と姿を消したはずのエレナだった。この地方ではあまり見られないエキゾチックな顔立ちと彼が贈った青いドレス姿。遠目ではあったが、エレナはジョエルに向って弱々しく微笑んでいるように見えた。
ジョエルは錯覚かと目を瞬かせた。改めて、本物のエレナかどうか確かめようとする。しかし、ほんのわずかの間、視線を切っただけで、もうそこにエレナはいなかった。
「………」
知らず知らずのうちに、ジョエルはエレナの姿を追い求めていた。だが、彼女はいない。いや、そもそもあれは本当にエレナだったのか。似たような女性に面影を重ねただけではなかったのか。ジョエルには今ひとつ確信が持てなかった。
そういえば、グローマ地方の廃城へ誘い出されたときもエレナの幻と出会った。ジョエルはあれをラミアの魔術が見せたものだと解釈しているが、当のエレナはその後も行方知れず。こうしてみると、自分は本当にエレナという少女と巡り会い、愛し合ったのか。ジョエルは疑念を抱くようになっていた。わずか半年前のことが、とても遠い昔のことのように思える。あれは夢だったのではないだろうか。美しく楽しかった、ひとときの夢――
立ち止ったままのジョエルに、隣のソフィアが訝かしむ様子を見せた。ジョエルは気を取り直す。そして、今、自分がこの世界で誰よりも愛している花嫁を安心させるように微笑んだ。
「行こう」
ジョエルは右腕を差し出した。その腕にソフィアが左腕を絡める。二人は並びながら教会の入口をくぐった。
教会の鐘はいつまでも鳴り続けた。民衆はこの結婚式を最後まで見届けようと、二人の姿が中に消えても教会の周囲から立ち去ろうとしない。ただ一人、教会に背を向けて歩く青いドレスの少女を除いて。
[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [あとがき]