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吟遊詩人ウィル

夢幻の狂死曲<ラプソディ>

2.薔薇の花園

「ちょっと尋ねるが」
「あぁん?」
 不意に声をかけられたとき、ピーターは作業から手を離せなかった。だから、聞き覚えのない声の主に対し、振り返ろうとする気持ちもなくはなかったのだが、なにせ目の前の余計な仕事に神経はすり減らされ、次第に苛立ちを募らせていたところである。結局、相手の顔を確認するのを面倒に思い、あからさまに不機嫌な返事をした。
 そもそも、どうしてこんなことを自分がしなくてはいけないのか。農夫であるピーターは本来の仕事――彼の仕事はニンジンやジャガイモといった作物を作ることである――とは違う、わずらわしい作業に嫌気が差していた。しかし、これをしておかないと、せっかく育てたニンジンを収穫できない。ピーターは年上の妻に尻を叩かれる格好で重い腰を上げたのだった。
 そんな不機嫌なピーターの返事に、声をかけた人物の方は、別段、気分を害した様子もなかった。下を向いたまま作業を続けるピーターに構わず質問を続ける。
「ここがウルの村か?」
「ああ、そうだよ。それが何か?」
 ピーターの声には知らず知らずのうちに険が含まれていた。相変わらず手にした鉈を振るうことに没頭している。
「ウルというのは、こんなにも薔薇が咲くところなのか?」
 感嘆には乏しい抑揚で、通りかかった男はまた尋ねた。ピーターはため息混じりにかぶりを振る。それでも手は止めない。
「こんなところに野生の薔薇が群生していると思うかね!? まったく、一体全体、どうしちまったってんだか! ハッ! ある日、突然、こんなことになっちまってね! そりゃあ、見た目はきれいで、芳しい香りもするっちゃあするが、こいつの細かいトゲにはうんざりさ! こうも畑を覆い隠すように咲かれちゃあ、作物の収穫も出来ねえ! 本当にえらい迷惑な花さ!」
 ピーターは縦横無尽に絡み合った薔薇をヤケクソ気味に鉈で切り払いながら、鬱屈した不満をぶちまけた。薔薇と半日格闘して、やっと畑の五分の一くらいが露出するようになったのだ。今日中には終わりそうもない作業に不満をぶちまけたくなるのも無理のない話だった。
 通りすがりの男は、ピーターの話に興味を持ったようだった。
「突然、薔薇の花がこんなにも、か。それは村全体に?」
「おお、そうよ! 見りゃ、分かるだろ! これでも村の者総出で除去しようと躍起になって、どうにか歩けるようにしたんだ。おかげでオレっちの畑に取りかかれるようになったのは、やっと今日になってからってわけで――痛っ! まーた、トゲが刺さっちまった! これもあんたとくっちゃべっているから――」
 ピーターは話しかける男に文句を言おうと、ようやく振り返ったが、そのときはすでにいなかった。首を伸ばすようにすると、薔薇の園と化した村の方へと歩いていく旅の者らしい黒ずくめの後ろ姿を認める。
「ちぇっ。まったくよぉ」
 血が出た指をしゃぶりながら、ピーターは茫然とその後ろ姿を見送った。



 ネフロン大陸西方のルッツ王国は、五大王国と並び称される国々の中でも、一番大きな国土面積を誇る列強である。だが、そのほとんどは険しい山岳地帯が占めており、人の行き来が容易ではないため、点在する町や村は自給自足を強いられることが多かった。
 ウルも、そういった面ではルッツ王国において典型的な村だったと言えよう。《竜の道》と呼ばれる山岳地帯の中腹に位置し、二百人ほどが身を寄せ合って生きている。これといった特色のない、普通の村だ。ほんの一週間くらい前までは。
 まるでおとぎの国にさまよい出たような印象だった。本来は何もない、ひなびた村であったはずなのに、今や真紅の薔薇によって村中が埋め尽くされ、その鮮烈な色彩に圧倒されるばかりだ。生命力に満ちた薔薇は家々の壁を這い上って屋根にまで達し、満々と花を咲かせている。伝説の楽園とされている《ヴァルハラ》でさえ、ここまで咲き乱れてはいないだろう。村人の手で確保された細い道筋だけが、かろうじて人々の生活の場であることを思い出させてくれた。
 その真紅の花園を、今、黒い旅帽子<トラベラーズ・ハット>に黒いマントという出で立ちの吟遊詩人ウィルが、黙然と歩んでいた。黒と赤の倒錯的なコントラスト、その魔性のごとき美貌とありあまる花々は、どんな名画の一枚にも及ぶまい。ウィルの姿を認めた者は、誰もが陶然となって立ち尽くした。
「少年」
 ウィルは一人の少年に声をかけた。十四、五歳くらいの少年だ。顔にニキビが目立ち、丸顔の中心に目立つ団子っ鼻が子供っぽさを残す。少年は見たこともない美形の旅人を前にして緊張し、同時に顔が赤らんだ。
「オレの名はウィル。吟遊詩人だ。この村のことを聞き、こうして訪ねてみた。素晴らしい薔薇だな。まるで歌に謳われる《ヴァルハラ》のようだ」
「こ、こここ……」
 少年は緊張にどもった。ウィルは軽く少年の肩に触れる。すると一瞬、少年の身体に電気が走ったようだった。
 だが、どういうわけか、それで極度の緊張は少年から消え去った。少し口が回るようになる。
「こ、この薔薇は、一週間くらい前に、突然、村を埋め尽くすように咲いたんです。それまで村には薔薇なんてなかったはずなのに」
 少年はまだ、ウィルの美貌にドキドキしてはいたが、どうにか喋ることができた。
「突然に、か」
 ウィルは何か考え込む。
「村の人たちはとても気味悪がっています。何か悪いことの前兆じゃないかって。それにあんなものも見えるようになって」
「あんなもの?」
 少年は答える代りに指を差した。その方角には、この山岳地帯にはあまりにも似つかわしくない白亜の宮殿が見える。それは《ヴァルハラ》にあるという伝説の《ヴァルハラ宮》を思い起こさせた。
「あれは?」
「薔薇と同じように、やはり一週間くらい前に、いきなり出現したものです。でも、村の人が数人であの宮殿を調べてみようとしたんですけど、近づこうとしても辿り着けなかったそうで。蜃気楼じゃないかって、誰かが言っていました」
「蜃気楼――幻の宮殿か」
 ウィルはしばらく不思議な光景に心を奪われている様子だった。彼の吟遊詩人としての血が好奇心を呼び覚ますのか、それとも――
「宮殿を調べに行ったという人に話を聞いてみたいのだが」
 ウィルがそう言うと、少年はパッと顔を輝かせた。
「それならミックさんに会うといいですよ。あの人はマンセル帰りで、とっても博学ですから。宮殿を調べようと言い出したのもミックさんなんです」
 マンセルはルッツ王国の王都だ。この国で学問を習得するとなれば、魔術師を高額な授業料を払って家庭教師につけるか、王都マンセルで勉強するしかない。貧しい村の出であれば、合格者であれば奨学金で学べる後者しか事実上の選択肢はなかった。
「案内してもらえるか?」
「はい」
 少年は喜んで答えた。ミックのことをうれしそうに話すところを見ると、その彼を尊敬しているのかもしれない。道すがら、少年はミックのことを喋った。
「ミックさんは僕と同じ歳の頃にマンセルへ行って、いろいろな勉強をしたんだそうです。十五年もですって。本当はそのまま魔術師の導師になることもできたんですけど、村をもっと豊かにするために、一年くらい前に戻ってきたんですよ。今ではミックさんの知識のおかげで、作物もよく採れるようになりましたし、治水も以前よりずっとよくなりました。村の誰もがミックさんには感謝しているんです」
 村の道はすべて切り開かれたわけではなく、そのためミックの住まいへは、多少、遠回りをしなくてはならなかった。どこまで行っても真っ赤な薔薇が咲き乱れている。その香気は芳しさよりも、ムッとした濃密さを感じさせた。
 ほとんどの村の者が辟易している中、ウィルをミックのところへ案内する少年は、どこか薔薇を見てうれしそうだった。そんな少年を見て、ウィルは話題を変える。
「薔薇が好きなのか?」
「えっ? いやぁ、僕はそんなにでもありませんけど、この花を好きな女の子がいて」
 少年はウィルのときとは違った、何とも言えぬはにかんだ反応を示した。
「それは、その娘にとってはうれしい出来事だな」
「ええ、そうなんですけど……」
 ところが、急に少年の表情が沈んだ。
「どうした?」
「実は彼女――あっ、ラナっていう名前の娘なんですけど――まだ、この薔薇の花を見ることができていないんです。この村一面の薔薇の花をラナが見たら、きっと喜ぶに違いないのに」
「そうか」
「この薔薇が消えてしまう前に、ラナには見せてあげたいって、僕、思っているんです。薔薇に囲まれた生活が夢なんだって、いつも彼女が話してくれていましたから」
 なぜ、ラナという少女が薔薇を見ることができないのか、その理由を尋ねる前に、二人はミックの住まいへと辿り着いた。他の家々と同じく、薔薇に包まれた小さな一軒家だ。少年は薔薇のトゲに気をつけながら、ドアをノックした。
 程なくして玄関が開けられた。
「おや、イミール。今日もラナの見舞いかい?」
 ドアから顔を覗かせたのは、いかにも学者然とした三十代くらいの男だった。猫っ毛の黒髪は左耳の上だけがくせ毛になって跳ねている。村では珍しい鼻眼鏡をしていた。
「こんにちは、ミックさん。今日はお客様をお連れしたんです」
「突然の訪問をお詫びする。オレは吟遊詩人のウィル。この村の不思議な現象について、お話を伺いたい」
 やはりミックもウィルの美貌に魅入られたが、すぐに我を取り戻したのはさすがだった。戸惑い気味ながらも、ウィルとイミール少年を中に招き入れる。
「村の外からお客様とは珍しい。さあ、どうぞ中へ。今、お茶を淹れましょう」
 美しき吟遊詩人は軽く会釈すると、村一番の賢者の家へ足を踏み入れた。


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