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「こんなところでいい?」
案内はしたものの、イミール少年は不安だった。ウィルは部屋に足を踏み入れ、ざっと中を見回してからうなずく。
「充分だ」
ウィルはそう言ったが、それでもイミールは半信半疑だった。
ラナの部屋から出たあと、イミールはこの吟遊詩人に尋ねられた。
「どこかに寝られる場所はないか」と。
できれば、誰にも邪魔されないところがいいという。このウルの村には宿屋などといった大層なものはない。客人は誰かの家に泊めてもらうのが通例だ。ましてや、他人を泊めるだけの余裕がある家は限られる。イミールは一旦、村長の家はどうだろうかと言ってみた。
「できれば今すぐに寝たい。なるべく誰にも知られずに」
まだ昼間なのに、そんなに眠いのか、とイミールは思った。しかし、子供でも正視していられないウィルの美貌からは、そんなことなど窺えない。悩みに悩んだ挙句、イミールは自分の家にウィルを連れて行った。
イミールの家は父と子、二人だけの小さな小屋だ。父のカスパンは仕事が終わる夕方まで帰って来ない。ウィルに使ってもらうなら、父の寝室しかないと思った。
だが、いざ案内すると、こんなにきれいなひとを小汚い自分の家に寝かせていいものかと不安になった。ウィルが実際に部屋の中を見たら、気分を害してしまうのではないかと。ところがそんな心配は杞憂だったようだ。
ウィルは帽子を脱ぎ、マントや装備品を外した。こうして見ると、一層、女の人のようにイミールには思える。それくらい華奢な体つきだった。
「それでは、悪いが夕方まで使わせてもらう」
「うん、いいよ」
「その間、申し訳ないが、ここには入らないで欲しい」
「え?」
「約束してくれ。オレが起きるまで、部屋には入らないと」
「わ、分かったよ」
変な約束だとは思ったが、イミールは了解した。
イミールが寝室から出て行ったあと、ウィルは寝る前に入念な準備をした。複雑な呪文の詠唱が長々と続く。それが終わってから、ウィルはベッドに身を横たえた。確かに、イミールが心配したように、ウィルにはそぐわない粗末なベッドだ。しかし、それを気にした様子もなく、静かに目を閉じる。
「村に兆候が出ている以上、彼女の夢と繋がりやすくなっているはずだが、さて」
ウィルは静かに呟くと、深い眠りへとついた。
気がつくと、ウィルは村の端に立っていた。
先程と同様、薔薇が行く手を遮り、その遠くに白亜の《ヴァルハラ宮》が見える。ウィルはゆっくりと周辺を確かめたが、それは寸分違わぬ景色だった。
不思議なことに、ベッドに横たわる前、脱いだはずの旅帽子<トラベラーズ・ハット>やマント、装備品といったものをすべて身につけていた。しかし、ウィルはそのことに疑問を持たなかったらしい。まるで当然のことだと受け止めているかのように。
ウィルは《ヴァルハラ宮》への道筋を定めると、そのまま歩を進めた。
すると、どうしたことだろうか――
行く手を阻んでいたはずの薔薇が、ウィルが一歩を踏みしめる度に、左右へ避けるようにし、道を開き始めた。
ウィルは何もしていない。ただ歩いているだけだ。
しかも、さっきはあれだけ悪戦苦闘しても一向に《ヴァルハラ宮》へ近づけなかったはずが、今回は確実にその距離を縮めている。いや、むしろ徒歩では有り得ないほどの速さで近づいていた。
この分なら、一刻もかからずに目的地へ着けるのではないだろうか。
そんなウィルの様子を一羽の小鳥が見ていた。現実には存在しないような、七色を身にまとわせた、きれいな小鳥である。それは不意に枝から飛び立つと、《ヴァルハラ宮》へと去って行った。
ウルの村から、さらに奥まった山岳に忽然と出現した《ヴァルハラ宮》。その庭園にひとりの少女がいた。
ラナである。
彼女は三つ首の魔犬ケルベロスを従わせ、それを枕代わりにしながら寝そべり、うららかな日差しを浴びて、花園で首飾りを作っていた。
その表情には山賊たちを屠ったときの冷酷さも、叔父のミックの家で昏々と眠り続ける抜け殻のような感じもなかった。
ラナはとても楽しそうだった。生き生きとしていた。
ここは彼女が幼い頃から夢見てきた世界そのものだった。
生まれてからずっと山岳地帯の寒村に押し込められるようにして生活してきたラナにとって、想像力を働かせ、理想とする世界を夢想することこそが唯一の楽しみだった。
薔薇などが咲き乱れる花園に壮大な白亜の宮殿。いつも春のように暖かく、冷たい雨など降りはしない。何もしなくても、毎回、豪華な食事が用意され、彼女がすることを何ら咎めたりする者のいない楽園――それがラナの《ヴァルハラ宮》だ。
ラナは自分がいつからここにいるのか分からなくなっていた。夢なのか、現実なのかすら分からない。しかし、それでよかった。ここがどこなのかなど関係ない。今、ここにある楽園の享楽を存分に味わうのみだった。
「ラナ」
首飾りが出来あがると、彼女の名を呼ぶ声がした。その甘い囁き声に、ラナは笑顔で振り返る。そこには一人の青年がいた。
「やあ、ここにいたね、ラナ」
「デューク」
青年の微笑を見た途端、ラナは胸が高鳴った。実にハンサムな青年だ。それでいて体格は逞しく、はだけたシャツからは厚い胸板が覗いている。ラナが理想としている男性像そのものだ。
デュークはラナにとって、王子様のようなものだった。ウルの村でいつもくっついて来たイミールみたいな田舎の男の子なんかとは違う、大人の色気を持った男性だ。彼はラナをお姫様のように扱ってくれる。
「これ、あなたに作ってみたの」
ラナは作ったばかりの首飾りを差し出した。デュークの口許から白い歯がこぼれる。
「嬉しいよ。君がいつも僕のことを想ってくれて」
ラナはデュークに首飾りをかけてやった。それを見たデュークは優しい微笑みを浮かべる。そして、顔を近づけてきた。
「あっ」
逃げる間もなく、ラナはデュークと唇を重ねた。それは愛情のこもった長いキスだ。デュークの求めに、ラナもおずおずと応じていく。だが、次第に口づけは激しいものへとなっていき、身体がとろけそうな感覚に痺れた。
ラナが《ヴァルハラ宮》に来て以来、デュークとは恋人同士のような関係だ。こうして普段からキスをし合い、抱擁を交わし、ベッドまで共にしている――とは言っても、まだ一線は越えていない。ラナがそこまで決断できていないからだ。しかし、かなり深い関係を持っている。他人には話せないような淫らな行為も。
甘いキスは身じろぎしたケルベロスによって中断された。デュークが離れると、ラナは恥ずかしそうにはにかむ。
そこへ一羽の小鳥が飛んできた。七色の羽を持つ、きれいな小鳥だ。小鳥はラナたちの頭上で旋回すると、ケルベロスの真ん中の頭の上に降りた。
「誰カ来ル! 誰カ来ル!」
小鳥が言葉を喋った。しかし、ラナもデュークもそのことに驚かない。むしろ、小鳥が告げた警告の方に顔を見合わせる。
「誰かが……来る……?」
ラナは小鳥の言っている意味が分からなかった。ここにはラナとデュークしかいないのだ。他の者がやって来られるわけがない。
この非常事態に、いつも微笑みを絶やさないデュークでさえ表情を硬くした。
「どんなヤツだ?」
デュークが小鳥に尋ねた。すると小鳥は目から光を放つ。そして、空中に映像を映し出した。
それは小鳥が目撃した侵入者の姿だった。枝の上からだったので、鍔広の旅帽子<トラベラーズ・ハット>が邪魔になり、その顔は見えない。とにかく全身黒ずくめの旅人のようだった。
二人はこの旅人が吟遊詩人のウィルだとは知らない。
「誰なの?」
ラナは怯えた。ここへ来て、初めて見せた感情だ。これまで、まったく無縁のものだったのに。そんなものは、あの貧しい村へ置いて来たはずであった。
「ねえ、デューク。ここは私たちだけの世界ではなかったの!? あなた、いつもそう私に話してくれてたじゃない!」
恐怖を覚えたラナは、ついデュークに強く言ってしまった。平穏な楽園が一人の闖入者によって乱される。それが身の破滅を招くような錯覚を引き起こしていた。
「大丈夫だ」
デュークはすぐに落ち着きを取り戻した。彼にとってもイレギュラーな事態であるはずだが、いつものハンサムな微笑みを浮かべてラナを安心させようとする。
「君の言う通り、ここは僕たちの世界だ。誰が来ようとも、この楽園に仇為す者は排除する。そうだろう?」
まるでデュークの言葉には催眠効果でもあるかのように、ラナは恐慌状態を脱し、ゆっくりとうなずいた。
「ええ、そうよね。ここは私たちの《ヴァルハラ》ですもの」
敵対者に牙を剥くように、三つ首の魔犬ケルベロスが低い唸り声をあげた。
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