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無数の薔薇に囲まれた道を抜け、また殺伐とした山岳地帯へ出ると、ヴァルハラ宮は目前だった。
ウィルは慌てることなく、一歩一歩、近づいていく。すると、ようやくその威容をつぶさに観察できるようになった。
遠くからは魔法王国期の宮殿のように見えたが、実際はもっと造りの単純なものだった。確かに大きく、白亜の壁面は美しいのだが、デザインは稚拙なくらい簡素で、飾り気に乏しいとも言える。例えるなら、子供が絵に描いたような宮殿だろうか。
ただ、その手前に広がる花園は見事だった。真紅の薔薇が多いが、色とりどりの花々も咲き乱れている。どれひとつとして枯れたり、しぼんだりしていない。生命力に満ち溢れて、その芳香も濃密だった。
ウィルは花園から、さらにヴァルハラ宮へと向かおうとした。そのとき、
「誰?」
後ろで少女の声がした。ここへ来るまで誰もいなかったはずなのに。ウィルが見逃すわけがない。では、忽然と現れたというのか。
黒衣の吟遊詩人は驚いた素振りもなく振り返った。
そこにいたのはミックの家で眠っていた少女、ラナであった。正体不明の人物を怪しんでいるようだ。
だが、ウィルが顔を向けると、その反応は変わった。まるで雷にでも打たれたかのように動きを止める。
無理もない。この世で一番美しい男を見てしまったのだから。
ラナもまた十五歳とはいえ女だった。想像を絶する美形を前にして、魂を抜かれたように恍惚となる。自分でも意識しないうちにスカートを握りしめ、息をつめた。
「オレの顔を憶えていないか?」
ウィルはラナに尋ねた。
「えっ?」
そう問われたラナであったが、心当たりはなかった。こんなきれいな顔を見れば、忘れるはずがない。
「オレは君と会っている。村を訪れる前に」
「村……」
ラナは自分が何か大切なことを忘れているような気がした。それこそ、このヴァルハラへ来てから、長い間、ずっと――
ウィルはさらに近づこうとした。
そこへ――
黒い大きな塊がウィルに襲いかかった。避ける間もない。ウィルはそのまま押し潰された。
「ロウガ!」
ラナが驚きの声をあげる。ウィルに襲いかかったのは、三つ首の魔犬ケルベロスであった。ロウガとはラナがつけたケルベロスの名だ。
「ラナ」
優しい囁きとともに、ラナの腰に腕が回された。デュークだ。彼もまた、いつ現れたのか。デュークはラナを安心させようと微笑んでいる。しかし、その目までは笑っていなかった。
束の間、ヴァルハラの侵入者に心を奪われたラナは、デュークに後ろめたい想いを抱き、目を逸らした。ここは二人だけの楽園。そのはずだった。
無粋な侵入者はケルベロスのロウガによって屠られるだろう。そうすれば元通りになる。何もかもが。
だが、そうはならなかった。
突然、ケルベロスの巨体が跳ね上がった。自ら跳んだのではない。弾き飛ばされたのである。もちろん、それをやってのけたのは、その下敷きになっていた者――のはずだ。
ケルベロスはうまく着地した。そして、抵抗した獲物に向って低く唸る。
そんなものなど関係なしに、黒衣の吟遊詩人はすっくと立ちあがった。ケルベロスに襲われたというのに、どこも噛みつかれてはいない。無傷だ。
その姿を見たデュークの目がスッと細められた。
「何者ですか?」
「オレの名はウィル。吟遊詩人だ」
頭の旅帽子<トラベラーズ・ハット>を直しながら、ウィルは名乗った。
男の割に線の細い身体つきだが、そのどこにケルベロスを弾き飛ばすような力を持っているというのか。デュークはそれを推し量るような視線を向けたが、皆目、見当もつかぬ。そもそも、どうしてここにラナと自分以外の者がいるのかが謎だ。
「どうやってここへ?」
「分からないか?」
ウィルは逆に問いかけた。
デュークは黙り込んだ。ウィルへ敵意のこもった目を向けて。ラナは両者の対立にハラハラしながら、成り行きを見守るしかなかった。
待っても返事がないので、ウィルは明かした。
「彼女と同じ夢を見ている」
と。
ラナには何を言っているのか、さっぱり意味が分からなかった。デュークには分かっただろうか。彼はラナを手放さぬようにしながら、硬い表情を作っている。夢。それは一体……。
「ここは僕たちの世界です。関係のない方には立ち入ってもらいたくないのですが」
「そうはいかない。彼女を連れ帰る」
ウィルはそう宣言すると、改めてラナを見つめた。その黒い瞳に射抜かれて、ラナは再びドキドキしてしまう。
だが、そうはさせじと、デュークの腕に力が加わった。私を巡って二人の美青年が相対している、という構図にラナは陶然となりかける。
デュークは理想の男性だ。ラナがずっと想像してきた男性像がそのまま具現化したような青年である。ラナに対し、変わらぬ愛を注いでくれるし、彼さえいれば他に何もいらない。
一方、男としての魅力は正反対とも言えるが、ウィルのすべてを超越した美しさの前には、畏怖にも似た崇拝の念を覚える。彼の言うことには何も逆らえぬのではないか。そんな神との対面にも等しい衝撃が強烈だった。
つまり、理想という名の完璧な男と想像も及ばなかった未知なる存在。それが今、ラナの目の前で静かな火花を散らしている。
「彼女はずっとここにいる。この僕と一緒に」
デュークが断言した。ラナに否はない。なぜならば、それがラナの望みでもあるからだ。その気持ちに偽りはない。
「お前は?」
ウィルの視線がラナに喋らせようとしないデュークの方に戻った。
「僕はデューク。彼女の伴侶であり、あるいは下僕であり、そして守護者でもある」
「本当のところはどうだかな」
「………」
何もかも見透かしているようなウィルの態度に、デュークは睨むことで返した。同時に一筋縄ではいかない相手だということも認識する。
「彼女は帰るべきだ」
「なぜですか?」
「帰りを待っている人がいる」
「フッ、そんなのは本人が帰りたくないのなら意味がないでしょうに。――どうだい、ラナ?」
「私がいたいのはここ」
「ほら、ご覧なさい」
「いや、帰るべきだ。夢の中に逃げていても何もならない」
「逃げる……? 私が……?」
何を言われているのか、ラナには分からなかった。
「君の両親が殺されたことには同情する。だが、その悲しみを乗り越え、前に進むべきだ」
「私の……両親……」
その言葉を聞いた途端、ラナは頭がズキンと痛んだような気がした。本当の痛みではない。幻痛とでも呼べばいいだろうか。何か引っかかりを覚える。
するとデュークが苦笑した。
「何を言うんですか。ラナの両親はここにいますよ」
デュークが指し示す場所に、いつの間にかウィルの知らない男女が立っていた。
「お父さん……お母さん……」
そう呟いたラナの目からは、なぜか涙がこぼれた。懐かしさ。そんな感情が溢れてくる。ラナの父と母であるデイモンとロレーンは、娘にはかなげな笑みを向けていた。
「この世界では何でも叶う。彼女が望むことは何でも。帰ったらつらい現実が待っているだけです。彼女はここで暮らすのが一番なんですよ。これで分かったでしょう?」
デュークはあからさまな態度は取らなかったが、勝ち誇ったように言った。しかし、それを容易く受け入れるウィルではない。
「すべては幻だ。しかも作為的な代物。彼女はお前に利用されているだけだ。――さあ、目を覚ますんだ」
その刹那、ラナの目が大きく見開かれた。ウィルの言葉が心の奥底にまで届いたかのように。同時に世界が均衡を失いかけ、グニャリと歪みかける。デュークは二枚目にふさわしくない舌打ちした。
「やれ、ロウガ!」
デュークの命により、再びケルベロスのロウガが飛びかかった。
先程は不意討ちを喰らったが、今度はウィルも予測していた。素早くケルベロスの攻撃から逃れる。人間よりも遥かに大きな巨体でありながら、ケルベロスはそれに似合わぬ俊敏さを持っていた。だが、もっと驚くべきことに、ウィルのスピードはさらにそれを上回っている。
花々を散らしながら、闘いの舞踏は続いた。ケルベロスの持つ三つの頭がウィルの喉笛や腕、足を狙うが、それらをすべて軽やかに躱していく。逃げるのに必死というわけではないが、ウィルは反撃を試みない。ケルベロスはこの美しき吟遊詩人に翻弄されていた。
「やはり只者ではないようですね」
ウィルの動きを見て、デュークからも余裕が失われていた。そっとラナの元を離れ、彼女から見えないところで指を鳴らす。
パチン!
次の刹那、花園に亀裂が走り、地割れが起きた。そこはちょうどウィルの着地点。黒衣の吟遊詩人は為す術なく、深いクレバスに呑み込まれてしまう。
一瞬、それを見たラナは息を呑んだ。
ウィルがどうなったのか、ラナは急いで下を覗き込もうと近づきかけたが、それを危険と見なしたケルベロスのロウガが遮った。その隙にクレバスは音もなく閉じられてしまう。花園は瞬く間に元通りになり、何の痕跡も残されていなかった。
「邪魔者は排除されたよ」
デュークはそう囁くと、安心させるようにラナの肩を抱いた。
本当なら、これで何も問題はないはずであった。しかし、ラナの不安は自分でもどうしようもないくらい膨れあがっていく。なぜ、こんな想いを抱いてしまうのか。自分でもよく分からない。
ただ、その不安をデュークに気づかれないようにしようと、ラナは懸命に隠し通そうとしていた。
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