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冷たいものが頬に当たった。
雨だ。
目を開けると、ウィルは一人、降りしきる雨の中にいた。しかもヴァルハラの花園ではない。渓谷に沿った山道だ。
ウィルには見覚えがあった。そう、ここはウルの村へ辿り着く前に通った場所である。ウィルはここでドグラとキールという山賊に襲われ、忽然と現れたラナと三つ首の魔犬ケルベロスに出会ったのだった。
夢から現実世界へと帰って来たのか。
ケルベロスとの戦いの最中、突如として出現したクレバスの中に落ちたウィル。その行き着いた先が、ヴァルハラ宮よりもウルの村よりも離れた山道だとは。
ウィルは空を見上げた。
鉛色の厚い雲が頭上を覆っていた。そこから土砂降りの雨が叩きつける。渓谷を覗くと、濁流が両側の土を削りながら流れているのが見えた。
しばらくウィルは立ち尽くしたまま、何もしなかった。ヴァルハラ宮へ戻ろうともせず、まるで今の状況を見極めようとするかのように。
すると――
ウルの村の反対側から小さな荷馬車がやってきた。そのシルエットは雨に煙りながら、ゆっくりと近づいてくる。ウィルは道の脇に避けた。
雨で視界が悪いとはいえ、荷馬車がウィルに気づかぬはずがなかった。ところが御者の男は、そこにウィルが立っていることなど目にも入らないのか、冷たい雨に打たれるのをただひたすら耐えながら、荷馬車を引くロバを鼓舞し、先を急がせている。ウィルが黙って見送った幌付きの荷台には、多くの穀物や果物といった品の他に、一人の女性の姿もあった。
そこへ、斜面から滑り降りるようにして、一人の男が荷馬車の前に立ちはだかった。ウィルにとっては二度目の光景。それは山賊のドグラだった。
だが、ドグラは相棒のキールと共に、ケルベロスによって殺されたのではなかったか。
目の前に飛び出したドグラに驚き、御者は手綱を引き絞った。どうやら、こちらはウィルと違って見えたらしい。荷馬車は止まった。
それを幸いに、ドグラは素早く御者台に飛び乗った。すでに凶器である短剣<ショート・ソード>は抜かれている。御者は恐怖に顔を引きつらせた。
「降りろ!」
ドグラは恫喝した。御者は手を上げ、抵抗しないことを示す。だが、すぐに降りようとしないのを見て、ドグラはまた咆えた。
「さっさとしやがれ!」
半ば蹴落とされるような格好で、御者はぬかるんだ山道に尻餅をついた。その視線が荷台の方へ向けられる。すると、女の悲鳴もあがった。
いつの間にか、ドグラの相棒であるキールも現れ、荷台から女を引っ張り出したところだった。荒くれ者の行為に、女は震えあがる。
ふと、それらを目撃しながら助けようともしないウィルは、女の顔にとある少女の面影を認めていた。女はラナに似ている。年齢は十歳以上も上に見えるがそっくりだ。
ひょっとすると、この女はラナの死んだ母親ロレーンなのか。
とすれば、男の方はラナの父、デイモンということになる。つまり、村の賢者であるミックの兄ということにもなるが、こちらは兄弟の割にあまり似ていない。
しかし、どちらも死んだという話だったはずだ。だとしたら、ウィルの目の前で繰り広げられているこの光景は――
争い事と無縁な男女は、凶悪な山賊に襲撃されて、恐怖におののくしかなかった。そんな無抵抗な人間を見て、二人の山賊はその嗜虐性を刺激させられる。
「この荷馬車はオレたちがいただくぜ! 文句はねえよな!?」
ドグラが脅しをかけると、デイモンはうなずいた。体格的には荷馬車の所有者であるデイモンの方が立派にさえ映るが、何しろ相手は武器を所持している。こんな場面に遭遇するのも生まれて初めての経験だったに違いない。
「あ、ああ、好きにしてくれ……だ、だから、私たちの命は……」
「助けてくれって、か!?」
ドグラが不気味な笑みを浮かべた。そして、短剣<ショート・ソード>を振り上げる。デイモンは必死に命乞いした。
「た、頼む! どうか殺さないで――」
「やだね!」
無情にもドグラの短剣<ショート・ソード>は振り下ろされた。雨に混じって、赤い血が飛び散る。だが、デイモンが切っ先を避けようとしたため、わずかに急所は外れた。
「てめえ、動きやがって! 手元が狂ったじゃねえか!」
ドグラは自分の腕を棚に上げて激した。デイモンは斬られた背を向けて呻く。
「あなたっ!」
ロレーンは負傷した夫に駆け寄ろうとした。それとドグラの手が動いたのは同時。デイモンの前に出たロレーンがかばうような格好で斬られた。
「ああーっ!」
「ロレーンッ!」
今度の一太刀はロレーンを易々と死に至らしめた。自分でも思っていなかった結果に、短剣<ショート・ソード>を振るったドグラ自身が驚く。ロレーンの行動を許したキールも表情を凍りつかせていた。
妻に身を守られ、先立たれてしまったデイモンは、その身体に覆いかぶさるようにして泣いた。頬を伝うのは、雨なのか涙なのか分からない。
そんなデイモンにトドメを刺すのは簡単だった。ウィルはそれを最後まで見届ける。
雨の中、二人の遺体が折り重なるようにして倒れていた。それを見下ろしながら、
「どうすんだよ?」
とキールが言った。もちろん、ドグラに対してだ。
しばらくドグラは言葉もなかった。再びキールが同じことを口にする。
「ど、どうするもこうするもねえだろ。やっちまったもんは仕方ねえ」
「だがよ、依頼は男一人だったはずだぜ。女は逃がせって、念を押されていたじゃねえか」
キールが漏らした言葉に、ウィルは注意を向けた。無論、彼らもウィルのことは見えていないらしい。
「だから、仕方ねえって言ってんだろうが!」
自分のミスを責められ、ドグラは苛立った。これ以上、何かを言われたら、仲間であるキールにさえ飛びかかりかねない、そんな険悪さだ。
相棒として組んできたドグラのことを分かっているキールは諦めるしかなかった。
「チッ、これで残りの報酬はパーになっちまったが、この馬車のもんを売っ払って、少しは足しにしねえとな」
「そういうこった。さっさと行こうぜ」
ドグラとキールは奪った荷馬車を来た方向へ引き返させ、その場を去って行った。残ったのはデイモンとロレーンの遺体だけ。ウィルはその二人を見下ろした。
キールによれば、この襲撃は単なる偶然ではなく、そう装った計画的なものだったらしい。そして、この犯行を指示した者が他にいることになる――。
「こんなのをオレに見せて、どういうつもりだ」
ウィルは誰にともなく呟いた。
どこまで忠実に再現されたものかは不明だが、ウィルが見せられたのは、デイモンとロレーン夫妻が殺された場面だろう。なぜこんなことをしたのか、その意図はつかめない。しかし、ひとつだけハッキリしたことがある。
ここは、まだ現実世界ではないということだ。
何者かによって見せられた過去の光景。ヴァルハラ宮から排除はされたが、夢の中からは締め出されていないことになる。
まるで夢の中で急に場面が切り替わったような感じだ。だが、何よりも大事なことは、これが夢だと知覚すること。それゆえ、ウィルは何の行動も起こさなかったのだ。
いつの間にか雨があがり、急速に雲が引きあげていった。青空が覗く。あれだけずぶ濡れになったはずなのに、ウィルの黒いマントは少しも濡れていなかった。
改めて、ウィルはヴァルハラへ向かいかけた。
そのとき――
背を向けたウィルの後ろで、死んだはずのデイモンとロレーンが音もなく起き上がった。刀傷と血痕はそのまま。しかし、その表情には平凡な農村夫婦にそぐわない邪悪さが浮かんでいた。
ここは夢。本物らしく見えるすべてのものが虚像だ。死したラナの両親も、その命を奪った山賊たちも。
二人は背後からウィルに襲いかかった。
だが、そんな不意討ちにやられるような、ただの吟遊詩人ではなかった。――もっとも、本人は否定するかもしれない。オレはただの吟遊詩人に過ぎない、と。
一瞬。
光の一閃がすべてを片づけた。
襲いかかる姿勢のまま動きを止めたデイモンとロレーン。ウィルは何事もなかったかのように、歩みを止めず、立ち去っていく。
襲撃者たちは光の粒子となって、跡形もなく溶けてしまった。
続けて――
何の前触れもなく、断崖であるはずの渓谷より荷馬車がジャンプし、黒衣の吟遊詩人へさらなる試練が降り注いだ。
それは逃げ去ったはずの山賊たちと奪われた荷馬車である。驚くべきことに、物理法則を無視して崖を這い登ってきた荷馬車は、勢いを利用し、ウィルの頭上を取った。
荷馬車からドグラとキールが飛び降りた。狙うはウィルの命。どういうからくりなのか、荷台の荷物はひとつとして落ちていなかったから不思議だ。
今度は二つの光条がドグラとキールに走った。着地前に、それらは目標たる二人の山賊の肉体を貫く。それで充分だった。
ドグラとキール、二つの死体が最期の一言もなく山道に転がった。それに少し遅れ、空中を飛んだ荷馬車も力を失ったように地面に叩きつけられ、脆くも粉々になる。落ちたロバが悲痛な鳴き声を発した。
しかし、吟遊詩人ウィルは振り向かない。彼の行く先はラナと謎の男デュークの待つヴァルハラ宮。ただ、それしか見据えていなかった。
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