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いつになく一人になりたいと思った。
どうも、あのウィルという男と出会ってから、ラナの心の中には細波のようなものが広がっていた。
これまで何ひとつ疑問を抱かなかった理想の世界。美しい花園を擁した白亜の宮殿に住まい、美味しい食事ときらびやかな無数の衣裳に囲まれ、どんな外敵の侵入も許さず、老いることもなく、理想の男性たるデュークと愛の言葉を囁き交わす日々。しかし、それは幻に過ぎないと言われた。あの想像を絶する美貌の持ち主である吟遊詩人に。
なぜだろう。ラナは自分に問いかけた。あのウィルという男の顔が頭から離れない。
自分の理想はデュークのような男だと思っていた。男らしくて逞しく、それでいて自分には常に優しく接してくれる存在。
それに比べると、ウィルは女性らしささえ感じる容貌と体型だ。それなのに――
ラナはウィルの魔性めいた美貌に見つめられながら連れ去られてしまう妄想を何度も抱いた。それは背徳の行為。もし、そんなことになれば、デュークはどうなってしまうのか。そう思うと、ラナは自分が男を弄ぶ性悪な女のような感じがして、後ろめたさを覚えずにはいられなかった。
「ラナ」
ふわりと風に揺れたカーテンの陰から長身のシルエットが現れると、ラナは心臓が止まりそうなほど驚いた。そんなことは今までになかったことだ。ラナは気まずくなった。
「どうしたんだい、ラナ。部屋に閉じこもって」
部屋と言っても、鍵はない。危害を加えるようなものは自動的に排除されるヴァルハラ宮では、どこでも出入り自由だった。今、初めて、ラナは鍵のかけられる自分の部屋が欲しいと思った。
「別に何でも」
ラナは大きなクッションを抱きしめ、デュークに顔を見られまいとした。しかし、デュークはいつも通り紳士的な態度を崩さず、ラナがいるベッドに近づく。
「そんな風には見えませんね。君がそんな顔をすると、僕まで悲しくなります」
デュークはラナのすぐ隣に腰を下ろした。いつもなら、これだけでドキドキする。だが、そんな感覚は失われてしまったようだ。
「ごめんなさい」
ラナは小さな声で謝った。これまで、そんなことを口にした記憶はない。村いるときも、彼女は何でも許された。両親はもちろんのこと、同年代の男の子たちはラナの気を惹こうと従順だったし、大人も村で一番の器量を持った少女を甘やかしてくれた。それゆえ、自由奔放に育ち、わがままも目立つようになっていたのだが、本人にそんな自覚はない。何もかもが思いのまま。それが叶わなくなったのは、両親を亡くしたときであった。
「謝らないで。君は何も悪くない」
デュークの手が艶やかなラナの髪を撫でた。それだけで背筋がゾクゾクする。指が耳朶に触れた。
「やめて」
咄嗟に身体が動いた。ラナはデュークを押しやるようにして、ベッドから立ち上がる。それから自分のしたことにハッとした。
「急にどうしたんだい、ラナ?」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
顔をうつむかせ、ラナはデュークが入ってきたテラスの方へ逃げた。
デュークを傷つけてしまった。そんな後悔が胸の内に渦巻く。いつもなら彼の愛撫に身を任せ、快楽の波に溺れてしまうはずなのに。やっぱり、私、変だ。
ラナは心の動揺を抑えきれず、また一人になりたいと思った。
再びウィルはヴァルハラ宮へと辿り着いた。
途中、襲撃が予想されたが、ここまでは何事も起こらなかった。ただし、奇怪だったのはウルの村である。こちらの世界のウルの村は何年も前に人が住まなくなったような廃村と化していた。どうやら本当にこの世界ではラナとデューク、そしてケルベロスのロウガしか存在しないらしい。
ヴァルハラ宮の庭園には、薔薇に囲まれた真っ白な東屋があった。通り過ぎようとしたところ、誰かがいることに気がつく。ラナだ。
どうやらラナは一人でいるようだった。辺りを見回してみるが、デュークも、彼女の番犬たるケルベロスもいない。ただし、油断は禁物だ。ヤツらは神出鬼没である。
警戒を強めながら、ウィルは東屋へ足を向けた。
一人で東屋の中で座りながら、ぼーっとしていたラナは、ウィルがかなり近づいてから、ようやく気づいた。
「あなたは――!?」
「ウィルだ」
ラナの前で立ったまま、ウィルは、もう一度、名乗った。ラナはうなずく。
「無事だったのね」
「ああ」
「よかった」
「他のヤツらは?」
「分からないわ。普段は姿がなくても、突然、現れたりするし」
「この世界のことだが」
「なぁに?」
「どういう認識を持っている?」
「どうって……?」
「ここが現実世界でないと分かっているのか?」
「分かっている……つもりよ。でも、私にとって、今はここが世界のすべて」
「それを逃げ場所にしたというわけか」
「いけない?」
ずっと目も合わせられなかったラナが、このときだけはウィルを睨んだ。唇が震えている。
「お父さんもお母さんも死んで、私は一人になってしまった。叔父さんはいるけど、長い間、ずっとマンセルで暮らしていたから、私はよく知らないし、村の人はただ可哀そうって言ってくれるだけ。イミールたちは、全然、役に立たない子供だわ。誰が私を守ってくれるって言うの?」
「ご両親のことは同情する。しかし、世の中には肉親を失っても強く生きている人は大勢いる。君は十五歳だそうだが、君よりも幼い子供たちが、な。君も自立すべきだ」
「お説教? みんながそうしているから、そうしないといけないわけ? どうして? 私は何もできないわ。自分で食事も作れない。掃除や洗濯も。裁縫仕事も出来ない。ないないない、ない尽くしよ! こんな私が生きていけるわけがないでしょ!? だから、私はここでデュークたちに守られながら暮らしているのよ!」
ラナの激情にも、この吟遊詩人は気圧されなかった。眼差しはあくまでも冷たい。それがラナをひるませる。
「だが、これは現実ではない。現実世界の君は眠り続けているだけだ」
「……それがどうしたって言うの?」
「眠り続けて、食事も摂れない君は、やがて死ぬ。それでもいいというのか?」
「………」
ラナは黙ってしまった。この世界にいると、自分の死ということに関して認識が乏しくなってしまう。永遠にこの世界で過ごせるものと錯覚してしまうからだ。
「それに君は一人だというが、本当に心配してくれる人がいる。そのことを忘れてはいけない」
「ウィル、私……」
ラナは身を縮めるようにして、自分を抱きしめた。泣いているのか、肩が震えている。
「戻ろう」
「ねえ、ウィル。私のこと、守ってくれる?」
ラナは潤んだ瞳でウィルを見上げた。そして、いきなり立ち上がり、首にすがりつく。
「約束して。私のことを守ってくれるって。そうしたら、私――」
ラナは唇をウィルに近づけた。ウィルは顔を背ける。
「よせ」
「イヤ。お願いよ」
「よせと言っている」
冷淡にもウィルはすがる少女を引き離した。ラナは半ベソで首を横に振る。
「ウィル、あなたのことを愛している! 初めて見たときから、私はあなたに――」
「茶番はここまでだ」
ウィルの目が鋭さを帯びた。普通の少女ならばひるむところ。だが、このラナはニヤリと笑った。
「まだ子供とはいえ、こんな可愛い娘に言い寄られて、何とも思わないなんて」
「色仕掛けが貴様の常套手段だろうが、オレには通じぬ」
ククッ、とラナが笑った。少女らしからぬ声で。
「やはり、ここへ辿り着いたことといい、普通の人間ではないようだな」
「正体を現せ。インキュバスか? サキュバスか?」
「ふふふっ、そこまで気づいているとは」
ラナは東屋から外へ飛び出した。いや、ラナに化けているものが。
「人間にしてはかなりやるようだが、それもここまで。この夢の終わりは、死によってもたらされると知れ!」
東屋に残されたウィルはラナに化けたものを追おうとした。しかし、次の瞬間、東屋が暗闇に包まれる。まるで急に夜が訪れでもしたかのように。
それに構わず、ウィルは外へ飛び出そうとした。だが、闇に跳ね返される。ウィルは閉じ込められたのだ。
「何をやっても無駄だ。その東屋をお前の棺桶にしてやる」
偽のラナが右手を伸ばすと、東屋はゆっくりと地中に沈んでいった。
ああ、吟遊詩人ウィルは夢魔の計略によって最期を迎えてしまうのか。
――その刹那!
およそ半分にまで埋没した東屋が左右真っ二つになった。そこから飛び出す黒い影。言うまでもなく、閉じ込められたはずのウィルだった。
華麗に舞い降りた黒き美影身は、自分を陥れようとした敵を捜した。
いた。しかし――
「ほう、この手も通じないとは」
ウィルを取り囲んでいたのは、同じ姿をした数十人のラナだった。
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