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「ロウガ!」
ラナは自分がつけたケルベロスの名を呼んだ。もちろん、ロウガを制止させようとして。しかし、絶対のはずだったラナの命令は無視された。
どうやら今のロウガは、デュークの下僕らしい。
ケルベロスは恐ろしい咆哮をあげながら、ラナたちの方へ突進してきた。これまで従順だったロウガが牙を剥いたことに対し、ラナは震えあがる。三つの牙それぞれに噛み砕かれたら、一瞬にして命はないだろう。
「来るんだ」
そのとき、ウィルが立ちすくむラナの身体を後ろから抱きしめた。そのまま跳躍する。それはラナが驚くくらいの高さだった。
瞬く間に足下の庭園が遠くなり、ケルベロスの巨体が小さくなった。人間がこんなに高く跳べるはずがないと、ラナは眩暈を覚え、息を呑む。
「ここは夢の中だ。現実ではない」
ラナの心を読んだかのように、ウィルが耳元で囁いた。ここは夢。そう、夢だ。
現実では不可能なことも可能になる世界――それが夢だ。空を飛ぶことも、馬よりも速く走ることも、自由自在になる。
ウィルがラナを抱えたまま、超人的な跳躍を可能にしたのは、夢の力を制御しているからである。
「ここにいろ」
ウィルは空中で、ラナから手を離した。いきなり放り出された感じで、ラナは心許なくなる。自分は宙に浮いていられる、と必死に念じたが、どうしても常識が邪魔をして焦ってしまうせいか、徐々に落ち始めた。
しかし、そんなラナに構わず、ウィルは急降下した。ケルベロスめがけ、猛スピードだ。さらに呪文を唱える。
「ヴィド・ブライム!」
ファイヤー・ボールが雨あられと降り注いだ。ケルベロスは身をひねりながら、それを次々と躱す。だが、薔薇が咲き乱れる庭園は、無数の爆発という別の赤い花に包まれた。
「あ、ああ……」
その凄まじい光景に、ラナは恐怖した。楽園のように思っていたヴァルハラ宮と薔薇の庭園が炎とともに焼失していく様は、あたかも世界の終わりのように見える。それをラナは急激に落下しながら目撃していた。
「きゃあああああああっ!」
まだラナには、ウィルが説く夢のコントロールというものが理解できていなかった。そのため、空を漂う雲のようには留まっていられない。このままでは炎の中に落ちて死ぬという絶望が、ラナをパニックに陥らせた。
炎に呑まれる寸前、ウィルの手がラナを救った。ラナの右手が力強く引っ張られ、それによって身体も持ち上げられる。ウィルと手をつないでいるだけで、ラナは宙に浮いていられた。
「ここは君の夢だ。恐れる必要はない」
「でも……」
ラナは不安を訴えるように、ウィルの手を強く握った。
「それにオレもついている」
ウィルの顔を見た途端、ラナは段々と気持ちが落ち着いていくのを感じた。ウィルの言う通りだと思う。この人がいれば安心だ。そう信じられる。
「ロウガは……どうなったの?」
燃える庭園を見下ろし、ラナは尋ねた。下の惨状を見れば、さすがの三つ首の魔犬も不死身ではいられないと思う。
だが、ウィルの表情は引き締められたままだ。
「来るぞ」
ウィルが言ったのと同時に、炎の中からケルベロスの巨体が浮き上がった。背中には、正体をさらしたデュークと同じ、コウモリの翼のようなものが生えている。これではケルベロスというよりも複数の動物を合成した魔獣キマイラと呼ぶべきかもしれない。
翼を得たケルベロスのロウガは、ウィルたちに向かってきた。ウィルはラナを引っ張りながら上昇する。幾層もの雲を突き抜けた。
ケルベロスの追跡は執拗で、なおかつ正確だった。差は一向に開かない。スピードも互角だった。
「ウィル! あれ!」
二人は急上昇していたはずだが、なぜかその頭上に山が見えた。それも逆さまになった山だ。急速に近づく。
上昇が、いつの間にか急下降していたことに、ラナは気がついた。どうして、そんなことになったのか分からない。夢を常識で測ることなど不可能なのだ。
ウィルは方向を変え、山の隣に広がっている湖に向かった。頭から湖に突っ込む刹那、上下に反転し、足先から滑るようにして着水する。ウィルとラナの足の裏は湖水に触れたが、そのまま沈むことなく、まるで地面のようにして水面に立つことが出来た。
一方、追いかけてきたケルベロスはまともに湖に突っ込んだ。豪快な水柱が上がる。二人は危うく波をかぶるところだった。
しばらくして、湖面は波紋ひとつ立たなくなり、完全に静かになった。湖の真ん中に立つウィルとラナは、次に何が起きるのか待ち受ける。長い沈黙が降りた。
水中の気配を感じ取ったのは、やはりウィルだ。ラナを抱くようにしながら、湖面の上を優雅に滑走し、接近する危険から逃れる。その直後、水中よりケルベロスが現れた。
湖水より飛び上がったケルベロスを見て、ラナは言葉を失った。なぜならば、ケルベロスの後ろ半身が魚のような尾ヒレと化していたからである。言うならば、半獣半魚。どうやら、ケルベロスのロウガは、姿形を場所によって適したものに変化させられるようだった。
「エスラーダ・グレイス!」
ロウガが着水する前に、ウィルは呪文の詠唱を終えていた。それはケルベロスのロウガへの攻撃ではなく、一気に周囲の湖面を凍りつかせる。その厚い氷の上に落ち、ケルベロスはもんどり打つようにして、横倒しのまま滑った。
だが、それで黙っている魔犬ケルベロスではない。すぐにまた姿を元通りの四肢のある獣へと変じると、滑る氷の上で体勢を立て直す。爪が氷に食い込むや否や、敵であるウィルへ飛びかかった。
「ヴィド・ブライム!」
ウィルは後方へ飛び退きながら、ケルベロスの着地予想地点へファイヤー・ボールを穿った。氷に出来た穴へ、またしてもケルベロスのロウガは落ちかける。しかし、その直前にコウモリの翼を生やし、間一髪、墜落を免れた。
一旦、上空へ逃れたケルベロスは、三つの頭をウィルへ向けた。その口から、ファイヤー・ボールと同等の火球が連射される。ウィルはラナを守りながら、その攻撃を避けた。
火球が破裂した湖の氷は砕け、凶悪な蛇のように亀裂が走った。ラナはウィルにしがみつく。二人はロウガの攻撃を躱して湖を渡り切り、山の麓まで辿り着いた。
そこでスピードを落とし、ウィルは止まった。動かなくなった標的に狙いを定め、ケルベロスは火球を発射する。黒焦げになる、とラナは目をつむった。
「ガッツァ!」
ウィルが呪文を唱えるや、目の前に厚い土の壁がせりあがるようにして立ち塞がった。アース・ウォールだ。それがケルベロスの火球を防ぐ。大地のバリヤーは堅牢で、震動だけがラナの足下から伝わった。
「ここにいろ」
ラナにそう言い置いてから、ウィルはアース・ウォールの陰から飛び出した。このままでは、いつまでもケルベロスは追って来るだろう。ウィルは決着をつけるつもりのようだった。
「ベルク!」
ウィルの右手から電撃が迸った。それは迫りくるケルベロスを貫くはず――が、意外な回避をされてしまう。三つ首の魔犬が三頭の魔犬へと分離したのだ。
各々、頭はひとつながら、脚は四本。ケルベロスというよりは、普通に見慣れた犬の姿になったわけだが、その大きさは相変わらず尋常ではない。それらが連携を取りながら、ウィルへと襲いかかる。
「ディノン!」
三頭それぞれへマジック・ミサイルが命中した。それは大ダメージを与えるまでには至らなかったが、連携を崩すには充分の役割を果たす。その間にウィルは体勢を整えることが出来た。
マジック・ミサイルにひるみつつも、三頭に分かれたロウガは、ウィルを三方から取り囲んだ。一頭でも厄介な敵が一挙に三頭になって、果たしてウィルに勝ち目はあるのか。ラナはアース・ウォールの陰から覗きながら、美しき吟遊詩人の身を案じた。
ウィルは三頭のロウガを警戒しながら、ジリッ、ジリッと移動する。無論、ロウガたちにも油断はなく、包囲網に乱れはない。ウィルが隙を見せれば、一気に飛びかかるつもりだ。
ふと、ウィルの足が止まった。ピクッ、とロウガたちが反応する。
「ガッツァ!」
ウィルが呪文と同時に手を地面につくと、ロウガたちは地面からいきなり突出した岩によって空中に突き上げられた。アース・ウォールの応用だ。しかも三頭同時での仕掛け。さすがのロウガたちも、ウィルに注意が向いていた分、躱せなかった。
そのうちの一頭へ向かって、ウィルは跳躍した。マントの下に装備していた短剣<ショート・ソード>を初めて抜く。その短剣<ショート・ソード>の刃は、魔法によるものなのか、眩い光を放っている。それを目撃して、ラナはこの世のものとは思えない美しさを感じた。
光がロウガの体に吸い込まれた。するとウィルに刺されたロウガだけでなく、他のロウガも苦しみを見せる。三頭に分かれても元は一体だった故か。ウィルが華麗に着地した後、息の根を止めた三頭のロウガが地面に叩きつけられた。
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