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吟遊詩人ウィル

聖拳の継承者

7.白い闇の中で

 白い靄<もや>がウィルを包んでいた。
 その中にひっそりとたたずむ姿は、まるで妖精の声に耳を傾けているかのようだ。あるいは永久<とわ>の離別を余儀なくされた最愛の者に、心の中でかつての想いを語っているのか。
 否。
 吟遊詩人ウィルは人間<ひと>にあらず、魔人なり。この男を常に待つのは死闘だ。
 その証拠に、ウィルを取り囲むおびただしい気配は、皆、殺気立っていた。ピリピリとした空気。喉を干涸らびさせ、胃が絞り上げられそうな威圧感。常人であれば、突き刺さるような死の恐怖に萎縮し、その場に立っていることもできないだろう。
 村へ降下してきたハーピィたちの包囲は完成しようとしていた。
 だが、その只中にあって、黒衣の吟遊詩人は悠然と構えていた。まるで、これから一曲奏でようとでもするかのように。
 驚くべきことに、実際、その手には闘いに用いる武器はなく、彼のパートナーとも言える《銀の竪琴》がたずさえられていた。太陽が射し込まぬ白い闇の中、《銀の竪琴》はそれ自体が輝きを持つかのように目映い美しさを放つ。その《銀の竪琴》に、そっとウィルの白き手が添えられた。
「光栄だな。このような大観衆に集まってもらえて」
 このクールな男が言うと、冗談は成り立たなかった。ましてや相手は人語を解さぬハーピィである。この期に及んで楽器を手にしている吟遊詩人をどう解釈したか。
「シャアアアアアアッ!」
 低い唸り声があちこちから聞こえた。所詮、ハーピィたちにとって、ウィルは獲物のひとつにしか過ぎない。自らの欲求として空腹感と嗜虐性を満たすことしか考えていないのだ。
 いつ、どこから、白い闇を切り裂いて、鋭い鉤爪が襲いかかってくるか。そのような危険な状況に身を置きながらも、ウィルには微塵の緊張もなかった。むしろ、この状況を楽しんでいるようにさえ見受けられる。
 ウィルの五指が開かれた。そして、繊細にして華麗な動き。ウィルが演奏を始めようとするとき、人であるならば、まず、その手に、その指先に目が吸い寄せられるだろう。
「では、一曲お聴かせしよう。──魔奏曲“ラプソディ”だ!」
 ギュゥゥゥゥゥゥゥゥゥン!
 それは思わず耳を塞ぎたくなるような音だった。昨夜、エルザとヨハンを夢の世界へと誘った演奏とは程遠く、神経を逆撫でするような不快な曲だ。いや、それがひとつの音楽として成り立っているのかも疑わしいほど、メチャクチャなものである。
「ギェェェェェェェェェッ!」
 ウィルの魔奏曲“ラプソディ”を聴いたハーピィたちは、一斉に悲鳴を上げた。翼が人間の手ほど満足に動けば耳を塞いでいただろう。それが出来ないハーピィたちは、少しでも音から遠ざかろうと飛び立った。
 だが、無秩序な動きは混乱を生む。我先にと逃げようとするハーピィたちは互いにぶつかった。それでも逃げようとして、仲間すらも傷つける。ウィルの周囲は、まさしく狂騒が渦巻いた。
「ディル・ディノン!」
 その隙を突き、ウィルのマジック・ミサイルが発射された。どれほどの魔力を要するものか、無数の光跡が朝靄<あさもや>を貫き、一瞬、上空を輝かせる。いかなる魔術師をも震撼させるであろう強大な攻撃魔法。その刹那、必殺必中の一撃が数多のハーピィたちを死に至らしめた。
 一瞬にして絶命したハーピィたちは、次々とウィルの周囲に墜落した。累々と築き上げられる死骸の山。その中心に立つ漆黒の演奏者は、美しき死神か、それとも冷徹なる魔人か。何の感情も表に出さず、ただ、その様を眺めた。
 だが、いかにウィルの魔法が強力であっても、何千にも及ぶハーピィたちを一度で葬り去ることはできなかった。なおも上空ではハーピィたちの啼き声が絶え間なく聞こえてくる。あと何回、同じ呪文を唱えれば、この戦いを終わらせられるのか。それは、さすがのウィルでさえも分からなかった。
 立ち尽くすウィルの背後から、一匹のハーピィが襲いかかった。鉤爪がウィルの背中を抉ろうとする。が、ウィルの身体はまるで木の葉が舞うような動きを見せ、その攻撃をかわした。
 続いて、別のハーピィが同じように攻撃するが、ウィルはそれすらもひらりと回避した。まるで体の重みが存在しないかのように。美しき吟遊詩人は白き朝靄<あさもや>の中で、一人、踊っているようにしか見えなかった。
 翻弄するウィルに業を煮やしたのか、約十匹ほどのハーピィたちが一斉に襲いかかった。そのとき、ようやくウィルの動きが止まる。
「ヴァイツァー!」
 次なる呪文を詠唱すると、ウィルのマントが大きくめくれ上がった。ウィルを中心にして突風が巻き起こったのだ。そのあおりを喰ったハーピィたちが為す術もなく吹き飛ばされる。
 ウィルは上空を見上げた。魔法の突風によって、一瞬だけ靄<もや>が晴れる。そこには無数のハーピィたちが遠巻きにしていた。
「このままでは埒が明かないな」
 初めてウィルがため息まじりの言葉を吐いた。さすがの魔人も嫌気が差したか。しかし、それもひととき。すぐに容赦ない鋭い眼光をハーピィたちに向けた。
「ヴィム!」
 ウィルは飛行呪文を唱えると、ハーピィの群れの只中へと飛び込んでいった。

 ようやくカダック村へと戻ってきたルジェーロは、息を弾ませながら、村がどうなったか心配した。
 ずっと鳴らし続けていた警告の太鼓は、村へ入る前に投げ捨てて来ている。あれだけ叩けば、村の連中も気づいただろう。あとは襲ってくるハーピィから、命からがら逃げてきたような状況だ。
 すでに見張り台のところからひどい靄<もや>が視界を覆っていたが、それは村に到着しても同じだった。まだ夜も明け切らぬ早朝だけに、外を出歩いていた村人は多くないだろう。従って、ハーピィたちの犠牲になった者たちは少ないだろうと信じるルジェーロであったが、肝心の村の様子を、直接、見ることが出来ず、どうしても不安が募る。とりあえず、自分の家の方角へ向かった。
 ルジェーロの家の近くには、村長であるバージルの家があった。当然、そこにはエルザもいるはずだ。常日頃、ヨハンを敵視しているだけに、エルザには嫌われているようなところもあるが、それでもルジェーロとしては幼なじみが心配だった。
 村の上空には、どれほどのハーピィが大挙して飛来しているのか、その啼き声だけは凄まじい。まるで屍肉をむさぼるカラスが群れているような不吉さを禁じ得なかった。
 いつハーピィが襲ってくるか、身の危険を感じつつも、ルジェーロは小走りに駆けた。途中、近道をしようと崖沿いの道を選ぶ。山からは一番離れたところにあたる。心なしか、ハーピィたちの啼き声が遠のいた。
「キシャアアアアアアアッ!」
 突然、ハーピィの啼き声と大きな翼の羽ばたきが聞こえたのは、そのときだった。さすがのルジェーロも心臓が飛び出そうになる。だが、それに男の悲鳴が続いた。
「うっ、わああああああっ!」
 村人の誰かが外を出歩いていたのかと思い、ルジェーロは助けに走った。
 前方、朝靄<あさもや>の中にうごめく影が見えた。ルジェーロは小石を拾い上げ、影の頭部へと投げつける。
「ジャアアアアアアッ!」
 ほとんど勘で投げたのだが、どうやら小石はハーピィの頭に命中したようだった。悲鳴を上げて、上空へと飛び去る。
「おい、大丈夫か!?」
 ルジェーロは襲われていた村人に駆け寄って、声をかけた。
「ひっ、ひいいいいいっ!」
「もう大丈夫だ! 安心しろ!」
 余程、怖い目にあったのだろう。泣きじゃくる相手に、ルジェーロは強く言った。すると、おもむろに相手が抱きついてくる。それでようやく誰なのか分かった。
「る、ルジェーロ……」
「ヨハン……なのか?」
 それはエルザの恋人であるヨハンだった。見間違えようもない緑色のチューリップ帽。ヨハンはルジェーロにしがみつきながら、子供のように泣きじゃくった。
 バージルと二手に分かれたヨハンだったが、やはり一人では心許なかった。しかも村は朝靄<あさもや>の中に沈み、どこからハーピィが襲ってくるか分からない。勇気を振り絞って外へ出たヨハンだったが、その時点で限界だった。
「怖いよ、ルジェーロ……助けて……助けてよ」
 見たところ、ヨハンにケガなどはなさそうだった。その手には護身用なのか、手斧が握られている。だが、ヨハンにこれを振るうことなど出来はしなかっただろう。
 もう村では大人扱いされているヨハンが、こうして子供のように怯えきっているのを見ると、ルジェーロはたまらなく怒りが込み上げてきた。男のくせに、武器を持ちながら、どうして戦おうとしないのか。どうして、こんな男をエルザは選んだのか。ヨハンが警告の太鼓を鳴らし遅れたせいで、親友のヘンリーは死んだ。その一方で、この腰抜けは逃げ回りながら、今も生き延びている。
 ルジェーロはヨハンの胸ぐらをつかむと強引に立たせた。
「逃げるな、ヨハン! 戦え!」
 ルジェーロは怒鳴った。唾が飛んで、ヨハンの顔にかかる。それでもヨハンは泣き続けていた。
「イヤだ! ボク、死にたくないよ! 死にたくない!」
 ルジェーロはカッとなった。
「バカ野郎! 死にたくなければ戦うんだ! お前、そんなんでエルザが守れるのかよ!?」
 だが、ヨハンは首を横に振るばかり。
「イヤだ……イヤだ……イヤだ……」
 ルジェーロはヨハンの胸ぐらをつかんだまま、顔面にパンチをお見舞いした。
 ところが勢いがつきすぎていた。そのまま二人はもつれながら、倒れ込みそうになる。最悪だったのは、視界が悪いせいで忘れていたが、ここが崖沿いの道だったことだ。ヨハンの身体は低い柵を乗り越えてしまい、そのまま崖の方へと転落した。
「──!」
 ルジェーロが慌てて引っ張ろうとしたときは後の祭りだった。それよりも自分の身を起こそうとするのが先に立ち、ヨハンを助けるのが遅くなる。その間にヨハンの姿は、白い靄<もや>の中にかき消え、悲鳴だけが尾を引いた。
「………」
 自分がしたことの重大さに、ルジェーロは身震いした。そして、ぶるぶると頭を振る。
「オレのせいじゃない……オレの……」
 ルジェーロはうわごとのように呟きながら、その場をよろよろと離れていった。


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