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崖の上から転落したヨハンであったが、幸運にも崖から突き出るように生えていた木に引っかかったお陰で、命拾いをした。
ちょうど、身体を二つに折るようにして、木の幹に乗っかった格好である。少しでも落ちる位置がずれていれば、そのまま真っ逆様に崖の下まで転落していたに違いない。
ヨハンは不安定な状態で、気絶していた。冷たい山の風が、ヨハンの身体を揺らす。やがて、ヨハンは気がついた。
「うっ……ううっ……はっ!」
目を開けた瞬間、まず足が宙に浮いている感覚にヨハンは驚いた。状況を確かめようと、反射的に動こうとする。だが、ここは崖から一本突き出ただけの木の上。たちまちヨハンは落ちそうになった。
「うわあああああっ!」
ヨハンは落ちまいとして、慌てて木の幹にしがみついた。そして、やっと自分の置かれている状況に気づく。
「こ、ここは……?」
周囲を白い靄<もや>が漂っていた。見えるのはヨハンがしがみついている木の幹と、険しい崖の岩肌だけ。下を覗いても、どれだけ距離があるか分からないし、首を上に向けても、どれだけ落ちてきたのか分からない。
ヨハンは、ルジェーロに殴られた弾みで、崖から転落したのだと思い出した。そして、今置かれた絶望的な状況に泣きたくなる。
「誰かーっ! 誰か、助けてー! ルジェーロ! ルジェーロ、そこにいないの!? 崖のところで引っかかっているんだ! お願いだ、助けてくれよ!」
精一杯の声を張り上げて、ヨハンは助けを求めた。だが、こだまが虚しく返ってくるものの、誰からの返事もない。ルジェーロからでさえも。見捨てられたのか、あるいは助けを呼びに行っているのか。
ヨハンは自分で何とかしようと、もう一度、崖の岩肌を見た。
崖はほぼ垂直に切り立っており、その表面はゴツゴツしている。登る場所さえうまく選べば、手や足をかけられるかも知れない。だが、一体どこまで登ればいいのか。
情けないことに、ヨハンは自分の筋力に自信がなかった。ヨハンの二の腕は、ほとんど女の子のような細さだ。果たして上まで登り切ることが出来るのか。万が一、足を滑らせて転落してしまったら。それを考えると不安になる。
このまま助けが来るのを待っていた方がいいかもしれない。ヨハンは吹き上げてくる冷たい風にさらされながら、木にしがみ続けた。
それからどれくらいの時間が経ったか。実際はほんの少しであっただろうが、ヨハンにとってはとてつもなく長い時間に感じられた。孤独感と不安定な姿勢、そして寒さが、益々、ヨハンを萎えさせる。助けなど来ないのではないか。ヨハンの思考は次第に悪い方へと働いた。
ルジェーロが黙ってさえいれば、ヨハンがここにいることなど誰にも分からないのだ。そして、ルジェーロには昔から嫌われ、ヘンリーの死で決定的になった。そもそもヨハンをここへ落としたのはルジェーロではないか。
ヨハンは絶望した。このまま、ここで餓死するか、それとも力尽きて転落死するか。それはもう早いか遅いかの違いだと思われた。
そんなことを考えているときだった。ヨハンの近くで、不気味な鳥の鳴き声のようなものが聞こえた。それはハーピィのものとは明らかに違い、今まで聞いたこともないものだった。
ヨハンはその鳥の正体を確かめようとしたが、生憎の靄<もや>で見つけることはできなかった。
しかし、程なくして、今度は大きな翼の羽ばたきが聞こえた。それに遅れて、突風がヨハンに吹きつける。この風は、その翼がもたらしたものなのか。とすれば、その翼の持ち主の大きさは──
「クイィィィィィィィィィッ!」
突然、鋭い啼き声が聞こえた次の瞬間、ヨハンの身体は宙に巻き上げられた。崖に生えていた木が、物凄い突風で根こそぎ引きちぎられる。
そのときヨハンは見た。何か大きな鳥とも動物ともつかぬシルエットを。
しかし、それも一瞬。ヨハンは落ちた。崖下へと。
「うわあああああああああっ!」
このままでは奈落の底へ真っ逆様だ。ヨハンは死を覚悟し、最愛の少女の顔を脳裏に思い浮かべた。
(エルザ……!)
ドサッ!
その瞬間は呆気なく、思ったよりも早く訪れた。ヨハンの身体は巻き上げられた衝撃でくるりと反転し、背中から地面に叩きつけられた。
ベキッ!
「──っ!」
不気味な音と共に激痛が走った。ヨハンは悲鳴を上げかけたが、それよりもしたたかに背中を打ちつけ、息が詰まる。全身がしびれ、自分がどうなったのかも分からない。だが、不思議と生きているという実感だけはあった。
しばらくヨハンは、仰向けのまま倒れていた。するとしばらくして、徐々に朝靄<あさもや>が晴れていき、周囲の様子が分かってくる。
それでようやく、ヨハンは自分が助かった理由を知った。ヨハンが落ちたのは、どうやら崖の途中に張り出した小さな岩棚のようだ。それもヨハンが引っかかっていた木から、そんなに下ではない。現に、崖の上の方では、木が生えていたと思われる痕を見つけることが出来た。二度の転落で、二度の幸運に助けられたことになる。ヨハンはとりあえず命拾いし、大きく息を吐き出した。
しかし、いざ起き上がろうとして、今度こそヨハンは悲鳴を上げた。右足が折れている。落ちた際、変な方向に曲げてしまったらしい。
ヨハンは苦痛に耐えながら、左足一本で立ち上がった。これでは余計に崖をよじ登るのは無理だろう。九死に一生を得たが、決して状況が好転したわけではなかった。
ヨハンが倒れていた近くに、自分の手斧が落ちていた。護身用に家から持ち出してきたものである。ルジェーロに落とされたとき、一緒に落ちたのだ。ヨハンは何かの役に立つかも知れないとそれを拾い上げ、ひとまず崖にでも寄りかかって座ろうと思った。
ところが崖の方へ片足で跳ぶように近づいていくと、そこに小さな横穴があるのを見つけた。入口はせまいが、何とか入れないことはない。どこかへ抜けられるのか。いや、それが無理だとしても、吹きさらしの外にいるよりはマシだろう。ヨハンは身体をねじ込むようにして、横穴へと入っていった。
横穴は人為的に塞がれたもののようだった。手にした岩がガラリと崩れる。長い年月の間に、偶然、崩れて、入口が出来たのかも知れない。とにかくヨハンは進んだ。
明かりを持たないヨハンにとって、横穴の中は暗闇同然だった。途中で引き返そうかとも考える。だが、誰かが塞いだものならば、中に何かあって、通じているという理屈だ。ヨハンは慎重に進み続けた。
しばらく進むと、突然、岩場がなくなり、空間のようなところへ出た。手を伸ばして探ると、人が立てるくらいの大きさがあるようだ。ヨハンはとりあえずここで休もうと思った。
すると暗闇の中で、不意に明かりが灯り始めた。最初は小さな豆粒くらいだったのが、段々と明るさを増し、周囲を照らし出していく。ヨハンはその不思議な明かりを見つめた。
ついに明かりは、空間全体を照らし出した。思った通り、周囲は洞穴のようになっていて、大きさはちょっとした小部屋くらいある。ヨハン一人が休むのに充分な広さだ。
だが、それよりもヨハンは緊張した面持ちで明かりを見つめ続けた。明かりは地面近くに置かれた球のようなものから発せられている。そして、ヨハンからは逆光になっているのでよく見えないが、その後ろに誰かいるような感じがした。
「だ、誰!?」
ヨハンは震える声で誰何した。しかし、返答はない。ヨハンは怖々、光の球に近づいていった。そして、その後ろのものの正体を見る。
「ひっ!」
ヨハンは引きつるような悲鳴を上げ、腰を抜かした。まるで幽霊でも見たかのように、歯をガチガチさせる。
光の球の後ろにいたのは、黒く干からびたミイラだった。そのミイラが座禅を組み、手の上に光の球を乗せているのだ。
かつて、このノボス山には多くの修行僧<モンク>たちが訪れ、精神修行を積んだと言われている。このミイラもその一人なのか。過酷な修行の末、自らの命を落としてしまったのかも知れない。
それにしても奇妙なミイラだった。かなりの年月が経過しているのは明白だが、光の球を持つ両手だけが、まるで血が通っているかのように生気を保っているのだ。骨張った無骨な手だが、ここだけは黒ずんだ顔や肉体と大違いである。
「な、何なんだ、これは!?」
ヨハンは気味が悪かった。風を凌げそうな空間は有り難いが、ミイラと一緒ではたまらない。ヨハンは外へ出ようとした。
「待て」
するとヨハンに声がかかった。ヨハンは身体を硬直させ、その場から一歩も動けなくなる。そして、ゆっくりと後ろを振り向いた。まさか──
「待つのだ、ここを訪れし者よ」
光の球は七色に変化し、空中に映像を照射した。それが人の像を結ぶ。
「あ、あなたは……まさか!?」
空中に浮かんだ人物は、修行僧<モンク>の格好をした偉丈夫だった。その姿には神々しい威厳が感じられる。
そして、その修行僧<モンク>はヨハンに語りかけた。
「我が名はカーン。リシュウ国のマスターモンクなり」
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