[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]
南の僧院の小さな一室では、粛々とした呪文の詠唱が延々と続いていた。
唱えているのは初老の僧侶。目を閉じて、聖魔術<ホーリー・マジック>に集中している。
治療を受けているのは、一見して男か女か分からない美貌の持ち主だった。部屋の中央にある簡素な寝台に横たわり、まるで眠っているような顔は、おとぎ話に出てくる囚われの美姫を連想させる。
しかし、そのような美貌とは裏腹に、身につけている服装は黒一色にまとめられていた。闇夜のような旅装束。その右腕は肘から先が切断され、今まさに僧侶の手によって、接合が試みられていた。
「……メイヤー!」
最後に気迫のこもった呪文が唱えられると、腕の接合部分が強い光を放った。その光の筋がスーッと消えていく。
部屋が元の薄暗さを取り戻すと、初老の僧侶は大きく息を吐き出した。
「終わったぞ」
僧侶は寝台の人物に声をかけた。美しき患者がゆっくりと目を開ける。腕は見事、元通りになっていた。
「ずいぶん長くかかったな」
それは透き通った声音だったが、明らかに男のものだった。
まず最初に感謝の言葉が聞けるものだと思っていた僧侶は、可憐な唇から皮肉めいたセリフが漏れて、苦笑せざるをえなかった。
「よく言うわ。切断されていた腕をくっつけてやったんだぞ。それも、あんなに時間が経った状態で来おって。まったく、長時間の呪文の詠唱は疲れるわい」
今度は逆に僧侶が文句を言った。だが、男はニコリともしない。
「老いたな」
「抜かせ!」
僧侶はまともに取り合っていられないとばかりに、部屋の片隅に置かれた水差しの所まで行くと、一杯の水を飲み干した。長時間の呪文詠唱のせいで疲れたというのは冗談ではない。簡単なケガならともかく、自然治癒が不可能な重傷さえも復元させる高位魔法ともなれば、それなりの魔力と集中力を要する。
男はそんな僧侶の疲れた様子を横目に見ながら、寝台の上に起き上がって、早速、くっつけてもらった右腕を確かめようとした。
「まだ、無理だぞ」
男に背を向けているくせに、気配だけで動きが分かるのか、僧侶はクギを刺した。
男は聞こえなかったかのように、右腕を動かそうとする。しかし、指先は完全に麻痺したままで、思うように動かない。
僧侶が聞き分けのない子供を見るような目で、男の方を振り返った。
「無理だと言ったろ」
「治ったんじゃないのか?」
男は疑わしげに僧侶を見た。僧侶は嘆息する。
「ムチャを言うな。切断した直後ならともかく、あんな壊死しかかった状態で、おいそれと治るものか。くっついただけでも奇跡だ。当分、右腕は使えないものと思えよ」
そう言って僧侶は、やや手荒な感じで空のコップをテーブルに置いた。そして、その隣に置いてあった、男の持ち物を手に取る。黒いマント、黒い旅帽子<トラベラーズ・ハット>、護身用の短剣<ショート・ソード>、そして、美しい細工が施された《銀の竪琴》。それらを眺めて、もう一度、ため息を漏らす。
「なあ、吟遊詩人のお前さんにとって、その右腕は商売道具だろ? それを誰にやられたか知らないが、もっと大切にしたらどうだ、ウィル」
僧侶はまるで息子か孫に諭すように、黒い旅装束の男──ウィルに言った。
「誰かにやられたわけではない」
「じゃあ、自分でやったとでも言うのか?」
ウィルはそれに答えず、寝台から立ち上がると、マントや旅帽子<トラベラーズ・ハット>を身につけた。右腕は動かせないが、左腕だけで器用にこなしていく。最後に僧侶の手から《銀の竪琴》を受け取った。
そこで、ふと僧侶が真顔になる。
「しかし、いいところに来てくれた。ひょっとすると、お前さんの力を借りることになるかも知れん」
「………」
ウィルは黙って、僧侶の顔を見つめた。
僧侶が口を開きかけたとき、部屋のドアがノックされた。二人とも、そちらを見やる。
「父上」
それは若い女性の声だった。
「リサか。何だね? 入りなさい」
僧侶──いや、南の僧院の主である僧正ピエル師は、遠慮がちな声の主を促した。
招かれし訪問者は、そっとドアを開けた。まだ幼さの残る少女が顔を覗かせる。尼僧<シスター>の格好をしていた。
普通、僧院では女性の修行僧<モンク>はいない。女性の僧──尼僧<シスター>は、男子禁制の比丘尼寺<びくにでら>で、独自に学ぶことになる。しかし、僧正の娘となれば話は別だ。
「娘のリサだ。今日は弟子たちが総本山の方へ出払っているのでな、少し手伝いに来てもらった。──で、どうしたんだ、リサ?」
ピエル師は改めて用件を聞こうとした。
だが、リサは思わず見てしまった。美しき客人の容貌を。その瞬間、まるで魂が奪われてしまったかのようになり、そうなるともう頬をほんのりと色づかせ、呼吸を止めて立ち尽くし、黒衣の吟遊詩人を陶然と見つめることしかできなくなる。
我が娘の様子にピエル師は嘆息した。
「リサ。これ、リサ!」
「……あ、はい」
何度目かの呼びかけで、リサはようやく我を取り戻した。しかし、少しでも気を緩めると、またウィルの方ばかり見てしまいそうだ。
ウィルが視線を投げてよこした。リサはハッとして、慌てて顔を背ける。
そんな娘の様子に、父親としてはやれやれと首を曲げるしかなかった。
「何か用があったんじゃないのかね? まさか、この男の顔を見に来ただけでもあるまい?」
ピエル師に揶揄されて、リサは顔を真っ赤にさせた。
「ち、違います! 表に霊柩馬車が来ていたので……」
リサは戸惑っているように言った。それを聞いたピエル師の顔も怪訝なものへと変わる。
「霊柩馬車だと? 今日はそのような予定は入っていないはずだが」
王都ウォンロンのどこかで葬儀があれば、それを取り仕切る僧院へ必ず報せが届く。僧正であるピエル師がそれを知らないということは有り得なかった。
もちろん、ウォンロンは広いので、それぞれの地区の葬儀は、東西南北の僧院に振り分けられている。どこか別の地区の遺体が、間違ってここへ運ばれた可能性もあるが。
ピエル師は腑に落ちない表情で、とりあえず表へ出てみることにした。その後にリサとウィルが続く。
リサの言うように、僧院の正面には四頭立てになっている黒塗りの馬車が停められていた。だが、御者台には誰もいない。黒鹿毛の馬だけが前肢を掻くような仕種をしていた。
「一体、誰が運んできたのだ?」
「分かりません」
ピエル師の言葉に、リサはかぶりを振った。リサが発見した時点で、すでに御者はいなかったのだ。
訝りながらも、ピエル師は霊柩馬車の後ろに回った。そして、棺が納められているはずの扉を開ける。
「危ない!」
そのとき、もしウィルがピエル師の身体を引っ張っていなければ、滑り落ちてきた黒い棺に押し潰されていただろう。最初から落ちてくる細工がされていたのか、棺は死者の眠りを妨げるような衝撃で地面に落下した。
いきなりのことに息を呑むピエル師とリサ。
だが、さらに驚くべきことが目の前で起きた。
ガタガタガタッ……
突然、棺の蓋が動き出したのだ。
これまで何千、何万という葬儀を執り行ってきたピエル師も、これには驚愕せざるを得なかった。死者が甦ったというのか。
棺桶の隙間から、肉が腐って骨の覗く指が現れた。それは徐々に棺桶の蓋を押し開き、かつて生を謳歌した現世へ這い出てこようとする。
ピエル師とリサが喉を鳴らした。ただ一人、ウィルだけが無表情に死者の復活を待つ。
「ギギギギギギギギ……」
棺桶の中には腐乱した死体が横たわっていた。その頬骨が不気味に鳴っている。呪われた死体はゆっくりと起き上がった。
「アンデッド……屍食鬼<グール>か」
ウィルは冷然と言い放った。
[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]