[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]
地上の光すら届かない深淵の底で。
そこには暗闇しかなかった。
そこには静寂しかなかった。
そこには死しかなかった。
すべてが奪われた世界。それは無。
しかし、そこに押し込められた強烈な思念が存在した。
それは無数に、消えることなく、累々と。
出たい。ここから出たい。ああ、外へ──光ある場所へ。
死者たちの悲痛な声。慟哭。嗚咽。呪詛。
生への執着は死してなお強まる。
暗闇は、そんな死者たちのあがき苦しむ様を封じ込めているかのようだった。
そんな暗闇の中に実に小さな明かりが灯った。明かりは、ほんのわずかに揺らいでいる。炎だ。小さく灯されたロウソクの炎。この漆黒の中にあっては、今にも消えてしまいそうな本当に頼りない明かりだった。
やがて、次々とロウソクに火が灯されていった。二つ、三つ、四つ……。その間隔は徐々に狭まっていき、やがて無数のロウソクが点灯する。それでも暗闇は決して照らされることなく、なお濃い。
その暗闇に溶け込むようにして、一人の人物が立っていた。どうやら、最初からそこにいたらしい。闇に染まっているのは、漆黒のローブを頭からかぶっていることもさることながら、存在自体が闇に近いからだろうか。揺らめくロウソクの炎に幽鬼のごとく立つ禍々しき影。それはまさに、この深淵の主にふさわしかった。
ひとつ、ロウソクの炎が大きく揺れた。
「戻ったか」
闇の主はしわがれた老人のような声を出した。
新たに三つの気配が暗闇の中に生まれる。
「司教様。三つ目の鍵を持って参りました」
それは、同じようにかすれた女の声。闇の中から白い相貌が浮かび上がる。
女の顔は、声に似ず、まだ若かった。おそらくは二十歳手前であろう。しかし、頬はこけ、顔色もひどく悪い。そのくせ、目つきだけは鋭く、女豹のように力強い輝きがあった。もっと肉付きがよければ、かなりの美人だっただろう。惜しいことに、男のように短く切りそろえられた白髪と相まって、実年齢よりも老けて見えた。
「シェーラ」
それは女の名前だったか。シェーラは顔同様に骨張った右手を黒いローブの下から出すと、握っていた物を闇の主に手渡した。受け取った闇の主は、それを手の中で確かめる。
それは錆びた金属片だった。菱形をしているが、下半分は、所々、いびつに欠けている。一角に穴が開けられ、ペンダントのように紐が通されていた。
「おお」
闇の主は初めて感情を露わにした。それは悦びであっただろうか。
「よくやったぞ、シェーラ」
男から讃えられ、シェーラはうやうやしく頭を下げた。
「して、ピエルはどうした?」
闇の主はフードの奥にある眼をシェーラに向けた。シェーラは改めてかしこまる。
「ハッ、始末しました」
「よしよし、それでよい。十年前のように、ヤツらに邪魔されては敵わぬからな」
闇の主は反対の手で、懐から同じようにペンダントになった金属片を取りだした。女が持ってきた物と合わせて三つ。それらを束ねると、再び懐へ戻した。
「これであと三つ。我らの神が復活なさる日も近い」
そう言って、闇の主は背を向けた。そして、遙かなる地上を見上げる。
「だが、そろそろ我らの動きに、ウォンロンの坊主どもも警戒を強めるであろう。もっとも、シェーラ、お前の術を持ってすれば、どのように守りを固めようともムダだろうがな」
闇の主は喉の奥でククッと笑った。
だが、そこでもう一つの影がシェーラの左から進み出る。
「司教様。少し気になることがございます」
それは子供のように背の低い男だった。シェーラと同じように痩せ細っており、落ち窪んだ眼ばかりが大きく見える。まだ十代後半くらいか。その割に髪は真っ白で、産毛のように薄く、どちらかというと額に浮かぶ青い血管の方が目立った。
司教と呼ばれた闇の主は、その小男の方を振り返った。
「どうした、ダグ?」
ダグは目を伏せがちにしながら、
「ハッ。オレの差し向けた屍食鬼<グール>をいとも容易く斃した者がおります」
と告げた。
これには司教も、少なからず驚いたようだった。
「なに? お前の屍食鬼<グール>を? そやつは修行僧<モンク>の一人か? それとも、もっと高位の僧侶<プリースト>か?」
「いえ、白魔術師<メイジ>のようです」
「白魔術師<メイジ>……」
「はい。それもかなりの使い手。たまたま僧院に居合わせただけのようでしたが、もし、こちらの敵になるようだと厄介かもしれません」
ダグの報告に、司教は押し黙った。
ネフロン大陸の東方であるロハン共和国では、聖魔術<ホーリー・マジック>を使う僧侶<プリースト>が多く、白魔術<サモン・エレメンタル>を使う白魔術師<メイジ>や、黒魔術<ダーク・ロアー>を使う黒魔術師<ウィザード>は珍しい存在だ。いるとしても、王宮や魔術師たちが魔法を学ぶ場所である学院の中だけで、滅多に街へ姿を現すことはない。
それは、かつて魔力を持った人々が世界を支配していたことに起因する。魔力のない者たちは下層階級として虐げられ続けてきた。しかし、《大変動》で世界は一変。支配階級の者たちは天空へと逃れ、下層階級の者たちは天変地異で荒れ狂う地上に取り残された。そんな《大変動》の中でさえも生き抜いた人々は、地上の新たな支配者として自分たちの国を勃興したのだ。
それでも過去の記憶がそうさせるのか、何世代も経た今なお、魔術師を畏怖の対象と目している者たちは多い。畏怖は蔑視に通じる。こうした偏見は根強く、例え魔術師たちが友好的に振る舞おうと思っても、一般の人々からはあまり歓迎されない。特にこのロハン共和国では顕著だ。だから両者の間には、暗黙のうちに棲み分けが出来ていた。
従って、ダグの屍食鬼<グール>を斃したという白魔術師<メイジ>は、このロハン共和国の者ではなく、余所から来た旅人である可能性が高いだろうと考えられた。
果たして、何者であるのか。ダグの言うように、計画の妨げになるようなことは避けたいが。
そのダグの肩に、シェーラが手を置いた。
「心配するな、ダグ。魔術師ごとき、私の短刀<ダガー>で仕留めてくれる」
決して気休めではない、自信に満ちた態度でシェーラは保証した。
「オイもいるぞ」
別の声がして、最後の一人が闇より現れた。ダグとは打って変わって、山のごとき巨漢の持ち主だ。白髪をたてがみのように振り乱している。ローブからはみ出した腕は丸太のように太かった。
「今度はオイも連れてってくれ。オイの《縛霊術》も試してみてえ」
そう言って、大男は指の骨をバキバキと鳴らした。
するとシェーラが冷然と微笑む。
「ああ、分かったよ。次はロキも連れていく。そのときは大暴れするといい」
「ホントか、シェーラ?」
「もちろん。私たちはそのためにこの十年間、術を磨いてきたんだ。すべてを滅ぼし、すべてを取り戻すために」
このときだけ、シェーラは年相応の少女の顔をした。ここではない、どこか遠くを見つめる目。しかし、すぐにまた油断のならない女豹に戻る。
「司教様、今は敵かどうかも分からない魔術師のことは放っておいて、次の鍵を手に入れることが先決かと存じます」
「よく言った、シェーラ」
うなずく司教。そして、一同を見渡す。
「よいか。我らは不滅! 例え肉体が滅びようとも、魂は永遠なのだ! だから何も恐れることはない! 我らが手に、我らが神を取り戻せ! そのときこそ、我らの望みがすべて成就するときぞ!」
「ハッ!」
シェーラ、ダグ、ロキの三人は司教に一礼した。
するとロウソクの炎が次々と消えていく。
やがて、最後の一本が吹き消えたとき、シェーラたちの気配は霧散し、暗闇に再び死と沈黙と虚無が戻った。
[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]