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吟遊詩人ウィル

死者の復活祭

30.ハーヴェイの奮戦

 ウィルとロキが死闘を繰り広げていた頃、奈落の底へ転落したはずのハーヴェイは意識を取り戻した。
「くっ……」
 まるで全身がバラバラになったかのようだ。ハーヴェイは呻きながら、自分の体が動くか確かめてみた。痛みはひどいが、どこかを骨折していたり、傷を負っているようなことはなさそうだ。ハーヴェイはとりあえず一安心する。
 次にハーヴェイは、自分が階段の上に倒れていると気づくまで、しばらく時間がかかった。階段から落ちたはずなのに、穴の底ではなくて同じ階段の上に倒れているのは不思議な感じがした。しかし、冷静に考えてみると、螺旋階段は穴の直径を徐々に狭めながら造られている構造ため、その下の階段に落ちただけの話だ。幸運だったのは、さらに下へ転がり落ちずに済んだことで、一歩間違えれば本当に死んでいたかもしれない。
 命拾いしたことにホッとしながら、ハーヴェイは立ち上がろうと、体を起こした。どのくらい気を失っていたか分からないが、早くウィルの後を追って、シェーラたちの陰謀を阻止しなくてはならない。でなければ、ここまでやって来た意味がなかった。
 螺旋階段には灯明が赤々と燃え、足下をほのかに照らしていた。ハーヴェイは再び左手を壁につけながら、慎重に階段を降りていく。また転落するのはご免だった。
 それにしても、先程の地震のような大きな震動は何だったのか。ひょっとするとウィルが強い威力の魔法を使ったのかもしれない。あるいは、仕掛けられた罠が作動したのか。灯明台の炎も誰が点火させたものか分からず、ハーヴェイはこの先に待つであろう危険に全神経を集中させた。
 やっとのことで最下層に到着したとき、ハーヴェイは少しだけ緊張を緩めた。これでようやく、転落の危険だけは去った。しかし、ここからどの方向へ進めばいいのか。ぐるりと周りを見回すと、道は六方に分かれていた。
「チクショウ、どっちへ行きやがった?」
 ウィルが何か手がかりを残していったかと思ったが、特に何も見当たらず、ハーヴェイは途方に暮れた。この分かれ道はそれぞれどこへ通じているのか。まさか、一度、足を踏み入れたが最後、迷宮のようになっていて、一生さまようはめになるのではという不安に駆られた。
 そんなハーヴェイに、敵は向こうから現れた。
「もう一匹、ネズミがいたとはね」
 その女の声に、ハーヴェイは振り返った。忘れたくても忘れられない声。ゼブダの仇。
 ハーヴェイが背中を向けていた道から、不敵な笑みを浮かべたシェーラが近づいてきた。ハーヴェイはすぐさま、広刃の剣<ブロード・ソード>を抜く。
「シェーラ」
 ハーヴェイは憎しみを込めて、その名を口にした。
 シェーラは小首を傾げるような仕種をする。
「私の名を知っているとは……誰だったかしら?」
 それはハーヴェイにとって屈辱だった。
「東の僧院で、衛兵を一名、斬っただろう! ゼブダという男だ! オレは彼のパートナーだった!」
 ハーヴェイに説明されて、ようやくシェーラは思い出したようだった。
「ああ。ダグを相手に苦戦していた坊やね」
 年の頃はハーヴェイと同じくらいとしか思えぬのに、シェーラはわざと見下すようなことを言った。その挑発にハーヴェイはカッとなる。
「黙れ! よくもゼブダさんを! オレはお前たちを許さない!」
 熱くなるハーヴェイに対し、シェーラは鼻で笑った。
「それはお互い様よ! 私の家族も、お前たちの仲間に殺された!」
「大僧正やマトス師は、そんなことをしていない! その正しさを教えてやる!」
 シェーラを否定するように、ハーヴェイは斬りかかった。広刃の剣<ブロード・ソード>を真上から振り下ろす。シェーラはそれを飛び退くようにして避けると、ステップを踏んで、ハーヴェイの死角へ回ろうとした。素早い。
 横合いからシェーラが襲いかかった。手には短刀<ダガー>。これまで数々の人々の命を奪ってきた凶器だ。
 ハーヴェイはそれに反応するが、そちらを向いたときはさらに死角へ回り込まれている。視界の隅でシェーラの身体が沈んだ。来る。
 短刀<ダガー>の刃がハーヴェイの首筋をかすめた。間一髪、身を反らすことに成功したハーヴェイ。だが、シェーラはさらなる攻撃を加えようとしてくる。
 完全にハーヴェイはシェーラの動きに翻弄された。死角から繰り出される短刀<ダガー>の攻撃を避けるのに精一杯である。こんなはずではないと、ハーヴェイに焦りが出始めた。
 東の僧院でゼブダとシェーラが戦っているところを、ハーヴェイもまたダグと戦いながら見ていた。そのときは明らかにゼブダの方がシェーラを圧倒していたはずである。シェーラの特殊能力《影渡り》によって、ゼブダは命を落とすハメになってしまったが、剣技では勝っていたはずだ。ハーヴェイもゼブダに比べれば未熟とはいえ、稽古では三本のうち一本は奪う腕前である。シェーラを相手にして、遅れを取るとは夢にも思っていなかった。
 ハーヴェイの誤算は、あのときのシェーラはウィルの魔法で負傷していたことを知らなかったことだ。傷さえ負っていなければ、シェーラはゼブダとも対等に渡り合えたことだろう。そして、今のシェーラは完調だ。
「そら! さっきの威勢の良さはどこへいったんだい!?」
「くっ!」
 ハーヴェイは剣を振るう暇さえ与えてもらえなかった。シェーラの短刀<ダガー>が眼前に突き出されるのを必死に躱すしかない。
 しかし、短刀<ダガー>にばかり気を奪われている場合ではなかった。不意にシェーラの身体がかき消える。代わりに現れたのは、シェーラのしなやかな脚だった。
 シェーラは左脚一本を軸にして、右脚の回し蹴りを放ったのだった。その急激な戦闘スタイルの変化に対応できなかったハーヴェイの顔面に、シェーラの踵がまともにヒットする。
「ぐっ!」
 ハーヴェイは意識が吹き飛ばされそうになって、よろめいた。倒れそうになるが、意地だけで踏みとどまる。奥歯をギリッと噛んだ。そうすることで気力を保とうとする。
 おかげで、次のシェーラの攻撃を何とか防ぐことが出来た。回し蹴りで倒されていれば、きっと短刀<ダガー>の餌食になっていただろう。急いでシェーラとの距離を取ろうとする。
 シェーラは深追いしなかった。むしろ余裕を持った態度で、ハーヴェイに冷笑を向ける。あれだけ激しく動いたというのに、シェーラは息ひとつ乱していなかった。
 反対にハーヴェイの息づかいは荒かった。肩が大きく上下し、唇からも出血している。しかし、その目はまだ戦意を失ってはいなかった。
「まだ私とやるつもり? どうせ、アンタには勝ち目はないわ」
「それはどうかな? お前の動きはもう見切った」
「ハッタリも大概にしてよね。いいわ、そんなに言うなら、あの世で後悔させてあげるわよ」
 シェーラは女豹の如く、獲物への牙を研いだ。短刀<ダガー>が炎の反射を受けて、赤くきらめく。
 ハーヴェイはゆっくりと後ろへ下がった。背中を壁にくっつけるようにする。
「考えたわね。そうやって私を後ろへ回らせないつもり?」
 シェーラは舌なめずりをするように言った。どんな策を弄しようとも、シェーラには関係ない。獲物の首を一撃で仕留めるだけだ。
 するとさらにハーヴェイは、両手で握った広刃の剣<ブロード・ソード>を高く掲げた。そうすることによって、無防備な首を守るつもりのようである。これにもシェーラは動じなかった。
「そんなに首を狙われるのはイヤかしら? でも、それじゃ、首以外のところががら空きよ」
 その通りだった。それでもハーヴェイはその構えを解こうとしない。
 シェーラはハーヴェイに向かって疾った。心臓をひと突きにすればお終いだ。
 ハーヴェイは動かなかった。シェーラが突進してくるのを真っ向から見据える。瞬きひとつしなかった。
 そんなハーヴェイの様子に、シェーラの方が躊躇を覚えた。まさか、攻撃を避けないつもりなのか。すでに死を覚悟したとでも言うのか。
 だが、ハーヴェイの目には、まだ強い光が宿っている。とてもすべてをあきらめた目ではない。
 真上に掲げられたハーヴェイの剣は、ピクリともしない。シェーラはその剣の動きによって、体を変えるつもりだった。その目論見が狂う。
 とうとうシェーラは、ハーヴェイへ一直線に突っ込むはめになった。ハーヴェイが何を考えているのか、シェーラにはさっぱり分からない。ただ、吸い込まれるように、ハーヴェイの心臓へ短刀<ダガー>の切っ先を向けた。
 その刹那、ハーヴェイの目が鋭く光った。待っていたのは、この瞬間だ。
 シェーラの動きはとても素早く、今のハーヴェイでは捉えきれない。そこでハーヴェイは、仕切直しとなったこのとき、この瞬間に賭けたのだ。
 ギリギリまでシェーラを引きつけ、それを捉える。それがハーヴェイの秘策だった。シェーラが素早い二撃目、三撃目を繰り出してきたら、もう勝ち目はない。たった一度のチャンス。ハーヴェイはそこに活路を見出したのだ。
 短刀<ダガー>が心臓へ突き刺さる寸前、ハーヴェイは身をひねって、その凶刃をかわした。そして、左手を広刃の剣<ブロード・ソード>から離し、グッと脇をしめる。それによってシェーラの右腕は、完全にロックされてしまった。
「──っ!?」
 驚愕に目を見開いたのはシェーラだ。まさか、この一瞬を狙っていたとは。シェーラはすぐさま腕を引き抜こうとしたが、ハーヴェイがそれを許さなかった。
「お返しだ!」
 ハーヴェイは剣の柄で、動けなくなったシェーラの顔を殴った。相手が女であるという加減はない。シェーラはゼブダの仇なのだ。
「キャッ!」
 したたかに殴られたシェーラは悲鳴を上げた。その拍子に手の力が弛み、短刀<ダガー>を落としてしまう。それに気づいたハーヴェイは、シェーラを突き飛ばした。
「だから言っただろ、お前の動きはすでに見切ったと」
 ハーヴェイは倒れているシェーラに向かって、声がうわずりそうになるのを押さえながら言った。内心では、自分でも信じられないくらいの僥倖だと思っているが、そんなことはおくびにも出さない。
 シェーラは殴られた頬を押さえながら、上半身を起こした。
「よくもやったわね……」
 その目はハーヴェイへの憎しみに燃えていた。シェーラも女を超越した戦士だ。
「観念しろ」
 ハーヴェイはシェーラに広刃の剣<ブロード・ソード>を向けた。
 するとシェーラは、まるでバネ仕掛けのように飛び上がると、一瞬にして立ち上がった。そして、血の混じった唾をハーヴェイの足下に吐く。反抗心の表れだ。
「殺す……」
 シェーラは低く唸るように言うと、突然、身を翻した。ハーヴェイが追おうとしたときはもう遅い。
 シェーラは洞窟内の影に飛び込んだ。
 《影渡り》。
 ゼブダの命を奪ったシェーラの奥の手だ。
 洞窟にハーヴェイ一人が取り残された。死を連想させる静寂が満ちる。しかし、シェーラは逃げてはいない。必ずどこかでハーヴェイを見ているはずだ。
 ハーヴェイは汗ばむ手で剣を握り直した。


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