←前頁]  [RED文庫]  [「吟遊詩人ウィル」TOP]  [新・読書感想文]  [次頁→



吟遊詩人ウィル

死者の復活祭

32.逆転の一撃

 ハーヴェイは一人、剣を握りしめたまま、立ち尽くしていた。
 《影渡り》によって、姿を消したシェーラ。彼女がどこから現れるのか、その気配を懸命に探ろうとしていた。
 だが、洞窟にはハーヴェイ自身の息づかいとドクドクと脈打つ心臓の鼓動しか聞こえてこなかった。シェーラの気配は完全に絶たれている。あたかも時が止まったような、重苦しい空気を感じた。
 まさか、シェーラはハーヴェイとの決着をつけずに、いずこかへ逃げ去ったのか。
 経過する時間とともに、その可能性をもう一度、思い浮かべたハーヴェイであるが、頭の中で、それを打ち消した。そんなはずはない。シェーラは必ずハーヴェイを殺そうとするはずだ。姿は見えずとも、ハーヴェイはシェーラの敵意に満ちた視線がどこからか向けられているのを感じ取っていた。
 総本山を旅立つ前、ウィルやタウロスと、シェーラたち三人が持つ特殊能力について情報交換をしておいた。シェーラの《影渡り》は、影の中に潜り込み、重なり合う影を伝って移動する能力だ。影のあるところならば、どこでも消えたり、現れたり出来る。
 ハーヴェイがいる洞窟内はかなり薄暗いが、影が色濃くなっている箇所はやけにハッキリと区分されていた。
 今、ハーヴェイが立っている場所は、影の濃い部分ではなかった。これならば、いきなり近くへ出現される恐れはない。あとはハーヴェイ自身の影が、他の影と接触しないように気をつけるだけだ。
 また、シェーラは唯一の武器である短刀<ダガー>を落としていた。ハーヴェイから十歩ほどのところ。やはり、影のない場所だ。予備を所持していない限り、シェーラはこれを取り戻そうとするだろう。もし、素手で襲いかかってきたとしても、そこは男と女、ハーヴェイに分があることは明らかだ。
 ハーヴェイは考えた末、落ちている短刀<ダガー>をこっちの物にしておこうと思った。そうすれば、こちらがより有利になれる。
 影に気をつけながら、ハーヴェイはシェーラの短刀<ダガー>に近づいた。もちろん、周囲の警戒も怠らない。
 シェーラは──現れなかった。
 ハーヴェイは短刀<ダガー>を踏みつけた。そして、もう一度、周囲を見回す。
 ──と。
 その刹那、背後で石が崩れたような音が微かに聞こえた。ハーヴェイは反射的に振り向く。だが、それはシェーラのフェイクだった。
 ハーヴェイは殺気を感じた。それも予想していなかった方向から。
「──っ!?」
 上だ。
 暗闇に閉ざされた洞窟の天井から、シェーラはハーヴェイの真上に飛び降りてきた。ハーヴェイはそれを避けようと、地面に転がる。それをかすめるようにして、シェーラが降り立った。
 もし、シェーラに気づくのが遅れていれば、ハーヴェイは頭をかち割られていたか、肩を砕かれていたかもしれない。間一髪の回避だった。
「くそっ!」
 頭上からの出現を予測していなかったハーヴェイは悪態をつくと、すぐに振り返って、剣を向けた。
 しかし、すでにシェーラは足下の短刀<ダガー>を拾い上げた後だった。微笑みすら浮かべている。
「返してもらうわよ」
「このぉ!」
 あっさりと短刀<ダガー>を取られてしまい、ハーヴェイはカッとなった。つくづく自分の甘さがイヤになる。それを挽回しようと、広刃の剣<ブロード・ソード>を振り回した。
 突っかかってくるハーヴェイに対し、シェーラは余裕を持っていなした。先程は不覚を取ったが、ハーヴェイの動きなどとっくに見切っている。まるで軽やかにステップを踏むようにして後退した。
 頭に血を昇らせていたハーヴェイだが、それがいきなり、サッと冷めた。いつの間にかハーヴェイは影の濃い部分に誘い出されている。シェーラの罠だ。しかし、気づいたときは遅かった。
 不意にシェーラの身体が沈んだ。影に身を滑り込ませたのである。《影渡り》。
「チクショウ!」
 ハーヴェイはそれに構わず、影の範囲から逃げ出そうと、身を翻した。しかし、シェーラがそれを許さない。
「どこへ行くつもり?」
 ハーヴェイの目の前にシェーラが現れた。地面から首だけ出して。
 そのシェーラの頭をハーヴェイは叩き割ろうとした。
「やああああああっ!」
 だが、それよりも早く、シェーラの短刀<ダガー>が地面から出現した。刃がハーヴェイの右の足の甲を刺し貫く。
 ザクッ!
「ぐわあああああああっ!」
 ハーヴェイは悲鳴を上げた。短刀<ダガー>はハーヴェイの足の裏まで貫いている。激痛から逃れようと、ハーヴェイは必死に剣を振り回した。
 腕を切断される愚を犯さず、シェーラは短刀<ダガー>を素早く引き抜くと、再び影の中に消えた。またしても気配が絶たれる。
 その場に立っていられなくなったハーヴェイは、その場に倒れ込んでしまった。なにより負傷した足で自分の体重を支えることができない。苦痛のうめきを上げた。
 まさに、それこそがシェーラの狙いであった。動けなくなったハーヴェイをゆっくりと切り刻むつもりなのだ。ハーヴェイは、まだ影のテリトリーの中にいた。
 何とか影から離れなければ。ハーヴェイは歯を食いしばって身を起こした。這うようにして、その場から逃れようとする。
 もちろん、それをシェーラが黙って見過ごすわけがなかった。
「逃がしゃしないよ!」
 シェーラの上半身がハーヴェイの左側に現れた。短刀<ダガー>を大きく振るう。
 シュッ!
 ハーヴェイはとっさに反対側に転がるようにして避けた。うまく回避したつもりだったが、ちょうど脇の下あたりを斬られる。それでも足のケガに比べれば、大したことはない。
 しかし、ホッとする暇もなく、転がった方向には、すでにシェーラが待ちかまえていた。神出鬼没。どうやら《影渡り》のスピードは、普通に走るのよりも速いらしい。これでは逃げ回るのも困難だ。
「ジタバタするんじゃないよ!」
 顔めがけて振り下ろされた短刀<ダガー>を、ハーヴェイは両手でかばうようにした。
 ジャッ!
 左腕がやられた。無事な右腕を動かし、闇雲に剣を振るう。もちろん、シェーラには当たらない。いつの間にか、また消えていた。
 それから影の中で、ハーヴェイは、散々、なぶられた。転がって逃げる先に現れては、傷ついた獲物を殺さない程度にいたぶるシェーラの嗜虐性は異常とも言える。ハーヴェイはたちまち血塗れになった。
 それでもハーヴェイが武器である広刃の剣<ブロード・ソード>を握りしめていたのは僥倖であった。おびただしい出血で気を失いかけるが、懸命に戦意を奮い起こさせる。このまま殺られるわけにはいかない。ハーヴェイはゼブダを始め、シェーラによって殺された人々──マトス、ピエル、ソーマ──の無念さを背負っているのだ。
「しぶといね。いい加減、終わりにしようじゃないか」
 遊びに飽きたのか、シェーラが無感情な声で告げた。ハーヴェイはいよいよだと覚悟する。
 シェーラがゆっくりと影の中に沈んでいった。それを見届けるより早く、ハーヴェイは腹這いのまま、明るい場所へと急ぐ。影のあるところでは、シェーラの《影渡り》が発揮され、一方的にやられるだけだ。ここから出られれば。
 影のないところへ。ハーヴェイは最後の力を振り絞り、傷ついた手足を動かした。
「まだ、そんなに動けるとはね、大したものだよ!」
 シェーラの声がした。しかし、その位置がどこなのか、ハーヴェイにはつかめない。
 あと少しで影から抜け出せる。ハーヴェイはシェーラに構わず、動いた。
「往生際が悪いね!」
 ──殺気。ハーヴェイは仰向けになった。
 キィィィィィン!
 ハーヴェイの上にシェーラがのしかかろうとしていた。かろうじて、短刀<ダガー>を長剣<ロング・ソード>で受け止めたハーヴェイ。ギリギリと歯ぎしりしてハーヴェイに憎悪の眼を向けるシェーラの顔が目の前にあった。
「死にな!」
「だ、誰がお前なんかに!」
 ケガのせいで二の腕に力が入らない。ハーヴェイが押された。
「ふん! 私に《影渡り》がある限り、アンタに勝ち目はないよ!」
「そんなことはない! お前が現れる場所は分かっていた!」
「何を!?」
 ハーヴェイの言葉に、シェーラはハッタリだと思った。《影渡り》が見破られるわけがない。しかし、確かに今のハーヴェイの動きは、シェーラの攻撃を予測してのものに思える。でなければ、どうしていきなり仰向けになったのか。少なからず動揺した。
 そんな心の揺れを見透かしたかのように、ハーヴェイは渾身の力でシェーラを跳ね飛ばした。シェーラは仕留め損なったことに舌打ちし、また影の中に身を隠す。
 一方、体中に傷を受けたハーヴェイに残された力は、あとわずかだった。緩慢な動きでゴロンと転がり、ようやく影のテリトリーから脱出する。息づかいがせわしかった。
 ハーヴェイはそのまま気絶しそうになるところを堪えて、立ち上がろうとした。ハーヴェイの体が地面から離れて、その背後に影を作り出す。そこから、ヌッとシェーラが現れようとしていた。
 ハーヴェイは朦朧としているのか、シェーラの出現に気づかない。
 ──今度こそ最期だ。
 シェーラはハーヴェイの首を掻ききろうと、右手の短刀<ダガー>を持ち替えた。
 ドッ!
 刃が突き立てられた。
「なっ……!?」
 信じられぬといった様子のうめき声。
 刃を突き立てたのは──ハーヴェイだった。
 ハーヴェイは後ろも振り返らずに、シェーラの腹部に長剣<ロング・ソード>を刺していた。
「ば、バカな……!」
 どうして自分の現れる場所が分かったのか。シェーラは驚愕の目を見開いた。
「だから言っただろう……オレにはお前が現れる場所が分かっていると」
 ハーヴェイは広刃の剣<ブロード・ソード>を強く握りしめながら言った。
 シェーラの手にかかった者たちは、病床のソーマ師を除き、皆、背後から首を掻き斬られて死んでいた。それがシェーラの手口なのだ。だからハーヴェイは、自分のトドメを刺そうとするとき、必ずシェーラが後ろに現れると読んでいた。そして、事実、シェーラはその通り、背後の影から現れたのである。
 シェーラはハーヴェイの一撃によって倒れた。ハーヴェイは、ウォンロンの街を恐怖に陥れた女暗殺者を振り返る。
「やりましたよ、ゼブダさん……」
 同僚の仇を討つことができて、ハーヴェイはようやく満足そうな笑みを浮かべた。
 しかし、それが限界だった。気を緩めたハーヴェイは、シェーラに折り重なるようにして倒れ込んだ。


<次頁へ>


←前頁]  [RED文庫]  [「吟遊詩人ウィル」TOP]  [新・読書感想文]  [次頁→