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時を同じくして、《死者の門》より離れた場所で気絶していたロキとダグの肉体に刻まれた刻印もまた、光を発していた。それはまるで二人の肉体から生命を吸い取ろうとするかのような禍々しき輝き。その身を裂くような苦しみに、どちらも意識を失っていたはずのロキとダグの眼がカッと見開かれた。
そして、それは《死者の門》を前にしているシェーラも。
「シェーラ! シェーラ!」
リサは何度もシェーラの名を呼んだ。実の姉かも知れない名を。
だが、それ以上のことをリサは何もできなかった。ただ、シェーラの魂が魔法陣の中心へ吸収されていくのを為す術なく見ているしかない。無力な自分とシェーラの無念さを胸に、リサは滂沱の悲涙を流した。
そんな悲しむリサを、シェーラの濁った瞳が凝視していた。
やがて三つの魂が完全に吸い出されると、《死者の門》を形成する魔法陣の輝きに変化が生じた。封印の解除を行ったチャベスが《死者の門》から後ずさる。光は魔法陣から垂直に伸び、まるで柱のように見えた。
「出よ! 暗く凍てつく地の底より!」
チャベスは両手を広げて呼びかけた。それに応えるように、何かが魔法陣から出現しようとする。それにともない、足下から地面が突き上げるように震え始めた。
一度は、天井から降りかかる土埃に頭上を見上げたリサだったが、魔法陣から得体の知れないものが姿を現しつつあるのを見て、目が釘付けになった。何か恐ろしいもの出てこようとしている。直感的にリサは思った。しかし、なぜか目を背けられない。体も金縛りになったようだった。
そうこうしているうちに、魔法陣から巨大な手のようなものがせり上がってきた。手は闇のように黒く、人間の体を一握りで潰せそうなくらい大きい。それがこれから出現しようとしているものの一部だとリサは悟り、おののいた。
手の次には腕が出た。上に伸びた腕は肘のところで折れ曲がると、魔法陣の外へ手をつく。まさに穴から這い出ようとしているところだ。腕を支えにして、いよいよ頭が出た。
そのとき、リサは絶叫した。あまりに恐ろしいものを見て、気が触れそうになる。自我が崩壊しそうになった。
「見るな」
リサの前にウィルが立ちふさがった。いつの間に取り返したのか、シェーラの《影渡り》から脱出するときに外したマントをすでに身につけている。ウィルが壁となり、リサの視界を遮った。
しかし、リサは一瞬だけ見てしまった。地の底より呼び出された邪悪を。それはまるで闇が凝り固まったような巨人だった。
封印から解き放たれた怪物は、今やその全貌を地上に現していた。その姿形そのものは、まるで子供が土塊から作った人形のような感じで驚くべきものではないが、その肉体を成している死を連想させる深い闇を凝視すると、恐怖と不安が抑えられなくなってくる。それは人間の本能がもたらす恐怖だと言っていい。
ウィルのお陰でその呪縛から解き放たれても、リサの震えは止まらなかった。冥界の怪物を見ただけで一気に体温を奪われてしまった気がする。このまま衰弱死してもおかしくなかった。
「しっかりしろ」
リサの顔の前にウィルの美しい顔があった。普通なら、こんな近い距離で接すれば、リサは陶然としていたに違いない。だが、今のリサには、ウィルに対する感情は何ら湧かなかった。魂の抜け殻に等しい。
ウィルは黙って、リサを抱きしめた。その思いもしなかった行動に、リサは失いかけていた自我を取り戻す。目に正気が戻ってくる。同時に、ウィルのぬくもりがリサの冷え切った体を温めた。
互いの鼻が当たりそうなくらいの近さで、ウィルがリサを見つめていた。
「あの化け物は、目にするだけで普通の人間を狂気に陥らせる。死への恐怖が正気を奪うのだ。だから、なるべくヤツを見るな。そして、死の恐怖に打ち勝て」
ウィルに言われ、リサはうなずいた。次第にウィルに抱かれている恥ずかしさが込み上げてくる。
一方、怪物を呼び出したチャベスは、狂ったように体全体で悦びを表現していた。
「ハッハッハッハッハッ! ついに私が新世界の王になるときが訪れたのだ! さあ、冥界の狂王よ! 地上に出て、思う存分、生者の魂を喰らうがいい! そして、旧き世界を壊し、新しい世界の礎を作るのだ!」
だが、怪物はチャベスの言うとおりに動かなかった。チャベスが訝る。
「どうした? 何をしている? 生者の魂はお前の好物だろう?」
そのとき、怪物に異変が表れた。闇が形作る体の表面に何かが浮かび上がる。
チャベスは気圧されたように後ろへ下がった。身の危険を感じる。
次の刹那、怪物の全身に無数の目が開かれた。形も大きさも様々な人間の目だ。それは現世への未練を残す死者のものか。すべての目には生者に対する憎しみと嫉妬に満ちている。その目が一斉にチャベスへ向く。無数の死者の目に見つめられ、チャベスは凍りついた。
「アレを従わせることなど出来はしない」
ぽつりと、ウィルが独り言のように言った。リサはウィルを見る。
「え?」
「十年前、同じようにアレを呼び出した司教も、自分でコントロールできず、結局は餌食になった。アレにとっては、生きている人間はすべて憎しみの対象なのだ」
怪物とチャベスに背を向けながら、ウィルは十年前の繰り返しであると告げた。リサは顔面蒼白になる。では、チャベスは──
「ひいいいいいっ!」
チャベスの悲鳴がした。リサは反射的にそちらを見ようとしたが、ウィルがそれを許さない。腕の力は優しくも強く包み込み、リサにショックを与えないようにした。
怪物の手がチャベスへ伸びた。その手の平にもたくさんの目がついている。チャベスは逃げようとしたが、先程のリサと同じように金縛りにあっていた。やがて、目がすべて閉じられたあと、今度は手の平一杯に大きな人間の口が開いた。
「うわっ、うわっ、うわああああああああああっ!」
チャベスは頭から食べられた。巨大な口はチャベスの上半身だけを呑み込み、そのまま己を解放してくれたはずの恩人を持ち上げる。だが、ウィルの言うとおり、怪物にその認識はない。チャベスは命乞いをするかのように、必死に足をバタつかせた。しかし──
ばきばきっ! ぐちゃっ! ごくっ!
骨が噛み砕かれ、肉がちぎられ、咀嚼して嚥下される生々しい音が、洞窟に響き渡った。それを耳にしただけで、リサは身震いを覚えた。チャベスが食べられている。その光景を想像せずにはいられなかった。こうしてウィルに抱きしめていられなければ、頭がどうにかなっていたかもしれない。
すぐに食事の音が止んだ。冥府魔道の怪物は、チャベス一人を屠っても物足りない様子だった。怪物の体を形作っているものは、無数の死者たちだ。彼らを満たすには、まだまだ新鮮な魂が足りない。
次に怪物は、ウィルたちに対しておびただしい目を開いた。今度は近くにいる二人を餌食にしようというのだ。もちろん、ウィルは背中を向けながらも、それを察知していた。
怪物の手がウィルたちへ伸びた。巨大な影が覆い被さってくる。
「ヴィム!」
ウィルは飛行呪文を唱えた。リサを抱いたまま、黒いマントが翼のようにはばたき、軽やかに飛翔する。ウィルたちは怪物の指の間をすり抜けた。
獲物に逃げられ、怪物は一瞬、手の動きを止めた。まるで戸惑いを覚えたかのようだ。無数の目がウィルを追いかける。
「しっかりとつかまっていろ」
ウィルは腕の中のリサに言った。そして、リサの両腕がしっかりと首へ回されたのを確認してから、左手を放す。その手は怪物に向けられた。
「ヴィド・ブライム!」
ウィルの左手から真っ赤な火球が発射された。火炎系の強力魔法ファイヤー・ボール。
ドォォォォォォォォン!
怪物の頭部にファイヤー・ボールが炸裂した。堅固な城門すらも吹き飛ばす攻撃魔法の直撃だ。
にもかかわらず、怪物は小揺るぎもしなかった。そのまま無造作に手を伸ばしていく。ウィルは怪物の頭上を旋回するようにして、さらにファイヤー・ボールを連射した。
ドン! ドン! ドン! ドン! ドン!
火球はすべて怪物に命中したものの、ダメージは皆無だった。そうこうしているうちに怪物の指がウィルを掠めそうになる。ウィルは加速して、怪物から逃れた。
しかし、いくら逃れようとも、この巨大な地底空洞に出口はない。すぐに方向転換しなければならなかった。
「ウィルさん、私を降ろしてください!」
自分が足手まといではないかと思い、リサが請う。しかし、ウィルはそれを却下した。
「危険だ」
「でも……」
ウィルの魔法攻撃が通用しない以上、残された手はひとつ。《光の短剣》による直接攻撃しかない。だが、こうしてリサを抱えたままでは、《光の短剣》を抜いて怪物に斬りつけるのは難しいと思われた。リサの言うとおり、彼女を降ろすしかないのだが。
ウィルのスピードを捉えきれない怪物は、次の行動に移った。闇がうごめき、人型の形が崩れ始める。すると無数の目一つ一つが分離するように飛び出した。
ビュビュッ! ビュッ! ビュビューッ!
怪物は今や巨人の姿を捨て去り、目玉を中心にした小さな黒い鳥の群れのごとく、ウィルに襲いかかった。ウィルはリサの身を守りつつ、その群れの攻撃にさらされる。ウィルの氷のような美貌が歪んだ。
「ディル・ディノン!」
苦しそうに呻きつつも、ウィルはマジック・ミサイルの上位呪文を唱えた。ウィルを中心に全方位へ魔法の光弾が発射される。襲いかかる怪物の分身を迎撃した。
シュババババババババッ!
さすがに力を分散させたからか、今度はウィルの魔法も効果があった。群れをなす目玉が次々に潰れていく。ウィルを包み込もうとしていた群れの動きも乱れた。
間髪を入れず、ウィルは黒い群れの中を突破した。怪物の分身たちは再び一つに集まろうとする。
「ヴィド・ブライム!」
もう一度、巨人になる前に、ウィルはその中心に向かってファイヤー・ボールを投じた。紅蓮の炎が膨張し、一気に破裂する。
ゴオオオオオオオオオッ!
灼熱が集まりつつあった多くの目玉を灼いた。
最後のファイヤー・ボールが功を奏したのか、巨人の再構成は行われなかった。リサはウィルの胸の中で安堵の吐息をつく。
しかし、それには、まだ早かった。突如としてウィルたちの前方に、黒い影が立ちふさがる。回り込んで行く手を遮った怪物の分身だ。
それらはアッという間に巨人を形作った。ウィルは空中で急停止する。
そのとき、運悪くリサは怪物を見てしまった。
「──っ!?」
怪物の胸の辺りに、巨大な一つ目が現れた。その目がリサを凝視する。リサは自分の意識がその目に吸い込まれるような感覚を受けた。
死への恐怖と絶望がリサを襲う。
次の刹那、リサの全身から力が抜け、ウィルにしがみついていた手が離れた。
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