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あれから一ヶ月。
僧正たちが次々と殺される血なまぐさい事件も、次第に人々の記憶から忘れ去られようとしていた。今、ロハン共和国の首都ウォンロンは、かつての平和を取り戻している。
もっとも、北の僧院を除く三つの僧院では、未だにピエルやマトスたちの後任が決まっておらず、とりあえずの代行が立っているような状況だ。大僧正のイゴールと北の僧院のヤン、そして今回の事件で功績を残し、修行僧<モンク>から僧侶への昇格が決まったタウロスを含めた数名は、その選出に忙殺されていた。
そして、南の僧院の小さな一室では、粛々とした呪文の詠唱が、長時間に渡り、延々と続いていた。
一ヶ月前、父のピエルがしたのと同じように、リサが聖魔術<ホーリー・マジック>を唱えているのだ。
部屋の中央にある寝台に横たわっているのは、そのときと同じくウィルだった。この一ヶ月の間、毎日、朝夕の二回、リサから治癒魔法を受けるのが日課だ。《死者の門》での戦いで、ひどい損傷を受けたウィルの右腕は、リサの献身的な介護と聖魔術<ホーリー・マジック>によって、すでにかなりの回復を見せている。完治まで、あと少しと思われた。
「メイヤー!」
奇跡の光がウィルの右腕に吸い込まれると、リサは大きく息を吐き出した。集中力を高めていたせいで、顔はほんのりと上気している。治療を終えたウィルは、寝台の上で身を起こした。
「どうですか?」
リサは尋ねた。もう一ヶ月も顔を合わせているというのに、未だに正視することができない。話すときも、どうしても目は逸らし気味になっていた。そんな彼女の様子に構わず、ウィルは黙って右手を握ったり、開いたりしてみた。
「良さそうだ」
呟くように答えるウィルに、リサは安堵した。実際、自分にウィルのケガを治せるのか、心配でならなかったのだ。しかし、ウィルは北の僧院のヤンをあえて断り、自分を選んでくれたのである。そうである以上、なんとしても治さなければ申し訳が立たない。この一ヶ月間、リサがこれほどまで聖魔法<ホーリー・マジック>に打ち込んだことはなかっただろう。
「どれ、試してみようか」
寝台から立ち上がったウィルは、部屋の隅に置かれた自分の荷物のところまで歩いた。そして、その中から銀製の竪琴を手にする。
この美しき吟遊詩人がここを訪れて以来、リサはまだ《銀の竪琴》の音色を聴いたことがなかった。その持ち主が弦を爪弾く右手を負傷していたのだから無理もない。ウィルとしても久しぶりのことであっただろう。
曲を奏でようとしたウィルだったが、その手はなぜか寸前で止められた。
「どうせなら、聴衆が多い方がいいだろう」
「え?」
ウィルはそう言うと、言葉の意味を測りかねたリサを外へと誘った。
「リサさーん」
二人が外出すると、街中の雑踏でリサの姿を見つけたハーヴェイが、手を振りながら声をかけてきた。リサの方もハーヴェイに気づくと、深々と会釈する。ハーヴェイは好意を示す笑顔を向けかけたが、その隣に黒い旅装束の吟遊詩人がいるのを見て、自然に表情が消えた。
「こんにちは、ハーヴェイさん」
そんなハーヴェイの心中も知らず、リサは屈託のない笑顔を作った。こうなっては仕方がない。ハーヴェイは腹をくくる。
「ご無沙汰しています」
ハーヴェイは駆け寄ると、ウィルを意識しながらもリサに挨拶した。
「こちらこそ。お元気そうで何よりですわ。──あら?」
挨拶を返したリサは、ハーヴェイの制服姿と襟元を見て、声を上げた。そこには衛兵であることを示す記章が輝いている。
「お仕事に戻られたんですね?」
「はい」
官憲に返り咲いたハーヴェイは、ちょっと誇らしげに胸を張った。相棒のゼブダを失ってから漂わせていた悲愴感はすでにない。かつての覇気のある青年に戻っていた。
「どこかへ行かれる途中だったんですか?」
ハーヴェイは、ウィルと連れ立って歩いていたことを詮索するように、リサに尋ねた。リサは持っていた手提げカゴの中身を見せる。そこには途中でウィルと一緒に買った、こぼれんばかりの花々が詰め込んであった。
「父の墓へ」
ウォンロンの共同墓地は郊外にある。リサの父、ピエルはもちろん、この度の事件で亡くなった僧正たちは、皆、そこへ埋葬されていた。リサが墓参りへ行くのは、ウォンロンに帰ってきてから二度目。ウィルは初めてのことだ。その墓前の前で演奏しようとウィルが提案したのである。
それを聞いて、ハーヴェイの顔が少し翳った。ウィルとは反対側に並ぶ。
「自分もご一緒します」
思えば、今回の事件はチャベスの失踪をハーヴェイが担当したことから始まった。最後、ウィルたちと共に《死者の門》へ赴き、悪の元凶が滅ぼされる瞬間に立ち会うことは出来たが、それまでに多くの犠牲者を出してしまったことはとても遺憾である。いつかは彼らの墓前を訪れなければならないと思っていた。
三人は揃って共同墓地を訪れると、銘々、冥福を祈った。生前、街の人たちから慕われてきたピエルの墓には、すでに埋もれそうなくらいの量の花が手向けられている。それは他の僧正たちの墓標も同様だった。
やがてリサが、マトス、ソーマ、オラフの墓にも祈りを捧げ終わったのを見計らって、ハーヴェイは口を開いた。
「何もかもが終わったんですね」
「え、ええ」
リサの返答に曖昧なものを感じ、ハーヴェイは引っかかりを覚えた。
「どうかしましたか?」
「いえ、別に……」
リサは暗い表情を見られまいと顔を背けながら言葉を濁した。そして、改めて父ピエルの墓へ向き直る。
地下空洞でチャベスが語った過去。それは十年前、生き別れになったシェーラの妹──エルチを、どうやらピエルが引き取ったらしいという内容だった。ひょっとして、自分はピエルの実の娘ではなく、本当はシェーラの妹なのかもしれない。それを想像すると、リサの心は千々に乱れた。生きていれば年齢的にもリサと重なるし、何よりシェーラが最期、自分に向けてきた、あの眼差しがどうしても忘れられない。あれはまるで自分の愛する家族を見つめるような目だった。もし、そのとおりだとすれば、ピエルはそのことを隠して、自分を育ててきたことになる。
どうしてピエルは、本当のことを語らなかったのか。リサには、父だと信じて敬愛してきたピエルが分からなくなっていた。この一ヶ月、それがリサを苦しめている。
そんなリサの耳に、ふと優しい音色が聞こえてきた。見れば、ピエルの墓の前でウィルが《銀の竪琴》を爪弾いている。今日、ここを訪れたのはこのためであったと、リサは思いだした。そして、これが美しき黒衣の吟遊詩人の演奏なのだと知った。想像していたとおり──いや、想像以上に繊細できれいな音色に心を奪われた。
ウィルが奏でた曲は、なぜか初めてであるはずのリサに聴き覚えのあるものだった。緩やかで心優しいメロディ。リサはそれがどこで聴いたものか思い出そうとするかのように、自然に目をつむった。
不意に記憶が甦る。それは幼き日、父ピエルがリサに歌い聴かせた子守唄であった。どうしてウィルは、そんな曲を選んだのか。いや、そもそも、この子守唄がピエルの歌っていたものと知っていたのか。
リサが懐かしい旋律に身を委ねていると、唐突に昔の光景が浮かび上がってきた。
昔から、ずっと二人きりだった。十年ほど前の南の僧院。母親のいないリサは、父ピエルの男手ひとつによって育てられた。ときには父の友人であるマトスやソーマ、オラフ、そして大僧正になる前のイゴールといった者たちが、リサの面倒を見てくれたものである。皆、父同様にリサを可愛がってくれた。
だからリサは、母親がいないことで淋しい思いをするようなことはほとんどなかった。いつも誰かが近くにいて見守ってくれたし、いつも誰かがリサに手を差し伸べて助けてくれた。リサは周囲の人々から愛情を持って育てられたのだ。
幼いリサがベッドに入ると、ピエルは決まって、この子守唄を歌ってくれた。リサが眠るまでずっとそばに付き添い、その小さな手を握りながら。
いつの間にか、リサの目から涙があふれていた。父の愛に包まれて過ごした遠い日々。リサにとってピエルは、間違いなく父親であり、それ以外の何者でもなかった。
血のつながりが何だというのだろう。シェーラの妹かも知れないということに対し、少しでもピエルを恨めしく思った自分が愚かしかった。ピエルは本当の父親以上に自分を育ててくれたのだ。それは紛れもない真実である。
リサは口から嗚咽が漏れそうになり、手で覆った。ハーヴェイが心配になって、その身を支える。リサはハーヴェイの胸にもたれかかるようにして、声を忍ばせつつ泣いた。
「ありがとう、ウィルさん」
ウィルの演奏した子守唄が終わったとき、リサはお礼の言葉を述べた。これで何もかもがすっきりした気がする。涙を拭ったリサの表情は晴れやかだった。ハーヴェイだけがワケが分からないといった顔をする。
「いや、礼を言わなければならないのは、こちらの方だ」
ウィルはリサによって治療された右手を差し出した。吟遊詩人であるこの男にとって、何よりも大切であるはずの利き腕。リサははにかみつつ、その手をそっと取った。
《銀の竪琴》が陽光を跳ね返した。
「もう一曲、今度はもっと明るいヤツを弾こう。ここにいるピエルたちにも喜んでもらえるような、賑やかな曲をな」
美しき吟遊詩人はそう言うと、これまでリサたちに見せたこともない何とも言えぬ微笑を浮かべ、次の曲を奏で始めた。
それを聴いたリサの心の中は、温かな幸福感に満たされていった。
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