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ガラガサ河の中洲にある地底監獄は、元々あった天然の縦穴を利用して築かれたものである。穴は蛇がのたくったように地中深くまで伸びており、さらに四方八方へ横穴が放射状に走っていた。その穴ひとつひとつに牢をしつらえ、上から蓋をするような形で監獄に仕立てたのは、百年ほど前にガリ公国が建国されたときである。かつては犯罪者が投獄されていたが、現在はダクダバッド共和国と戦ったガリ騎士団の多くが閉じこめられていた。
スカルダ総督の命により地底監獄の責任者となったブローダー・オルションは、頭に白いものが混じり始めた老騎士であった。今や戦働きは望めないものの、その愚直なまでの実務能力をスカルダに評価されてのことである。ブローダー自身も、ジノの街で解放軍の荒くれどもを相手にするよりは遙かにいいと、その仕事に満足していた。
ところが、この一週間ほどの間、ブローダーの毎日は緊張の糸が張りつめたものへと変わっていた。それはスカルダ将軍より、解放軍が地底監獄の囚人たちを助け出そうとする動きが見られると伝えられたからだ。
地底監獄に収容されているガリ騎士団の囚人は約千名。それに解放軍が迎合すれば、三千人のダクダバッド駐留軍とまともに戦えるだけの脅威になり得る。何としても、最悪の事態は阻止しなくてはならなかった。
ブローダーは解放軍の襲撃に備えて、地底監獄の跳ね橋を、常時、上げておくことにした。この跳ね橋さえ上げておけば、ガラガサ河を渡る手段は船しかなくなる。しかもガラガサ河は流れが速く、中洲の周囲には人が歩くにも危険な岩場が多いため、船からの上陸も難しい。とりあえず橋を上げている間は安全だと言えた。
唯一、危険な瞬間が訪れるとすれば、橋を下ろしたときだ。さすがに囚人の護送や物資の搬入などがあるため、一日中、橋を上げているわけにもいかない。そのときばかりは跳ね橋を下ろさねばならなかった。
一応、スカルダ将軍には、地底監獄の警備に人員を割いてもらえるよう依頼している。今もジノの南方ガラガサ河周辺では、三百騎の部隊が、随時、哨戒任務を怠っていなかった。跳ね橋を下ろしている間の不意討ちさえなければ、容易く侵入できる地底監獄ではない。
北の方角に見えるジノの街を眺めながら、ブローダーはいつになったらこの緊張状態から解き放たれるだろうかと、そればかりを考えていた。そこへブローダーの副官であるオラン・ホルストがやって来る。まだ二十代半ばのオランは、ブローダーと違って、こんな監獄勤めに嫌気が差していた。
「ブローダー殿、いつまでこうしているのです?」
オランの口調には明らかな苛立ちがあった。解放軍の襲撃を待つしかないのはブローダーと同じだが、オランの場合は少し違う。
「囚人など殺してしまえばいいじゃありませんか。どうせ、我がダクダバッドには何の益ももたらさない連中なのです。解放軍に迎合されるくらいだったら、いっそ後顧の憂いを断ってしまった方が──」
「オラン」
普段は温厚なブローダーだが、このときばかりは厳しい表情でオランを振り返った。父と子──いや、祖父と孫ほども離れた副官をいさめる。
「そなたは武器も持たぬ者たちを殺してもいいと言うのか? 確かに、彼らは我らにとっての敵。そなたの言うとおり、どんなに長くここへ閉じこめておこうとも、彼らが我らの味方になることはないだろう。しかし、戦いでもないのに無益な殺生をして、騎士の面目が保てようか? オランよ、そなたも誇り高きダクダバッドの騎士であるならば、そのような卑劣な行為を口にするな。戦争にだってルールはある」
老騎士ブローダーに叱責されたオランであったが、まったく反省の色を見せなかった。むしろブローダーへの反感が募る。オランはまだ若く、こんなところでくすぶっていることが我慢ならないのだ。
「ブローダー殿は甘すぎます! 敵に刃を向けられてからでは遅いのですぞ! まったく、ガリ公国を滅ぼしたコールギン将軍が――いや、現総督のスカルダ将軍でもいい! 彼ら全員の処刑命令さえ下してくれれば、こんな小さな監獄など無用なのに!」
オランは毒づくと、肩を怒らせながら立ち去った。ブローダーはやれやれと頭を振る。
すると、
「橋を下ろすぞー!」
と合図する兵士の大声が聞こえた。ほどなくして地底監獄の跳ね橋がゆっくりと下ろされる。ブローダーはガラガサ河の対岸に目をやったが誰もいない。おそらく、こちらから誰かが渡るのだろう。
跳ね橋が降りきると、一台の大きな荷馬車が出て行くところだった。御者台では少年がこちらを振り返りながら手を振っている。食料のパンを運んできたジノの少年だ。何でもいつも運んでいた父親の具合が悪くなったとかで、この一週間ばかり、地底監獄に出入りしている。
「おい、坊主! 明日はもっとうまいもんを頼むぜ!」
見張りの誰かが、ふざけ半分にパン屋の少年に声をかけた。このところ、ずっと監獄に詰めていたせいで息抜きも出来ず、唯一の楽しみといったら少年が運んでくる食料くらいしかないからだろう。少年は愛想笑いを振りまきながら、それに応じた。地底監獄の看守と囚人に、毎日、パンを届けているのだ。武力侵攻してきたダクダバッドへの恨みはあるだろうが、今はこれ以上ないお得意さまでもある。兵士たちも、そんな屈託のない少年を可愛がっていた。
もちろん、子供とはいえ、ガリの人間である以上、出入り時のチェックは厳しく行っている。荷台に誰か潜んでいないか、ブローダーは徹底的に調べるよう兵たちに命じてあった。今のところ、少年に怪しいところは見られない。
少年の荷馬車が対岸に到着すると、再び跳ね橋は上げられた。この隙を突いて、解放軍が襲ってくるかと心配されたが、どうやらその気配はない。ブローダーはひとまずホッとすると、中へと戻った。
その光景を遠くから観察していた者がいた。解放軍のトニーと、先日、仲間に加わったばかりの傭兵マインだ。彼らは哨戒部隊に見つからないよう身を隠しながら、地底監獄を見張っていた。
「やっぱり、襲撃するなら、あの跳ね橋が降りたときしかねえな」
トニーの横にいたマインが、いきなりごろんと横になりながら言った。ハッキリ言って、もう張り込みは飽きたといった感じだ。一応、新米ということでトニーと組まされたのだが、その任務態度は不真面目であった。
「マイン。地底監獄ばかりじゃなく、ちゃんと周囲にも注意してくれよ。ダクダバッドの連中に見つかったら大変だからな」
新米のマインに対し、トニーは先輩面をした。これまで一番下だっただけに、少し一人前になった心持ちになっている。
それに対して、マインがギロリと目を剥いた。
「おい、誰に向かって言ってやがる?」
「あぁ?」
トニーはそのとき初めて、マインの方を向いた。目の前に凄んでいるマインの形相。トニーは、さーっと血の気が引くのを感じた。
「い、いや、その……」
「大体、お前、どっちが年上だと思ってんだ?」
「そ、それはもちろん、マインの方が……」
「『マイン』だと?」
「いや、あっ、『マインさん』の方が……」
「だよな。だったら、オレに命令すんな。年上は敬うもんだぜ」
そうマインに断じられ、トニーはしょげ返った。あっさりと立場を逆転されている。
「それにしても、いつまでこうやって見張ってりゃいいんだ?」
「そんなの分かんない──いや、分かりませんよ。とにかくロックさんには、地底監獄を見張るよう言われただけなんですから」
トニーも、もっと違う仕事がしたかった。いつまでも使い走りでは嫌気が差す。
「男爵は本当に地底監獄の囚人たちを救出するつもりなのか? 一体どうやって?」
マインが何気なく尋ねた。しかし、トニーは首を傾げる。
「さあ。オレも男爵には会ったことないですし、詳しい作戦内容も聞いてませんから。でも、男爵はすごい人ですよ。常にオレたちを勝利に導いてくれる」
「勝利にねえ。今回もそうだといいんだが」
少しお喋りが過ぎたようだ。二人が気を緩めたせいで、ダクダバッド兵の接近に気づくのが遅れた。
おそらく哨戒中の小隊だったのだろう。五人のダクダバッド兵が馬に乗って、トニーたちの方へやって来た。
「おい、お前たち! そこで何をしている!?」
ダクダバッド兵はすでに剣を抜きながら詰問を浴びせた。解放軍の出現に備えて、この辺をパトロールしていたのだ。帯剣していたトニーたちを発見し、怪しむのは当然である。
トニーは首をすくめた。剣を持ってはいるが、相手は五人。トニーの腕前では、とても切り抜けられそうにない。
そのトニーの前に出て、仁王立ちしたのはマインだ。不敵な笑みを浮かべ、背中の段平に手をかける。
「そういや、解放軍に入れてもらった手土産がまだだったな」
「やはり貴様、解放軍か!」
ダクダバッド兵たちは色めき立った。しかし、マインは五人もの相手を前にしながら、少しもひるまない。
「だったら、どうだって言うんだ? 悪いが、オレは今、物凄く退屈していたんだ。ちょっとやそっとの運動じゃ物足りねえぜ!」
スラリと大きな段平をマインは抜いた。ダクダバッド兵は固唾を呑む。見たこともない巨大な武器だった。これなら一刀のもと、馬もろともダクダバッド兵を両断することなど造作もないに違いない。
「さあ、誰から来る? いいぜ、どっからでも。死にたいヤツから来な!」
マインは段平を軽々と扱い、戦いの火蓋が切られるのを今や遅しと待ちかねた。
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