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その夜、ブローダーはなかなか寝つけなかった。
ベッドに潜ってから、何度、寝返りを打っただろうか。ブローダーはすっかり疲れ果て、とうとう上半身を起こした。水が飲みたい。ブローダーは汗ばんだ体を不快に思いながら、枕元に置いた水差しに手を伸ばした。
夕刻に、哨戒任務中だったダクダバッド兵五名が惨殺されたという報告が入った。おそらくは地底監獄の周囲をうろつく解放軍を発見し、返り討ちにあったのだろう。解放軍は間違いなく、地底監獄の囚人たちを救い出そうとしている。しかし、それは一体いつ行われ、どのような方法によるものなのか。単なる力押しでは、到底、成功するとは思えなかった。
ブローダーは口に水を含んだ。こんなことばかりを心配しているから寝つけないのだ。ブローダーは考え事を振り払って、再び横になろうとした。
そこへ慌ただしい足音が聞こえてきた。切羽詰まった様子だ。ブローダーは扉を振り返った。
「ブローダー殿、大変です! 囚人たちが脱獄しました!」
「何だと!?」
にわかには信じ難かった。鉄格子には、必ず鍵がかけられている。その管理は徹底されているはずだ。
ブローダーはベッドから立ち上がると、すぐに身支度を始めた。
最初の囚人が牢獄を抜け出したのは、これより少し前のことだ。
就寝時間になり、ようやく今日も何事もなく終わるかと思われた深夜、突如、囚人たちが騒ぎ出した。
これまでも牢獄から出せというヤケっぱちな大合唱はあったが、すでにムダだと悟ったのか、このところ大人しいものであった。それが急にである。当然、看守たちは囚人たちを厳しく律しようとした。
長槍<ロング・スピア>を持ちだし、それを格子の隙間から突き出して、黙らせようという手であったが、看守が牢屋に近づくや、いきなり鍵をかけていたはずの出入口が開き、中から囚人が飛び出してきた。
これには看守たちも驚いた。まさか出入口の鍵が開いていたとは夢にも思わない。不意を突かれたことによって、看守たちの初動は遅れた。
あとは数に優る囚人たちによって、瞬く間に武器と牢屋の鍵を取り上げられた。かねてより打ち合わせてあったのか、囚人たちは手際よく看守を牢屋に放り込むと、奪った鍵で次々と仲間を助けていく。その手には、どこで入手したものか、小さな刃物まで握られていた。
地底監獄に詰めている看守は五十名に満たない。それに対して、囚人は約千名ほど。地下から雲霞のように押し寄せてくる囚人たちに、看守であるダクダバッド兵は為す術もなかった。
「オラン、状況は!?」
武装を整えたブローダーが、地上への出入口で懸命に指揮する副官のオランに尋ねた。オランは鬼のような形相だ。
「ヤツらは次々と仲間を解放して、この出口へと殺到してきています! とても防ぎ切れぬものではありません!」
「ぬう……」
ブローダーは呻いた。てっきり解放軍は、外から囚人たちを救出に来るものとばかり考えていたのだが、よもや内部で暴動が起きるとは。これが解放軍による当初からの作戦だとすれば、まんまと裏をかかれたわけだ。跳ね橋は上げられたままで、救援を乞うには時間がかかりすぎる。
「だから囚人たちなど殺しておけばよかったのです!」
自分の意見を聞き入れなかった上司に、オランは当たり散らした。そんなことをしている間にも、地上への出口を塞いでいる落とし戸が破られようとしている。足下から地響きが伝わった。
ブローダーは意を決した。
「長くは保たんな。──オラン、ここにいる者たちを率いて、総督府へ撤退するのだ! ここでムダに命を散らしてはならぬ!」
「ブローダー殿はどうされるおつもりか?」
「私は囚人たちの脱走を許した責任を取る」
そういってブローダーは、自らの剣を抜いた。オランはハッとして、老いた上官の顔を見つめる。
「ブローダー殿、死ぬおつもりですか?」
「老いたとはいえ、このブローダー、囚人の十人や二十人──いや、四、五十人は葬ってくれようぞ」
「なりません! 脱獄した囚人どもは頭に血が昇り、刃向かう者には容赦しないでしょう! いくら連中に恩義をかけてやったとしても、それで許すはずがありません!」
オランは死を覚悟した老騎士を説得しようとした。だが、ブローダーは首を横に振る。その顔は穏やかですらあった。
「いいのだ、オラン。私に出来ることといったら、それくらいしかないのだからな。だが、貴公はまだ若い。これからがある。生き延びて、総督閣下のお役に立て」
「ブローダー殿……」
オランは初めてブローダーの気高さに心打たれた。これまでご老体と侮り、礼を欠いてきたことが悔やまれる。
「さあ、跳ね橋を下ろせ! そして、一刻も早く総督閣下にこのことをご報告しろ!」
ブローダーは兵に命じた。上官の命令に跳ね橋が下ろされる。オランは目頭が熱くなった。
そんなオランにブローダーは肩を叩いた。
「おそらく、ここを放棄する我らを解放軍が待ち受けているはず。無理に戦おうとするな。オラン、くれぐれも皆のことを頼むぞ」
「はい」
中洲から対岸への橋が出来上がると、オランは残った兵をまとめて、総督府がある北へと急いだ。途中、全員が地底監獄を振り返り、ブローダーに向かって最敬礼をする。ブローダーも敬礼を返した。
木が粉々に砕ける音が轟いたのは、次の刹那だった。とうとう出入口である落とし戸が破られたのだ。ブローダーは剣を構えた。
「亡国の囚人ども、よく聞け! 我はダクダバッド共和国の騎士ブローダー・オルション! お前たちをここから一歩も通さん! 命が惜しくば、自分の牢屋へ戻れ!」
半年ぶりに地上の風に当たった囚人たちは、たった一人で立ちふさがる老騎士を血走った眼で見つめた。手には看守から奪った剣や槍、そして、どこからか持ち込まれた小さな刃物が握られている。どんな豪傑であろうとも、これだけの人数を相手にすることは不可能だった。
すると囚人たちの中から長槍<ロング・スピア>を手にした男が進み出た。ブローダーは見覚えがある。かつてガリ公国で騎士団長の片腕だった男だ。名は確かコルナス・パガーノとかいったか。半年前の戦闘で騎士団長がいない今、囚人たちのリーダーとなっているのは彼である。
「ブローダー殿。貴公こそ降服したらどうだ? 私は貴公の温情を忘れない」
看守の長であったブローダーは、敵であり、囚人であるはずのコルナスたちを、不必要に虐待したりはしなかった。狭く暗い地底監獄へと押し込まれたが、それ以外の扱いは人道的だったといえる。それゆえ、コルナスは無用な殺生をしたくなかった。
しかし、ブローダーはそれを受け入れなかった。
「フン! このブローダーが怖じ気づくとでも思ったか! 老いたとは申せ、我はダクダバッドの騎士であるぞ! やあああああああっ!」
ブローダーは剣を振りかざしてコルナスに斬りかかった。コルナスは手にしていた長槍<ロング・スピア>に力を込める。
「皆の者、手出し無用! はあああああああっ!」
ドッ!
コルナス渾身の突きは、見事、ブローダーの腹部を貫いた。老騎士はカッと目を見開き、吐血する。
「ぬっ……な、なんの……まだ……」
ブローダーは長槍<ロング・スピア>に貫かれながらも、まだコルナスへ向かっていこうとした。コルナスは歯を食いしばって、さらに深く長槍<ロング・スピア>を突き入れる。
ズッ!
前へ進もうとするブローダーの足が止まった。コルナスは一気に長槍<ロング・スピア>を引き抜く。老人の身体は積み木が崩れるように倒れた。
「ブローダー殿」
コルナスは倒れたブローダーの頭を支えた。そのブローダーの目はうつろで、すでに死相が漂い始めている。ひゅーっという空気が混じった声を絞り出した。
「……騎士としての死に場所を作ってもらい、かたじけない」
「………」
「できれば、異国の地ではなく、祖国で死にたかった……」
ブローダーはそう言い残すと、コルナスの腕の中で息を引き取った。コルナスはそっとブローダーの遺体を横たえ、神への祈りを捧げる。他の者たちも哀悼の意を表した。
やがて、コルナスは立ち上がった。
「地底監獄は我らの手に取り戻した! 今度はジノの街を取り返すぞ!」
コルナスが右腕を突き上げると、大きな歓声が轟いた。
夜明け、地底監獄にはガリ公国の青い国旗が掲げられていた。
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