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久しぶりに女を抱いた。それも極上の女を。
スカルダ将軍は全裸の格好で、ベッドの上に仰臥していた。毛深い胸元は、さっきまで行われていた行為の激しさを表すかのように、せわしなく上下し、肌はじっとりと汗ばんでいる。息遣いがなかなか整わないのは年齢のせいもあるが、これだけ獣のように猛り狂ったセックスも初めての経験だった。
そのスカルダの相手となった女は、今、裸身もあらわに、窓辺で夜風に当たっていた。月の光を受けて、その肉体が青白く輝いて見える。まるで女神のようだ。スカルダは心の底から美しいと思った。
「なぜだ……?」
まだ火照りの収まらない情事の余韻が残る中、スカルダの口から洩れたのは、愛の囁きでも満足でもなく疑念だった。素晴らしい女を抱いたというのに、かえって不安ばかりが湧き起こってくる。女は大の字のままのスカルダを振り返った。
「私は総督の副官です。閣下のお役に立つことが、私の役目ですわ」
堅い印象を与える眼鏡を外し、髪もすっかりと下ろしたセリカが、当然というように答えた。
ベッドの上でのセリカは、いつもの沈着冷静な氷の美貌からは想像できないくらい別人へと変身した。どんな娼婦も及ばないほど淫らな腰使いを見せ、スカルダの精を残らず搾り取ったのである。最初こそ快楽におぼれていたスカルダも、最後の方ではこのまま殺されるのではないかと思った。ダクダバッドの将軍が腹上死では笑えない。
セリカが着任して以来、スカルダはずっとこの有能な副官を警戒してきた。評議会が、突然、送り込んできた女である。ガリの統治がうまくいっていなければ更迭される、そのお目付役だろうと考えるのが普通だ。
ところが、セリカは傍観するのではなく、スカルダのためにしっかりと働いた。解放軍のリーダーである男爵をおびき出そうとしたり、地底監獄の脱走を未然に防ごうとしたのである。いずれも成功には至らなかったが、セリカがいなければ、スカルダはとっくの昔に総督の椅子を失っていただろう。
その反面、スカルダの知らないところで動いている節も見られた。蛮族の青年や女ホビットなど、正規兵ではない直属の手下を使って、何かをしている。その目的は不明だが、そちらがセリカの本命であろうことは明らかだ。
よって、上官と部下の関係から一歩踏み込んで、互いに肌を重ねることになろうとは、スカルダには望外の出来事だった。夜、何の前触れもなく寝室を訪ねてきたのはセリカの方である。酒を飲み交わし、いきなり唇を重ねてきたときは驚いた。
しかし、すでにセリカは情事のことなど忘れてしまったかのように、脱いだ下着を身につけ始めていた。スカルダはそれを遠慮なく眺める。セリカも、それを隠そうとはしなかった。
「このまま閣下はお休みください。私はまだ仕事がありますので」
眼鏡をかけたとき、セリカはいつもの有能な副官に戻っていた。敬礼をし、寝室を出ていく。スカルダは何も言う気力もなく、ただ見送った。
セリカがスカルダの寝室から出ると、そこに小さな影が控えていた。
「見つけてきたよ、男爵の居場所。今、マハールが見張ってる」
「ご苦労様、ベル」
セリカは髪をアップに直しながら、廊下を歩いた。ベルはそのあとをついていく。不思議そうにセリカを見上げた。
「どうかした?」
「いや、人間って理解できないなって思ってさ」
ベルは素直に疑問を口にした。ホビット族は良くも悪くも正直だ。
「セリカは別に総督が好きなワケじゃないでしょ? なのに、どうしてあんなことを平気でしちゃうのよ?」
ベルが言っているのは、セリカがスカルダと寝たことだった。するとセリカは、フッと微笑む。普段、周囲の者には見せない表情。この女ホビットには、セリカも少なからず血の通った反応を見せることがあった。
「そうね。なぜかしら。人間はね、ときどき、無性に人恋しくなることがあるのよ」
セリカの口元は冷笑を浮かべたままだった。ベルは小首を傾げる。
「だからって、その相手があの総督? もっと他にいないの?」
ベルは自分の好き嫌いだけで判断した。ベルはガサツで粗暴なスカルダ将軍が好きではない。セリカの命令でなければ、総督のために働くのは真っ平ごめんだった。
そのとき、一瞬だけセリカの表情がさびしげに翳った。
「いるわよ。私にも大切な人が。──でも、今は無理。こんな遠方ではね。だから、誰でも良かったの。私にとっては、あの方以外は誰でも一緒なのよ」
感傷に浸ったのは、ほんのわずかだった。セリカはいつもの厳しい表情に戻り、長靴を鳴らして廊下を颯爽と歩む。
「行くわよ、ベル。案内して」
「うん」
それ以上、ベルは無駄口を叩かなかった。
やけに静かだと、アレスはとっぷりと日が暮れた外の様子を窺いながら、胸騒ぎを覚えた。
地底監獄の解放から数日後。あれから男爵は、頻繁にアジトを転々とした。一緒に行動するアレスには、どんな考えがあってのことかまでは分からないが、おそらくはダクダバッド軍を警戒しているのだろうと思われる。実際、駐留軍は街の巡回を強化し、あちこちにダクダバッド兵の姿が見られた。これではおちおち外も出歩けない。
ダクダバッドも、地底監獄から千人もの敵に逃げられ、戦々恐々としているのだろう。兵士たちの顔に、これまでないくらいの緊張が見られた。ちょっとでも反抗的な市民を見つければ、すぐに逮捕されてしまう。このままでは解放軍のアジトが発見されるのではないかと危惧された。
それでも男爵は、ロックたちに目立った行動は慎むよう指示を出していた。男爵曰く、この緊張状態は長く続かない。駐留軍が精神的に消耗したときこそ、決起のチャンスだと説いた。
ロックたちは不承不承だったろう。だが、アレスは男爵のことを信じていた。男爵がこの街から、さらにはこの国からダクダバッド軍を追い出してくれると。そして、その日は近いはずだ。
「ウィルは戻ってきたかね?」
部屋に戻ると、フード付きのマントを身につけながら、男爵が尋ねた。アレスは驚く。
「まだですけど──どこへ行かれるんですか?」
アレスは男爵の後ろに回ると、支度を手伝った。
「急で悪いが、またアジトを替える。ウィルにもそのことは言っていないが、彼なら大丈夫だろう」
このところ、ウィルは頻繁に外出しているようだった。アレスが知らないうちに出かけ、いつの間にか戻ってきている。今日は朝から姿が見えなかった。
「ダクダバッドがここを?」
自分の胸騒ぎが的中したのかと、アレスは不安顔になった。そんな少年の両肩に、男爵は手を置いて、目線の高さを合わせる。
「それは分からないが、彼らに動きがあるらしい。ひょっとすると、大々的にアジトの摘発に乗り出すつもりかもしれない」
「そんな……!」
アレスは焦った。現在の解放軍は少人数で各地に散らばっているため、もしもアジトに押し入られたら、多勢に無勢で戦わなくてはいけなくなる。そうなれば多くの同志たちが捕らえられてしまうだろう。
「アレスくん。キミはロックたちにこのことを警告してくれないか? いざというときは無理しないで逃げるように」
「ですが──」
アレスは迷った。今、このアジトには男爵とアレスの二人しかいない。それは男爵の意向だった。不自然な人の出入りをなくすためである。ウィルがいればアレスがいなくなっても平気だろうが、そうでない以上、男爵を一人にするのはためらわれた。
かといって、仲間たちに危機を知らせるのも重要な任務だ。駐留軍とまともに戦えるだけの戦力がそろった今、それをむざむざ失うわけにはいかない。
「お願いだ、アレスくん」
男爵は重ねて言った。いつも男爵はアレスに命令はしない。アレスの意思を尊重しながら、仕事を頼むのだ。
「分かりました……」
男爵のことは気がかりだったが、結局、アレスは従うことにした。
二人は同時に外へ出た。
「じゃあ、あとで落ち合おう、アレスくん」
「男爵もお気をつけて」
アレスと男爵は二手に分かれた。
だが、いくらも行かないうちに、アレスは男爵の身が心配になった。多くの同志たちも大事だが、もし男爵に何かがあったら、それこそ解放軍の存亡に関わる。それを危惧して、アレスは振り返った。
とうに男爵の背中が見えなくなった方向に、アレスは怪しい人影を見咎めた。それは屋根から屋根へと飛び移り、男爵が向かった方角へ移動している。
「男爵!」
アレスは顔色を変えた。そして、走り出す。間に合えと、剣の柄に手をかけながら。
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