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自分の腹を突き破っている剣先をアレスは信じられない思いで見つめていた。鋼の刃は血にまみれ、その赤い滴を地面にしたたらせている。四肢から力が抜けていき、体温が急速に奪われていくのを感じた。
「だ、男爵……」
アレスは前方の敵に気取られて、不覚を取ったことを悔やむと同時に、後ろにいる男爵の身を案じた。ここでアレスが倒れれば、男爵を守る者は皆無になってしまう。男爵には、何としてでもこの場から逃げおおせてほしいと願った。
刺されながらも、必死に倒れまいとするアレスの視界に、ゆっくりとセリカたちが近づいてきた。男爵、逃げて。アレスは懇願を口にしようとしたが、もはや、それも叶わなかった。
せめて男爵の安否を確認しようとしたアレスであったが、振り向くよりも先に意識が混濁した。刺し貫いていた剣が抜かれる。出血がさらに深まったアレスは立っていられなくなり、その場で仰向けに倒れ込んだ。
「アレスくん……」
いつも冷静沈着な男爵が悲痛な面持ちになった。倒れた少年の背中を見つめる。その手に握られているのは、血まみれの細身の剣<レイピア>。男爵を敬愛してやまなかったアレスを刺したのは、誰あろう、その当人だったのだ。
アレスが倒れたところまでやってきたセリカは、剣を手にした男爵を見て、艶然と微笑んだ。
「怖いお人ね。子供まで手に掛けるだなんて。この子、ずっとあなたの身の回りの世話をしてきたのでしょう?」
「私はついてくるように言わなかった。それを守っていれば、こうならなかったものを。これは彼が犯した過ちだ」
男爵の言葉の中には、苦いものが含まれていた。アレスを犠牲にすることは、本意ではなかったのだろう。だが、男爵はそれをあえて選択した。
「では、決心していただけたのですね、男爵?」
「ああ」
セリカの方からは、事前に女ホビットのベルを通して接触があった。用件は明瞭。ダクダバッド側に要職を用意するゆえ、寝返らないか、ということだった。この、とんでもない申し出を、男爵はこともあろうことか、あっさりと了承したのである。
「この戦いで私は気づいてしまった。私の才が戦によって生かされることを。もし、ガリ公国が平和なままであったら、私は誰からも認められることのない人生をただ終えることになっただろう。しかし、私は知った。自分が生きるべき場所を。自分の能力を最大限に発揮することが、いかに充足感を与えてくれるかを。――だが、この戦いに先はない。解放軍がジノを奪回すれば、駐留軍は撤退を余儀なくされ、ガリ公国が再建されるか、新しい国が興るだろう。元々、隣国の支配を望んでいなかったダクダバッドの評議会が、新たに軍を送り込んでくる可能性も少ない。いずれにせよ、しばらくは内政に力が入れられることになる。それはガリの人々にとっては喜ばしいことだろう。しかし、残念ながら、私の居場所はそこにない。私に必要なのは平和ではなく、戦いなのだ」
「分かっております。だからこそ、貴公をダクダバッドに――いえ、コールギン将軍がなさろうとしていることに手を貸してくださらないかと、お願いに参上したのですから」
セリカは単なる本国から派遣されたスカルダ将軍の補佐役ではなかった。スカルダが心配したような監視役でもない。彼女が忠誠を誓っているのは、今は評議会の命によって軟禁状態に置かれているコールギン将軍に対してであった。
「閣下はダクダバッドを変えようとしております。この西方では五大王国が幅を利かせている時代、閣下は一小国に過ぎないダクダバッドをより強く、富める国になさろうとしているのです。ガリ公国への強引な侵攻は、その手始めでありました。ですが、評議会の年寄りどもは、閣下の遠望深慮を、全然、理解していない。それどころか、ガリ公国を自国の領土としたコールギン将軍の功績を罪とし、謹慎を申し渡す始末。もう評議会には、ダクダバッドの未来を任せておけません」
「急激な革新は反発を呼ぶもの。評議会の者たちは五大王国に依存しすぎて、一人立ちしようなどとは思いもしないのだろう」
「というわけで、我々は閣下を旗印にして、武力蜂起を計画しております。もちろん、志を同じにする者は数多おり、これに貴公の知謀知略が加われば、我々も心強い限り」
「その革命が成功すれば、ダクダバッドは五大王国と事を構え、大陸西方に勢力を伸ばしていく、というのだな?」
「いえ。閣下の理想は、もっと遠大です。その御心には、大陸全土の統一という大望さえございます」
「大陸の統一……」
セリカからコールギンの心の内を聞かされ、男爵は身震いすら覚えた。ネフロン大陸の統一。それは《銀黎の時代》が《大変動》によって終わり、《鋼鉄の時代》が約千年続いている中、誰も成し遂げることができなかった偉業だ。西にはブリトン王国やエスクード王国といった五大王国があるし、中央には勇猛な砂漠の王国シャムール王国、そして東には五大王国すらも凌ぐ版図を持つロハン共和国がある。それらを征服、あるいは従属させて、ネフロン大陸を支配しようとは。
普通なら、そんなことは世迷言に過ぎないと一笑に付されるだけであったろう。しかし、男爵は笑わなかった。奇襲とはいえ、ガリ公国をあっという間に攻め落としたコールギン将軍ならば、実現不可能ではないかもしれない。ましてや、それに男爵自身が軍師として加わるなら。
男爵は夢を見た。コールギンとともに軍を動かし、各国を屈服させてゆく自分の姿を。
「素晴らしい」
たとえ大陸の統一が叶わなくても構わない。夢は夢だ。そこにこそ自分の働き場があると確信した。
しかし――
「捨てるつもりか?」
凛とした声が夜気に沁みわたった。その陰としながら心惹かれる声音に、セリカたちはもちろん、男爵もぎくりとする。むしろ、男爵こそが怯えを表情に出していた。
「男爵。この国を――そして、この国のために戦う者たちを見捨てる気か?」
いち早く、声の所在を見つけたのは蛮族の青年マハールだった。駿速の動きで身をひねり、屋根の上に矢を放つ。夜の暗がりもマハールの目には関係なかった。
矢の銀光は闇の中に吸い込まれた。否、闇によって捉われたというべきかもしれない。
男爵は声の主に心当たりがあった。
「ウィル」
闇夜より、わずかに白き相貌が現れた。美しき吟遊詩人だ。その手には、マハールの矢が握られている。
「あれが、多分、ジャニスを斃した魔術師よ」
ベルが素早く隣のセリカに耳打ちした。
「あれが……」
ウィルを見上げたセリカは、そのまま言葉を発することができなくなった。
黒衣の青年は冷然と男爵を見下ろしていた。それは美しい死神に魅入られたのと等しい。男爵は喉元に冷たい刃を押し当てられているかのように固唾を呑んだ。
「う、ウィル、君は部外者だ。ガリの出でも、解放軍の一員でもない。確かに、多少の協力は頼んだが、君はこの戦いに介入するつもりはないと言っていたはずだ」
「その通りだ」
「ならば、私がダクダバッド側につこうと、君に関係はないだろう?」
「それは違う」
ウィルははっきりと言った。
すると突然、マハールが驚異的な身体能力を生かして跳躍した。腰から鉈に似た山刀を抜き、わずかな足がかりを次々と踏み台にして、ウィルがいる屋根へと駆け上がる。
ウィルはマハールが上がってくる前に、自ら跳んだ。空中で二つの影が交差する。その刹那、マハールの首を何かが貫いた。
それはマハールが放った矢であった。すれ違いざま、ウィルがその首に投げつけたものである。容赦のない一撃だった。
屋根へ着地するはずのマハールの身体が、バランスを崩したように落下した。致命傷を負い、命はあるまい。
あまりにも呆気なく有能な手下を失ったセリカは、今度は別の意味で動けなくなった。さすがに手練の妖術師<ソーサラー>だったジャニスを斃しただけのことはある。セリカは生まれて初めて、これまでの常識を覆されるような戦慄を覚えた。
人ひとりをあやめた素振りを露ほども見せず、ウィルは男爵の前に音もなく降り立った。
「ウィル……」
男爵は、この美しき異邦人を前にし、初めて緊張というものを味わった。この男の恐ろしさを今になって知ったのである。そして、すべてが手遅れであることも悟った。
「セリカ、今のうちに!」
ベルがセリカの手を引いて、その場から逃げるよう促した。セリカは魂が抜けてしまったような様子で、それに従う。二人が逃げても、ウィルは追い討ちをかけようとはしなかった。
ウィルと男爵だけが残された。二人はしばらく無言のまま、互いに見つめ合う。
男爵はカラカラになった口を動かした。
「私がダクダバッドへ行くのを君は阻止しようというのか?」
「そうだ」
「なぜだ?」
男爵の問いに、ウィルはマントの下から《銀の竪琴》を見せた。
「オレは吟遊詩人だ。オレがこの街に来たのは、祖国を失った者たちが廃墟の中から立ち上がる歌を作るため。誇りを胸に戦い続ける者を語り継ぐためだ。その歌に、裏切り者の英雄が出てくるのはふさわしくない」
一瞬、男爵は面食らった様子だった。が、すぐに微笑を返す。不思議なことに、黒衣の死神に対する畏怖は嘘のように消えていた。
「ふっ、“裏切り者の英雄”か。なるほど。しかし、ウィルよ。私がダクダバッドへ行けば、もっと壮大で素晴らしい英雄譚を作れるかもしれないぞ。それも史上最高の傑作がな。どうだ、お前が望むなら、私との同行を許してもいいが」
「断る」
ウィルは即座に答えた。それは男爵が予想していたものだったのだろう。意外そうでも、残念そうでもなかった。
「この歌は、オレの詩であると同時に、ガリで戦う名もなき者たちの歌だ。お前の名はガリの英雄として残す」
「そうか」
男爵の顔からは何やら憑き物が落ちたように、すがすがしいものへと変わっていた。そして、まだ握っていた細身の剣<レイピア>を構える。アレスを刺した剣だ。もう後戻りはできない。剣術が苦手と言っていたように、その姿はまったく様になっていなかった。
「死して君の歌に英雄として残るか、生きてコールギン将軍と覇道を歩み、後世の英雄となるか」
「………」
「我が人生に悔いなし!」
男爵はウィルに細身の剣<レイピア>を振るった。
その一撃を難なくかいくぐったウィルは、《光の短剣》を抜いた。
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