吟遊詩人ウィル・叛乱の挽歌　「２４．乱世に立つ」

２４．乱世に立つ

　セリカはガリ公国の首都ジノより、急ぎダクダバッド共和国の首都バスクに戻った。その後、休む間もなく、バスクから少し離れたルシャフという地を訪れる。そこは風光明媚な療養の地として、ダクダバッドの貴族たちに広く知られていた。
　なだらかな山々と目にも鮮やかな森を見渡せる館に、セリカは赴いた。その服装はダクダバッドの赤い軍服ではなく、白のブラウスにベージュ色の乗馬ズボンというカジュアルなものだ。髪もひっつめにはしておらず、自然に流していて、女性らしさがより出ている。彼女にいつも付き従っている女ホビットのベルも連れていなかった。
　館に到着すると、出迎えたのは軍服姿の兵士だった。セリカを見て、いぶかしむような様子を見せたが、来訪の目的を告げると、意外にあっさりと中へ通される。セリカが案内されたのは館の裏手にある庭だった。
　庭といっても、どこからどこまでがそうなのか、明快な境界線はなかった。ただ緑の景色がどこまでも広がっている。ここは別荘地だ。この土地そのものが所有地なのだろう。
　緑の絨毯の上には、小さな白いテーブルとお揃いの椅子が二脚、置かれていた。そこに座って景観を眺めている一人の人物。その者こそ、セリカがはるばる会いにきた相手だった。
「ただいま戻りました、閣下」
　その人物の隣に立ち、セリカは直立不動になった。座っている人物は、セリカを見上げることもなく、ただ右手のワイングラスをゆっくりと回している。誰かが来たことは、緑芝を踏みしめる音で気づいていたに違いなかった。
　それは、まだ閣下と呼ばれるには若そうな男だった。二十代半ばだろう。精悍で覇気に満ち、高い鼻が堀をより深くしていて、右は黄色、左は青色という金銀妖眼＜ヘテロクロミア＞が神秘的な雰囲気を醸し出している。短く刈られた金髪が太陽の光にきらきらと輝いてさえいた。
　この男こそ、評議会に無断でガリ公国に攻め入ったコールギン・ヘスラー将軍であった。
「すまなかった、セリカ。バスクで謹慎しているつもりだったのだが、ゾンバルト将軍にここを勧められてな。この館もゾンバルト将軍のものだ。まったく、何から何まで至れり尽くせりだよ。その分、お前には長旅をさせてしまったな。遠路はるばる、ご苦労だった」
　コールギンはルシャフまで来たセリカをねぎらい、彼女を見上げて、微笑みを作った。セリカも日頃の無表情さは微塵もなく、色づいた花のごとくあでやかに微笑む。
「いいところですわね」
　セリカはコールギンと同じ景色を眺めた。しかし、すぐにコールギンの口元は皮肉に歪められる。まるで見飽きたとでもいうように。
「ゾンバルト将軍が私をここに招いたのは、バスクに置きたくなかったからだ。ここならば首都から離れ、反乱の恐れも軽減されるからな」
　この館に詰めているのは、コールギンの部下ではなく、全員がゾンバルトの直属だ。目立つようにはしていないが、あらゆるところからコールギンを監視しているのは間違いない。セリカも背中に複数の視線を感じていた。
「お言葉ではございますが、閣下。ゾンバルト将軍は閣下のためになされたのだと思います」
　ゾンバルト・フェルンバッハ将軍は、ダクダバッドの四将軍の中でも最古参の人物だ。穏健派で、今回のコールギンの独断専行にも憂慮を示したが、普段は若者の意見に耳を傾けるだけの度量は持ち合わせている。そんなゾンバルトに対して、セリカは好意を持つことはあっても、敵愾心を抱くことはなかった。
　それはおそらく、コールギンも同様だったはずだ。
「分かっている。あの老人は、私がバスクにいれば、余計なトラブルを招く恐れがあると考えたのだろう。特にリガード将軍は私を目の上のたんこぶと思っているようだからな。どんな、どさくさ紛れを企んでいるやら」
　リガード・ラーゲン将軍は、スカルダ将軍と覇を競うように、軍の統率を目論んでいる。現在は老将ゾンバルトがいるので自重はしているが、対立相手のスカルダがガリへ送られ、コールギンも休暇という名目の謹慎処分を受けている今、絶好の機会と捉えていることは間違いなかった。邪魔者の一人であるコールギンにトドメを刺しておこうと考えても不思議はない。
「リガード将軍については、こちらも監視を続けております。どうぞ、ご安心ください。それよりも、今回の任務のことですが……」
　急にセリカは言い淀んだ。ここまでわざわざやってきたのは、その報告のためだが、内容はコールギンを落胆させるものである。必然的に口にするのがためらわれた。
　その一瞬の沈黙に、コールギンは感じるものがあったのだろう。回していたワイングラスを止めた。
「男爵を迎え入れることはできなかったか」
　コールギンの言葉に、セリカはささやかな訂正を入れた。
「いえ。男爵自身は、閣下に忠誠を誓うつもりでおりました。ただ、その直後に命を落としたのでございます」
　セリカは軍師として味方に引き入れるつもりだったボイド男爵の最期について話した。現在のジノの情勢についても。男爵が死んだ夜、同時に解放軍アジトの摘発も積極的に行われたが、その成果は思ったよりも芳しくなかった。どうやら事前にこちらの情報が漏れていた疑いがある。ひょっとすると、いずこかへ消えた流れ者の傭兵マインが、二重スパイを働いたのかもしれない。真相は定かではないが、解放軍の壊滅も失敗に終わったのだった。
　そんな中、報告を聞いていたコールギンの興味を引いたのは、魔法を使うという吟遊詩人の存在であった。
「ほう、そのような者が。何者か。一度、会ってみたいものだな」
　それは、この地での逗留を余儀なくされ、退屈に辟易していたコールギンの軽口であっただろう。しかし、それはセリカを戦慄させた。
「とんでもありません、閣下。あの者は危険すぎます」
　セリカはウィルの魔性のごとき美貌を思い出していた。その容姿も忘れ難きことながら、ジャニスやマハールを葬った底知れぬ恐ろしさに、今も身が震える。セリカはコールギンの覇道を信じて疑わなかったが、それを阻む者がいるとすれば、評議会や将軍たち、または五大王国の列強などではなく、あの黒衣の吟遊詩人ではないかと予感していた。
　吟遊詩人ウィル。これからは彼の動向を注視していく必要があるかもしれない。しかし、その行方はようとして知れなかった。
　セリカの心配に、コールギンは笑った。
「なにも敵と決まったものでもあるまい。味方にできれば、心強い限りだ。我々は待ち望んでいた軍師を失ったのだからな」
　男爵の噂をコールギンが知ったのは、バスクに帰還してからだった。スカルダ将軍の駐留軍を手玉に取り、わずかばかりの人員で成果を上げる知略にほとほと感心したのだ。そこでコールギンは、その男を仲間にできないものかとセリカを差し向けたのだが、その企てはたった一人の吟遊詩人によって失敗したらしい。ならば、今度はその吟遊詩人を味方にしようという。コールギンという男は若さに似ず大胆不敵だった。
　無論、それくらいの豪胆さがなければ、大陸の統一などという野望を抱くまい。そして、セリカを初めとして、コールギンの下で共に戦う者たちは、それが大言壮語な妄想だとは思っていなかった。コールギン将軍ならば。その信奉はもはや崇拝に近い。
　しかし、コールギンの計画にわずかな狂いが生じたのは確かだった。軍師といえば、右腕も同然。それを得られなかったのは痛手だ。
　このダクダバッド共和国に、男爵に比肩する人材が埋もれているかといえば、それはまず考えられなかった。小さな国だ。それに平和が続きすぎて、精神が弛緩している者が多い。だからこそコールギンは、あえて敵である人物を招こうとしたのだ。
　セリカは、コールギンが今後のことをどのように考えているか気になった。
　そんな彼女の視線にも、コールギンは目を伏せ、ワイングラスを回すばかりだった。
「仕方あるまい。行動を起こすのは先延ばしだな」
　コールギンの言葉に、セリカは少なからず落胆を覚えた。しかし、これはコールギンのせいではない。男爵を軍師として獲得できなかったセリカに責任はある。
「先といいますと？」
　セリカは控えめに尋ねた。コールギンは若い。覇道に歩み出すのが少しくらい遅れても構わないだろう。だが、セリカはコールギンが大陸の覇者になる姿を一日も早く見たかった。そのためならば、どのようなことも厭わないとセリカは思っている。彼女の生命は、すでにこの若い将軍に捧げていた。
　コールギンはしばらく沈黙したが、やがて、その金銀妖眼＜ヘテロクロミア＞が見開かれた。
「ざっと一年後」
「一年後……」
　セリカには、その時間がとてつもなく長く感じられた。
「事実上のリーダーがいなくなったとはいえ、ガリの解放軍は残った。それがまとまり、再び反抗を強めるのが、ざっと一年という計算だ。早ければ半年かもしれぬが、男爵ほどの頭脳と指揮能力のある者がおいそれと出てくるか疑問だからな」
　そのとき、セリカはふと、男爵に背後から刺された少年を思い出した。彼が無事なら、男爵の後継者になり得たかもしれない。いや、まだ年端もいかない少年だったはず。数年後ならともかく、そのまま男爵の代わりが務まるとは思えない。セリカの買い被りすぎか。
「いずれにせよ、今度こそ解放軍が攻勢に出れば、スカルダ一人では抑えきれまい。一方、評議会はガリをどうすべきか、未だに決めかねている。特に望んではいなかったところへ、思いもかけず手に入った領土だ。簡単に手放すわけにもいかず、かといって併呑も容易くはない。どうにも手に余るといったところだろうな」
「それがつけ目ということですね？」
「そうだ。ガリに具体的な策を講じないまま、いずれまた混乱が生じる。今度は評議会も弾劾されるかもしれない。いや、そうならないまでも、民衆は煮え切らない評議会に失望するだろう。そのとき、私が立つ！」
　コールギンはワイングラスを掲げると、ぐっと一気に飲み干した。そして、椅子から立ち上がる。その視線の先には、ルシャフの光景ではなく、新しいダクダバッドが見えていたはずだ。
　セリカは改めてかしこまった。
「閣下がこの国に変革をもたらす瞬間を、私はもちろん、黒獅子のカイン殿や紅蓮の魔術師アベル殿も待ち望んでおります」
　一人の剣士と一人の魔術師の名が出て、コールギンは苦笑した。
「あの者たちなら、一年と言わず、一ヶ月と待てはすまい。だが、必ずや伝えよ。私は約束する。そのときには、お前たちを存分に暴れさせてやると。黒獅子カインと紅蓮のアベル、二人がいてくれれば、五大王国も恐るるに足りず！」
　コールギンは高笑いをした。館から監視の者がいぶかしげに眺めるが、それも気にしない。今は雌伏のとき。やがて大空に翼を広げる雄飛のときは訪れる。
　その後、セリカは前祝いの乾杯をした。
　のちにダクダバッド帝国初代皇帝となる金銀妖眼＜ヘテロクロミア＞のコールギンⅠ世と。

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